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書斎の窓

自著を語る

『医療マーケティングの革新』

早稲田大学商学学術院教授 恩藏直人〔Onzo Naoto〕

九州大学経済学研究院専任講師 岩下 仁〔Iwashita Hitoshi〕

恩藏直人・岩下仁/編著
四六判,278頁,
本体2,400円+税

 本書『医療マーケティングの革新』が出版されてからしばらくして、私たちは複数の友人から次のようなコメントをいただいた。「研究の範囲を広げましたね」「医療分野に踏み込んだのですね」「新しい領域ですね」。いずれも筆者に対する直接的なコメントなので、ネガティブな意味ではないだろうが、私たちには幾分の違和感があった。

 確かに、私たちがこれまで取り上げてきたマーケティング主体は、自動車、化粧品、清涼飲料などに関する企業であり、医療分野の組織を対象としたことはなかった。だが、病院や医療機器メーカーを取り上げたからといって、私たちがそうした分野の専門家になったわけではない。私たちの専門は、あくまでマーケティングである。私たちはマーケティング研究を純粋に前進させたいと考えていただけで、守備範囲を広げたり新たな領域に踏み出そうなどという思いはなかった。

 マーケティングという言葉は非常に便利で、様々な言葉と結びつけることができる。過去にも、保険マーケティング、金融マーケティング、観光マーケティングなどが用いられていたし、書籍のタイトルにもなっていた。だが、いずれも軸足はマーケティングであり、研究を進めたり書籍をまとめたりする上で、保険や金融や観光の専門家でなければならないというわけではない。今日であれば、電気自動車マーケティングやスマートウォッチ・マーケティングなどがあってもよいだろう。通常、私たちが念頭に置いている業界や企業とある程度の距離感があると、○○マーケティングなどと称して、業界や組織の特殊性とともにマーケティングを論じる傾向にある。

 私たちは医療の専門家になったわけではなく、あくまでマーケティング研究に軸足を置きながら、マーケティング主体として医療組織を取り上げたのである。医療業界のユニークなプレイヤーを対象とすることで、これまでに取り上げてきた企業や組織からは見出すことのできなかった新たな枠組みや論理を導き出そうと試みた。人命に直接関わる極めて特殊な業界であるからこそ、成立している取り組みや発想が存在するにちがいないと考えたからである。そして、私たちは医療業界に属する9つのプレイヤーに光を当てて考察した。

 富士フイルム株式会社とオリンパス株式会社へのヒアリングで見えてきた「製品構想力と製品研鑽力」、テルモ株式会社が実践した「過剰品質の活用」、亀田総合病院や医療法人いつき会が取り組んでいる「対象と対応時間を拡大したニーズ対応」などは、本書をまとめることによって導出されたマーケティング発想である。

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 本書では、医療業界に注目し、「革新的な製品開発」「新たなビジネスモデルの創造」「医療経営の進化」という3つのテーマに分類し、各テーマに該当する組織の優れた取り組みや顧客対応などについて明らかにし、医療マーケティングの現状や課題を整理してきた。医療業界におけるマーケティングの議論は、単に医療業界のマーケティング水準を引き上げるだけでない。本書で導出された枠組みや論理は、マーケティング研究者のみならず、優れたマーケティングを目指す他の業界や企業にとっても貴重な示唆となり、医療業界を超えて展開できるはずである。「異業種の知恵」という言葉があるが、医療業界で生じている取り組みや革新は、他の業界にとっても参考になり、ひいては、マーケティング研究全体の底上げへと結びつくはずである。

 ポンペイワームという生物がいる。これは、熱水が噴出する周辺に生息しており、暑さに強い生物の一種として知られている。一方で、寒さに強い生物もいる。セッケイカワラゲは、マイナス65℃以下にまでなる南極のみに生息する昆虫である。あるいは、通常の生物は一時的であっても存在できない水深約8000メートルという高水圧のなかで生息するシンカイクサウオといった深海魚もいる。

 灼熱の砂漠や極寒の海に生きる生物に、温暖な地に生息する生物とは異なる特徴があるように、特殊な業界であればあるほど、そこで取組まれている挑戦や革新には、世に知られていない特徴が存在しているはずである。私たちが医療業界に注目したのは、まさにこの点にある。

 マーケティング研究の前進を求めるためには、様々なアプローチが可能だと思われる。そうしたなか、私たちは特殊性のある業界に目を向け、そこから新しいマーケティング論のヒントを導出したいと考えたのである。本書を端緒として、マーケティング研究者たちが医療業界をはじめ、特徴を有する業界に目を向け、そこからの知見によりマーケティング研究の発展へと結びつくことを期待している。

