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書斎の窓

巻頭のことば

化石の言い分

第5回 ブータンにおける時間と空間

法政大学大学院法務研究科教授 交告尚史〔Koketsu Hisashi〕

 前に土地利用の研究会でお世話になった梅田勝也さん(日本開発構想研究所)から、国土利用計画の分野でブータンを支援したいので意見を聞かせてほしいとの依頼があった。調べてみると、ブータンは九州程度の面積で人口は70万人ぐらいであるが、元々森林を重視するお国柄で、2008年施行の憲法(5条3項)により、政府は国土の少なくとも6割を森林として維持しなければならないと規定している。しかも、残りの4割のすべてが居住地域になり得るわけではなく、目下のところ首都ティンプ周辺に人口が集中しているようだ。そうすると、その一極集中の是正を睨みつつ、森林以外の土地をどう利用していくかが今後の重要課題となろう。梅田さんによれば、国土利用計画の策定をデンマークが支援したという事実があるらしい。それでデンマークの計画法に関する私の論文を思い出して、連絡を下さったのであろう。

 ところが、当時の私は、ブータンと言われて頭に浮かぶのはブータンシボリアゲハだけ。これはヒマラヤの美しいアゲハチョウで、尾状突起が3本ある。1933年と1934年に英国人によって採集されたが、その後は報告がなかった。この幻の蝶を求めて、2011年7月末に日本から調査隊が入った。メンバーの一人である矢後勝也さん(東京大学総合研究博物館)とは面識がある。矢後さんに梅田さんと会っていただくのがよいと思いついた。フィールドに出た蝶の研究者は、けっして自分の好きな蝶を追いかけているだけではない。生息地の環境、成虫が吸蜜する花、幼虫の食草、産卵の場所、共生関係等々に注意を払いつつ行動している。そういう眼で捉えた樹木や草本植物等に関する知見が梅田さんに伝われば、今後の思索に役立つはずである。会見は直ぐに成立した。その時梅田さんはブータン行を計画されていたが、訪問先としてタシヤンツェを予定しておられた。矢後さんたちがブータンシボリアゲハを発見した場所は、地図の上ではそう離れていないらしい。

 矢後さんらが現地で撮影してこられた蝶の写真を見ると、南方の蝶と北方の蝶が混在していることにアマチュアの私でも気づく。一日のうちに、北方の高山からの冷風が支配する時間帯と、南方からの風がそれを追い払う時間帯があるために、同一の空間に両方の蝶が生存し得る状況が生まれるのだと矢後さんが説明して下さった。報文にも、亜寒帯系のヒマラヤコヒオドシと熱帯系のアオタテハモドキが一緒に吸蜜するという「異様な光景」に触れた箇所(カルマ ワンディほか「幻のブータンシボリアゲハを追って」Butterflies、62号〔2012年〕、11頁)がある。

 他方、世間では1972年に第4第国王が提唱された国民総幸福量の概念が注目されているようだ。その背景には持続可能な社会の実現という方針があり、さらにそれを「人間だけでなく、すべての生命のことを考える」という非人間中心主義の倫理が裏打ちしているようである(熊谷誠慈編著『ブータン』創元社、2017年、180頁[草郷孝好])。この方針が断固として維持されれば、無意味な開発による自然空間の破壊は避けられるかもしれない。また、いかに魅力的な近代技術であっても、それを「今の時点」で取り入れるのがよいかどうかは、住民がしっかり話し合ったうえで決めるという方針も打ち出されていると聞く(今枝由郎『ブータンに魅せられて』岩波新書、2008年、131頁以下)。身の丈にあった開発と決定プロセスの有り様として、我々が学ぶべき事柄であろう。ブータンの人々にはブータンシボリアゲハを末永く遺す叡智があると信じる。

 ところで、ブータン研究と言えば、中尾佐助という先達がいる。中尾は植物学を基礎としアジア各地を踏破して照葉樹林文化論を構想したが、ブータン調査(1958年6月入国)の最中に、ラバと自動車の積載量や走行量を心の中で比較し、両者の恐ろしいまでの懸隔を認識しつつ、こう語っている(中尾『秘境ブータン』(岩波現代文庫、2011年、96―97頁)。「……一方で人間の楽しみ得る物質的な幸福が、その生産力や輸送力の違いほど決して違っていそうもないことに別な感慨をおこさずにはいられなかった。」

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