【子どもたちの戦争体験】
⇒関連する章:7章
日本の国内外に甚大な被害をもたらしたアジア・太平洋戦争は、「総力戦」とよばれます。「国家の総力を結集して行われた戦争」という意味です。この総力戦においては、政治、経済、思想・文化など、あらゆるものが戦争遂行のために「動員」されました。言い換えれば、あらゆるものが、戦争という目的のために役に立つかどうかが問われたということです。教育や子どもも例外ではありません。学校教育の目的は戦時下の人間形成概念「錬成」へと改められ、子どもたちは「少国民」として戦時体制へと組み込まれていきました(『これからの教育学』7章)。
そうした戦時下の日本社会で、子どもたちはどんな経験をしたのでしょうか。タイムマシンでも開発されれば、当時にもどって調査ができたりするのかもしれませんが、なかなかそうもいきません。ただ、当時の記録を調べてみたり、あるいは、当時子どもだった人たちの証言を聞いたりすることはできます。戦争に関する記憶の風化という問題がいわれて久しいですが、例えばNHKが運営しているインターネット動画サイトNHKアーカイブスでは、戦時下に制作された貴重なニュース映像や、子ども時代のことを語る戦争経験者たちの証言映像が無料で視聴できます。
NHKアーカイブス
https://www.nhk.or.jp/archives/
ただし、「約3万本」とされる動画をすべて見るわけにはいきませんから、うまく検索して関連動画を見つけるのが肝要です。ですからここでは、戦時下の教育や子どもの経験を知ることのできる動画を検索するのに適したキーワードを、簡単な解説をつけて示しておくことにしましょう。もちろんほかにも有効なキーワードはあると思いますので、ぜひみなさん自身で見つけてください。
検索キーワード1:国民学校
1941(昭和16)年の国民学校令によって設置された、戦時下の初等教育機関。「皇国の道に則りて初等普通教育を施し国民の基礎的錬成を為すを以て目的とす」(国民学校令第1条)とされた。「錬成」は「錬磨育成」の意味であり、国民学校は、「知徳相即心身一体の修練道場」(1941年文部省訓令第9号)とされた。総力戦を主体的に担う人間を育てる新しい学校は、従来のような知識偏重教育の場ではなく、子どもの心身を一体的に鍛え上げる「道場」でなければならない、というのがその趣旨である。
検索キーワード2:学童疎開(集団疎開)
子どもたちを都市部から地方に移して生活させるという戦時政策の一つ。将来の戦争資源であるところの子どもを空襲被害から温存するという、「学童の戦闘配置」であった。疎開には親類縁者をたよる縁故疎開と、学校単位で地方に移る集団疎開があった。子どもたちの疎開先の施設としては地方の旅館や寺院などがあてられたが、戦局の悪化にともなう食糧難や衛生環境の悪さからくる感染症等、さらには疎開先でのいじめや過酷な農作業への従事など、疎開先での生活は厳しいものだった。
検索キーワード3:勤労動員(学徒勤労動員)
当時の高等・中等教育機関の学生生徒(学徒)を、食糧増産、軍需品生産、国土防衛など、総力戦を支える銃後の備えのために動員する措置。学校における教育活動を停止して行われる勤労動員は戦時における教育の空洞化にほかならないが、当時は「勤労即教育」、すなわち、戦時下に求められている労働への従事はそれ自体が教育である、という論理のもとで正当化(糊塗)された。軍需工場等へ動員された学徒のなかには、空襲の被害を受けた例も多い。
検索キーワード4:学徒出陣
戦時下に行われた、学生生徒(学徒)を陸海軍へ入営・入団させる措置。当時の日本では兵役法によって「帝国臣民たる男子」の兵役が義務付けられていたが、中学校以上の学校に在学する者には軍隊への徴集が猶予されるという特権が与えられていた。しかし、1939年の兵役法一部改正によりそうした特権が停止可能となり、1943年には理工科系など一部を除いた学徒の徴集が決定する。該当学徒は、神宮外苑競技場で挙行された出陣壮行会を経て、陸海軍に入営・入団していった。これが学徒出陣である。