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 本書の刊行を思い立ったのは2016年春であり、その時点で、私たちは株式会社セントラルユニをはじめ企業5社への取材を既に終えていた。したがって、その時点において本書の全体像はイメージできていた。ところが、残りの章を執筆するにあたり、医療機器メーカーや医療機関などにおける特異なプレイヤーを探そうとすると、一筋縄にはいかなかった。医療機器メーカーや医療機関には優れたプレイヤーが少なくないが、大半は従来のマーケティングの枠組みや論理で優越性の背景を説明することができ、単なる優秀なプレイヤーとしてしか捉えられなかったからである。

 ヒアリングを重ねたり、知人からの紹介を受けたりするなどして、ようやく辿りついたのが富士フイルム株式会社、医療法人いつき会、志村総合病院、薬樹株式会社である。本書の中で述べてきたように、それらのプレイヤーからは、これまで我々が接してきた企業では容易に見いだせない枠組みや論理を導出すことができた。

 例えば、第5章「顧客対応の革新」では、新たな顧客対応の枠組みを示している。顧客対応を改善するためにサービス企業は従来、サービス品質の向上やサービス工業化といったアプローチを採用してきた。だが、薬樹株式会社では、これまでとは異なるアプローチによって、新たな顧客対応を実現している。PRESUSというITシステムを活用することで、薬樹の薬剤師たちは患者一人ひとりに適切にカスタマイズされた心に響く言葉を伝えている。これにより、初対面の患者であっても、長年の付き合いがあるかのような深いコミュニケーションを実現できるのである。

 第8章「医療機関におけるコンタミネーションの影響」は、他の章とは異なるまとめ方をしている。コンタミネーションとは近年、マーケティング研究や消費者行動研究で注目されている概念の1つであり、他者による製品の接触や使用の痕跡から、当該製品に対して別の者が感じる汚れや手垢などに関する知覚である。

 コンタミネーションに関しては既に、スーパーやコンビニエンスストアなどの環境で研究が取り組まれているが、医療機関という空間には光が当てられていかった。私たちは、この概念が医療機関と親和性を有しているのではないかと考えた。

 本書の執筆を通じて、様々な医療機関を訪れるたびに、私たちはコンタミネーションのメカニズムを解明するのに医療機関が絶好の場であるとの確信を深めていった。例えば、風邪をひいた小さな子供を近所の診療所に連れていった時をイメージして欲しい。入口において、前の患者が履いていた温かさの残るスリッパを履こうとして、抵抗を感じた方は少なくないはずである。現実には起こりえないだろうが、スリッパを通じて他の患者の病原菌が感染しそうな気がしてしまう。

 終章では、医療機関への訪問をイメージさせた消費者にアンケートを実施することで、コンタミネーションがどのような状況で生じ、医療機関に対する患者の態度にどのように影響するのかを明らかにしている。

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 マーケティング研究で最もよく知られている学術誌Journal of Marketingで、ある興味深い論文が発表されている。この論文によると、新製品を開発する過程で、完成前の試作品を顧客に手に取ってもらい、使用直後に「アハ (Aha)!」と感嘆の声をもらすかどうかが成功の鍵を握るというのである (Lakshmanan, Krishnan, and Shanker 2011) 。

 人々が手にした瞬間につい声を上げてしまうような製品は、ユニークさや目新しさを備えているため、市場投入後に成功する確率が高いというのである。実際、韓国のサムソン電子は、この「アハ!」に類似した「ワオ!テスト」を実施し、個性的な輝きを放つ製品をいくつも世に送り出している。私たちは、医療業界のプレイヤーに対するヒアリングを重ねてきたが、私たち自身「アハ!」と感嘆の声をあげてしまうような驚きの場面に数多く出会った。本書はまさに、そうした「アハ!」で構成されている。

 本書は、恩藏と岩下によって編纂されている。恩藏は、執筆者たちの大学院時の指導教員として全体的な構想をリードし、岩下は実務的な面から編纂に携わった。ヒアリング先とのアポイントメントをはじめ、各執筆者との内容調整、さらにスケジュール管理などの大半は岩下が行った。

 一人で書き上げる単著では、論理の一貫性を実現しやすく、問題意識がブレないなどのメリットがある。一方、複数の執筆者による共著では、ややもすると、問題意識における足並みが揃わず、アウトプットイメージもバラバラで、書籍としての統一感や主張があいまいになりやすい。本書では、執筆者間での意見交換を頻繁に行いながら、各章における主張や方向性がブレないように心がけた。

 本書の内容の大半は、ヒアリングという定性調査に基づいている。医療分野の優れたプレイヤーたちの特徴や実態が浮かび上がってきた段階であり、マーケティング研究という点でいうと、ようやく出発点に立てたところである。研究論文としてまとめるためには、定量調査なども行い、統計的な分析を実施する必要があるだろうが、私たちの研究を進める上で本書は大きな一歩となっている。

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