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書斎の窓

自著を語る

東日本大震災と『ソーシャル・エンタプライズ論』

のできるまで

一橋大学名誉教授 鈴木良隆〔Suzuki Yoshitaka〕

鈴木良隆/編
四六判,302頁,
本体2,400円+税

 『ソーシャル・エンタプライズ論』(2014年3月)は、いくつかのできごとが重なってできた書物である。

 もとになったのは、一橋大学経営学修士(通称「MAB」)コースにおける「企業家と社会」という科目の討論資料であった。この科目は、渋沢栄一記念財団の寄附によって設置され、企業者と社会の相互作用について広い視点から取り上げることを狙いとしていた。たしかに「ソーシャル・エンタプライズ」は――当初「ソーシャル・ビジネス」という題名で――コースの終わりのほうに3回分ほど置かれて科目の焦点の1つをなしていたが、それだけを取り上げる科目ではなかった。

 第2年目が終わったとき東日本大震災が起こった。震災後、とくに最初の1年間、わたしはそれまで会ったこともないような多くの人たちに会った。それは被災した各地でいち早く立ち上がった事業者や、事業者を応援している人たちであった。そのことが本書の構成や中身に少なからぬ影響を及ぼしている。

 震災の少し前から、わたしはある機関(独立行政法人)の役員を兼務していた。震災が起きたのは、その業務全般についてレクチャーを受け終えたころだった。震災直後からこの機関は復興の支援を始めた。独立行政法人の業務は法律と予算で決まっているのだが、法律も予算もないうちから、本務のほかに復興支援に乗り出したのである。被災地では、この法人は復興のための機関だと思われることがある。わたしも自分は復興のためにここに来たのではないかと思ったが、そう考えるには次のような事情があった。

 40年余前、大学院を終えたわたしは仙台に職を得て、そこで生活することになった。東京以北に住むのは初めてだった。後に職場が東京に移っても仙台から通い、けっきょく30年近くそこで暮らした。この間、家族や同僚と、あるいはゼミの学生と、機会あるごとに出かけ、そこから非常に多くを受けたのが、今回の震災で大きな被害にあった沿岸各地だった。ゼミにはいつも、今度の震災で被害を受けた地域から来た学生がいた。いまそこで暮らす卒業生もいる。

 震災後ほどなく、仙台・東京間の夜行バスが運行を再開するや、リュックサックにできるかぎりのハムを詰め込んで第1便で仙台に向かった。兼務する機関の東北本部から、非常食なら足りていること、買い物には店頭に3時間並ばなければならないことを聞かされていた。震災後、もっと急いで東北にたたなければならなかった人たちは、すでに新潟や山形経由で出たあとだったが、再開第1便は8台仕立てで満席だった。わたしの乗ったのは、急きょどこからかもってきた送迎用らしきバスだった。同じような平たい背もたれのバスが何台も北に向かっていた。車体には遠方の市役所や消防団の名前も見られた。仙台・東京間を夜行バスが走っていることは、仙台にいたとき聞いたことがあったが、そのお世話になるとは考えてもみなかった。

 4月に入るとすぐ、わたしの兼務する機関では職員40人余りをバスに乗せ、東北道を北上しつつ、途中、職員を少しずつ降ろしていった。職員たちはそこから沿岸部に出て、地域の事業者の被害やその必要を調べた。送り出した職員が戻ってきて発した第1声は、わたしにとって大変な衝撃だった。それは、「被災事業者は、『もう借金はしたくない』と言っている」というものであった。事業のために私財まで担保に入れ、借金して経営してきたが、すべてをなくして借金だけ残ったのである。この言葉は受けとめて答えを出さなければならないと思った。

 この法人は、国の機関がいくつか統合されてできたが、前身の1つは工業団地造成などハード事業にたずさわっていた。統合・法人化とともにハード事業から手を引き、その知識や技術が眠っていた。それを呼び覚まして、被災地がきょうあす食べていくために必要な仮の事業所や仮のまちをつくろう、ということになった。仮の介護施設や、村落でただ1つ生活用品を扱う店や、巨大なテントの市場もつくられ、毎日、進捗状況が報告された。

 他の役員がきょうあすのことにかかりきりになっているあいだ、すぐに役立つことがないわたしは、仮のまちや仮の事業所の先にどのような課題が生じ、どのような解決策が可能かを考えることにした。1つは「もう借金はしたくない」という言葉に対する答えである。いったん途絶えた取引関係や販路をどうつくり直すかとか、雇用をどのように回復するかといった課題もあった。家族のなかで解決されてきた育児や介護が、一挙に新たな課題として明るみに出ることも考えられた。この機関には小さな ――「センター」とよばれているが―― 調査部門があるが、本務を後回しにし、被災地の「あす以降」のために何ができるか、マクロ的な施策を練った。4月中旬、ふたたび夜行バスで仙台に向かったわたしは、この機関の東北本部でその概要を話した。

 手もとの統計によれば、東北3県の被災企業数は約3000に達していた。固定資産の被害額(薄価)は1社3億円として約1兆円と見積もられた。原材料や加工品が流され、土地も使えなくなっているので、事業再開にはそれ以上の資金が必要である。しかし問題の核心は、固定資本部分をどうしたら借金によらないで調達できるかにある。この3000社とは10数人以上を雇うような事業所の数で、被災地域の商工会議所や商工会の会員はこの数倍にのぼった。被災した小規模事業所の数は、この数倍に達するだろう。

