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2024/1/23 最終更新

『これからの教育学』(6章)WEB限定コラム⑧

コラム⑧ 生 活 綴 方

【後藤 篤】

『綴方生活』に集った小学校教師たち

1903年の国定教科書制度の成立後、国語科(「読方」「書方」「綴方」)のなかで唯一国定教科書のなかったのが綴方(作文)でした。この綴方のなかで明治末期から大正期にかけて、子どもの「生」(life)を見つめようとする様々な教育論が登場していきます。これらは、児童文学雑誌である『赤い鳥』や大正新教育に通底する「子どもらしさ」への信頼、本書で扱った「子ども中心の文化と教育」の時代に呼応するものでした。

 

さて、1930年代になると「子どもらしさ」を問い直そうとする小学校教師たちが登場してきます。彼(女)らは、「子どもらしさ」を「童心」に求めるのではなく、ときに大人たちをあっと驚かせるようなイタズラ好きの悪童として、ときに家業の担い手の一人として、日々を生きる子どもたちの姿に価値あるものを見出していきました。「逞(たくま)しき原始子供」という小砂丘忠義(1897-1937)の言葉にも象徴される、このような「子どもらしさ」を耕す方法として、子どもたちに自らの暮らしを作文や詩で表現させ、そこに現れた生活の事実を学級全体で共有していく生活綴方と呼ばれる教育実践が取り組まれ、全国的に広がりをみせます(小砂丘 1933)。

 

生活綴方の全国的展開のきっかけとなった雑誌の一つが『綴方生活』(1929-1937)です。先に紹介した小砂丘忠義、野村芳兵衛(1896-1986)、峰地光重(1890-1968)らが名を連ねた「『綴方生活』第二次同人宣言」(1930年)には、以下のように述べられています。子どもたちに「社会の生きた問題、子供達の日々の生活事実」を観察させるのみならず、教師自身が「生活に生きて働く原則」を掴み、子どもたちと共有していく。これらの取り組みを通して、よりよい生活のあり方(「本当の自治生活の樹立」)を探究していくこと。それが「生活教育の理想であり又方法」である、と。

 

以上のような生活教育=生活綴方の思想に共鳴した読者たちは、全国各地で読者サークルを立ち上げるとともに同人誌をつくり、実践研究を進めていきました。

 

東北地方の生活綴方―「きてき」
当該期に『綴方生活』をはじめとする教育雑誌上において、その地域性を色濃く反映させた生活綴方実践を展開したのが、東北地方の小学校教師(綴方教師)たちでした。昭和恐慌(1930年)を経て、困窮する地方社会。東北大凶作(1931年)も相まって、東北地方の農山漁村では出稼ぎや身売りが社会問題化しました。そのなかで、家に戻れば幼い兄弟の子守りをしなければならない子どもたち。当時の様子を作品(詩)に見てみましょう。

 

き て き
     伊藤重治(四年)

あのきてき
田んぼに聞こえただろう
もうあばが帰るよ
八重蔵
泣くなよ

 

「きてき」(工場の終業合図)が、田んぼに聞こえてきた。働きに出ている「あば」(お母さん)がもうすぐ帰ってくるよ、と小学校4年生の作者は背中に背負った幼い「八重蔵」に語りかけます。この作品を読んだ東北地方の綴方教師たちは、作者と同じような境遇を生きる学級の子どもたちに想いを馳せるとともに、子どもたちのよりよい生活に向けて〈教師としての私〉は何をなすべきかを思索し、その実践に取り組んでいきました(吉田 1993)。

 

戦後になると生活綴方は、日本作文の会をはじめとする民間教育研究団体を中心に理論的、実践的に探究され、今日に至ります(日本作文の会 1993)。

 

参 考 文 献
小砂丘忠義(1933=1980)「生活指導と綴方指導(1)」綴方生活復刻委員会『綴方生活 第七巻』けやき書房
須永哲思(2022)「コラム5 生活綴方運動」山口輝・福家崇洋編『思想史講義【戦前昭和篇】』筑摩書房
日本作文の会監修・編集(1993)『戦前・戦後 日本の学級文集〈別巻〉学級文集の研究――生活綴方と教育実践』大空社
船橋一男(2013)「生活綴方の教師たち」趙 景達・原田 敬一・村田 雄二郎・安田 常雄編『講座 東アジアの知識人〈3〉「社会」の発見と変容――韓国併合~満洲事変』有志舎
吉田六太郎(1993)「岩手の生活綴方群像・その歩み」白い国の詩編『北方の児童文集 岩手編』東北電力