コラム① 読書の「結界」をとく読書
【神代 健彦】
何かを学ぶとき、読書はその基本です。ですがそれがわかっていても、本を読むのはハードルが高いのも事実。『これからの教育学』を手にとってはみたものの、読み始めるのがなんだか億劫という人も、少なくないかもしれません。しかしわたしたちは、読書に苦手意識をもつ人たちにもわかりやすく、また面白く読んでもらえるように同書を作ったつもりです。ぜひ勇気を出して、本を開いてみてください。
そう簡単にはいかない? そうですか。では、あなたをもう一押しするために、別の本をもう一冊紹介させてください。読書が苦手といっているのに、本を読めなんておかしい? いえいえ、この本は、「本なんか読んでいなくても大丈夫」と訴える、読書嫌いの心強い味方なのです。
P・バイヤール(2016)『読んでいない本について堂々と語る方法』大浦康介訳、筑摩書房
著者バイヤールはフランスの文芸批評家で、大学の教師です。ということは、人一倍本を読んでいるように思われるのですが、しかし彼は、誰もが知るような古典文献すら、自分は読んでいないのだといいます。それどころか、そもそも本というものは、それを読んでいなくてもコメントできる、むしろ読んでいないほうがいい、と豪語します。本当でしょうか。
そこまでいわれてしまうと、彼の批評家・大学教員としての能力や職務への誠実さを、疑いたくもなってしまいます。しかし真偽はどうあれ、そうやって自身の信用を危険にさらしてまで本当のことをいうバイヤールの狙いは、どうやら、読書やそれを語る(批評)ということのハードルを下げることにあるようです。
バイヤール曰く、わたしたちは、「本を読まなければならない」「本を読むときは最初から最後まで通読しなければならない」「本について語るならその本を読んでいなければならない」など、読書の「規範」に縛られています。あるいはそれは、強靭な意志を持った読書人以外を本から遠ざける、「結界」のようですらあります。わたしたちはしばしば、本を読むのが苦手だ、億劫だと言います。それは読書というものを、最初から最後まで全身全霊で「完読」「読破」すべきものと、真面目に考えすぎているからではないでしょうか。そうなってしまうと、中途半端にやるくらいなら、いっそ読まないほうがいい、なんてことにもなります。多くの人がそうやって、本を敬して遠ざけてしまうのも、無理もありません。
しかしよく考えてみてください。そもそも本を「読んだ」と「読んでいない」は、そんなにはっきり区別できることでしょうか。「読んでいない」には、「その本の存在を知らない」「書名を聞いたことがある」「その本の背表紙に目が留まっただけ」「その本の内容を人から聞いただけ」「ざっと目を通しただけ」など、様々なケースが想定されます。そして確かなのは、あなたがある本の「書名を聞いた」「背表紙を見た」「人から内容を聞いた」「ざっと目を通した」というとき、実はあなたは、そもそもその本の存在を知らなかったそれ以前よりは、すでにいくらかその本を読んでいる、ということです。
それでは読んだことにならない? 内容をしっかり理解しなければ、読んだとは言えない? しかし逆に、ある本を完璧に理解するというのも、そうそうあることではないでしょう。また、一度理解した内容を忘れてしまうということもあります。そういえば、『これからの教育学』で言及したプラトンの『国家』は、2400年以上も解釈が争われている本です。そして「読んだ」というのが、「完全な理解に達した」ということを意味するならば、プラトンの本はまだ誰にも読まれたことがない、なんて、とても奇妙なことになってしまいかねません。
要するにこういうことです。わたしたちは、気がつけば、本を「読んだ」と「読んでいない」のグラデーションのなかにいます。そしてそのグラデーションのどこかにさえいれば、わたしたちは「読んだ」といっていいのです。
「読書とは、最初から最後まで通読して、かつ、内容を完璧に理解することだ」
「そうでなければ、読んだといってはいけない」
「まして、なにかコメントするなどあってはならない」
――そんな風にハードルを上げすぎなくても、いいじゃないですか。むしろ古典作品といわれるものこそは、つねに不完全にしか読まれないがゆえに、読み尽くされ、汲み尽くされることがないゆえに、ずっと読み継がれてきたとさえいえます。またそうして読書がつねに不完全だからこそ、それについて解釈を重ね、創造的に語ること、すなわち哲学や批評は、今日に至るまで続いてきたといってもいいかもしれません。
だから読書は、気楽にやっていい。不完全でいい。「本棚から手に取って装幀を眺める」「目次だけのぞいてみる」「その本を読んだ友だちから概略を聞く」でも、立派な読書です。「素敵な挿し絵を眺めて楽しむ」なんてのもいいですね(ちなみに『これからの教育学』には、昼間さんというイラストレーターの素敵な絵がたくさん掲載されています)。まして、「はじめにとおわりにだけ読んで、お手軽に内容をつかんだ」「気になるところだけつまみ読んだ」「あとがきだけ読んで、著者の人となりを想像した」「読みたい本を噛み砕いた入門書(『これからの教育学』みたいな?)を紐解いてみた」なんてことを成し遂げた人は、もう「読書家」を名乗ったっていいでしょう。
そんなに読んで、読み疲れたら? そのときはやめてしまえばいい。そうして内容を忘れてしまったころ、またその本を手に取ればいい。そうすれば、再び新鮮な気持ちでそれを読むという幸せが、きっとあなたに訪れるでしょう。
それじゃダメだという人もいるかもしれません。それじゃあいつまでたっても、ちゃんと本は読めない、と。まあそれはそうなのですが、しかし繰り返しですが、読書は、いつだって不完全なものでしかありえません。重要なのは、自分自身で無意識につくってしまった高い高い読書のハードルを、超えようなどと意気込まないこと。そんなハードルなんて、下をくぐってしまってください。そんな仕方で、本とともにあり続けてください。そして本について、人と大いに語り合ってください。
もちろん、ときには誤読を指摘されて、苦い思いをすることもあるでしょう(そんな時はバイヤールにならって、「ああ、別の本のことと勘違いしてた」といいましょう)。こっそり慌てて、もう一度ページをめくることもあるでしょう(たまたま誤読を指摘された不運を呪いながら)。そして読書って、学びって、まさにそういうことなのです。それでいいのです。『これからの教育学』がそんな風にして、ずっとみなさんとともにある本になればいいな、と思います。
と、バイヤールの本を「読んだ」わたしは思うのでした。