 週明けにオフィスに出ると、仙台の職員からメールが来ていた。わたしが話したのと同じようなことが、すぐにも実施されようとしていて、来る4月24日に気仙沼でその発会式があるということが遠慮ぎみに書かれていた。こちらは何人かがかりでようやく考えをまとめるところまできた。あちらではもう実施に移されるというのである。この動きのすばやさに驚いた。すぐ気仙沼行き夜行バスの予約を試みた。

 このすばやい動きは、仙台の若手事業者や県や市の職員をメンバーとするNPOから発したものであった。このNPOの呼びかけに東京のあるマイクロファイナンスが応え、被災地応援ファンドが発足した。復興を期する事業者ごとに被災地応援ファンドを組んで出資を募り、出資額の半分を出資者の応援の気持を込めた寄付とする、というものであった。各ファンドの募集額は平均3000万円ほどだった。

 わたしは資金がどれくらいの期間で集まり、ファンドの数がどのくらいになるかに注目するとともに、3000万円で事業が再開できるかどうか疑問を持った。資金の集まりは速かったが、ファンドの数は約40で終わった。各企業が必要とする資金はこれより1桁大きな額であり、被災した企業数はこの2桁を優に上回る。この方法で復興は可能だろうか。一方でそのように思いながらも、他方では自らの公的立場を損なわないよう注意しつつ、この動きにもコミットした。公的支援は、個々の事業者を救済したり富ませたりすることではなく、それによる地域生活の回復といった公共性を目的とする。他方で、公的支援がまわらないような事業にも、機会が ――それも均等な―― 提供されることも必要と思った。

 この40ほどの事業者とは、ファンドの説明会で会い、現地を訪問して事業の再開を見た。このくらいの額で事業が再開できるのかというわたしの疑問は、杞憂に終わった。かれらの多くは、昨日までの姿に戻るのではなく、いまできることを始めて、それを明日以降につなげていこうとしていた。従業員を解雇しない、顧客への商品納入を断たないという点がすべてだった。一握りの企業が各地で小さなスタートを切ると、それに呼応する企業も出てきた。3000の企業のために1兆円を調達することも、いずれ必要であろう。しかしものごとはそれを待って始まるのではなかった。

 訪問してみると、工場の従業員をOEM製品の営業に転じたり、ワークシェアをしたりして、どの会社も雇用を最優先にしていた。近隣の人たちの生活の糧にとミサンガ編みを取り次ぐ事業者、地元高校生の就職のために被災企業に特別の雇用枠を呼びかけた事業者もいた。みんな地域の崩壊を食い止めるために、何とか雇用を生み出そうとしていた。養護施設と協力し、材料の提供を受けたり、加工を委託したりしている事業者がいたことも判明した。復旧のボランティアを泊めるために、屋根と柱だけ残った母屋を急きょ修理したところもあった。そこに全国のいろいろな団体や企業から人や設備が送られ、被災地で足りなかった資源が充足されていった。ソーシャル・エンタプライズに関わってきた団体は、ホームページのつくり方に始まって、助成金のとり方や新事業開拓の仕方を伝えた。公的支援を使いにくい事業者に対して、建物や機械を寄付する企業も出てきた。被災地応援ファンドの事業者はもともと地域のことを考え、また地域外の事業者や団体との結びつきがあったので、すぐにこうした動きにつながった。ファンドの事業者が中核となって、復旧から新たな地域づくりへの動きが進んでいるところもある。

 国は多額の予算を投じて被災地に盛り土をし、数次にわたるグループ補助金で生産設備を復旧してきた。これまでのところハード中心の復興である。事業活動が再開し、そこにまちが復興するのはこれからであるが、そうなるとハード以外の面で多くの難題が出てくるだろう。

 これに対して、被災地応援ファンドの事業者が地域でしていることは、ソフト面での拠点づくりである。ハードの復興がどう進もうと、自分たちはやっていけるという確信をみんな持っている。

 わたしにとって被災地への関わりは、復興のために次にどのような支援がふさわしいか、という問いから始まった。しかし訪問を重ね、事業者と何度も会っているうちに、ものごとはどのように始まるかとか、ものごとはどのように変化するかとか、震災が起こるまでわたしが想像できなかったような世界はどのように動いているのか、といった本能的興味が頭をもたげてきた。職務上の視察ではもちろん足りず、週末に事業者を訪ねて歩き、そこで見たり知ったりしたことを記録に残した。

 『ソーシャル・エンタプライズ論』の第5章と第7章はこの記録によっている。第9章は、被災地での経験にもとづいて見方を変えた。第12章はその半分以上が東日本大震災の産物である。第2章・第3章の執筆者は、震災当時、わたしの兼務する機関の調査部門にいて、次にどのような支援がふさわしいかを考えた同僚である。ただし、東日本大震災がなかったなら本書はこのような内容にならなかったということは、本書が震災を題材としているかどうか、という意味ではない。阪神淡路大震災はボランティア活動にとっての画期だったとされるが、東日本大震災はソーシャル・エンタプライズにとって同じような画期となっている、という意味である。

 いうまでもないことだが、ソーシャル・エンタプライズの目的は、全体をどう変えるかということにはない。ソーシャル・エンタプライズはミクロの思想である。当事者は不平等な機会のもとに置かれている。だから共感にもとづく応援も助成も活用する。しかし、自分たちの課題を自分で解決するのが目的である。それはミクロに始まり、ミクロに終わる思想である。ときにそれは、乗数効果のように、次つぎと新たな動きを生み出すことがあるけれども。

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