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連載

人生の智慧のための心理学

第8回(最終回) 役に立つ人生の智慧

東京大学名誉教授 繁桝算男〔Shigemasu Kazuo〕

 昨年の7月からの連載であるから、1年間続いたシリーズもこれで最後である。

 このシリーズでは、本稿の筆者から提起した6つの質問に対して、著名な心理学研究者が回答した。読者の目から見て、これらの質問は日頃疑問に思っていることと重なっているであろうか、また、答えに満足されたであろうか?

 心理学では周辺的な領域(心理統計学、ベイズ的意思決定)を専門としている筆者が抱く疑問は、心理学の枠の外から心の不思議さを感じている方の疑問にも近いのではないかと思っている。この連載の最終稿では、これまでの問いと答えを、人生で出会う意思決定に役立つ知見であるかどうかを中心に、筆者の観点からまとめてみる。なお、本稿では、役に立つ智慧は信頼できる因果関係の認識に基づくものであることを前提としている。

 第1の質問は、経済格差が学力格差を生むという因果関係を吟味することがねらいであった。経済格差の指標と学力調査の結果が相関を持っているというデータがしばしば報道されている。最近でも、6月27日の朝日新聞で、全国学力調査を受けた小6と中3の保護者に対して行われた調査データの分析結果が報告されている。この調査では、両親の収入や学歴をもとに「上位層」「中上位層」「中下位層」「下位層」の4群に調査対象が分類されたが、これらの群において、小6、中3ともいずれの教科も、層が上がるほど学力調査の平均正答率が高いという結果であった。この記事を読めば、経済格差が学力格査を生むという因果関係があると考える人もいるかもしれない。しかし、変数の間に相関がある、あるいは、実験的操作のないグループの間に差がある(これも相関データの一つの形である)ということだけでは、厳密な意味では因果とは認めがたい。関連する多くの変数を長期間観測すれば、どのような相関データにも因果的な説明モデルを作ることはできる。しかも、同じ相関データに複数のモデルを作ることができ、そのどれが正しいのか決めるのは難しい。心理学などの人文社会科学においても、因果関係による説明は、当該の変数以外は無視できる条件で、当該の変数を人為的に操作することによる影響であると限定するほうが生産的であろう。因果関係をこのように把握して、経済格差は教育的な達成に影響するという主張を吟味する。厳密な意味でこの関係が因果関係であると主張するためには、無作為に児童を富裕家庭か窮乏家庭で育つように割り当てる必要があるが、もちろん、そんなことは現実にはできない。かろうじて実験的な操作に近い状況を見つけて因果を確かめようとする研究もある。例えば、Akee et al.(2010)の研究で使うデータは、1993年に始まった北カロライナ州での大規模なコホート研究である。すなわち、三つのコホートの児童を16歳まで継続的に調査し、その後も19歳と21歳になった時点で再調査している。この調査の途中1996年に、チェロキーインディアンの居住区にカジノができ、それの収益の一部がインディアン家族に支給されたのである。最初のコホートよりも、あとのコホートのほうが、この収入増の恩恵を被る。このコホート間の学力の差の一部は外的に操作された環境の差異の影響である。この擬似実験では、貧困層にもたらされた収入の増加が学力を高くし、犯罪発生率を低くする効果があった。経済格差と学力格差の間の因果関係は、無作為割り当てではないが、擬似実験的な状況で、確かめられたと言える。

 しかし、経済格差と学力格差の因果の時間的な広がりの中には、介在する要因が多数ある。学力の因果的説明においては、児童の学習環境を変える要因が重要である。この意味で、内田先生の答えは貴重である。育て方がその因果関係に仲介する要因としてあり、例えば、共有型しつけ(『3Hのことばかけ』、「める」・「げます」・「(視野を)ろげる」ことばかけ〔愛情深い情緒的サポート〕を特徴とする)か強制型しつけかという選択があれば、共有型のしつけをすればこの因果の鎖を断ち切れるということを内田先生自らが収集されたデータによって説得的に主張されている。経済格差が学力格差を生じるという因果が存在するとしても、それは集団的な因果であり、その因果的影響を覆す介在要因は数多くあると考える。

 実は、最初に内田先生に聞いてみたかったのは次の質問であった。「スポーツや音楽の世界で世界的に活躍する人はみな早期から教育を受けていると言っても過言ではないような気がする。また、古代アテネは、当時10万人の人口と言われていたのに、文学に、人文科学に、自然科学に多くの天才を生み出してきた。この原因は当時のアテネにおいて早期教育が常識であったせいであると言う説がある。このように考えると、早期教育がもたらす可能性の豊かさに目が向いてしまう。ところが、世間では早期教育に対する反対論が根強い。早期教育は児童の発達にとって望ましくないのだろうか?」

 経済格差が学力の格差を生じるという因果を帳消しにする方法は教育である。逆に言えば、優れた教育は、この因果を覆す介入である。鈴木慎一先生が始め、世界に広まっている スズキメソードの理念は、“どの子も育つ、育て方ひとつ”である。鈴木慎一先生は、エリートの音楽家を育てるためにバイオリンの早期教育を提唱しているわけではない。すべての子供が音楽の環境を適切に作れば、音楽を作り、鑑賞することができるという実践である。早期教育は、幼稚園受験などと結びつけて報道され、社会的な評価がゆがんでいるように思う。早い時間に正答に到達する術を教えるのは、早期教育の理想の対極にある発想であろう。幼児が喜んで受け入れる限り、遊びのようにいろいろなことができるようにする早期教育はむしろ望ましいと思う。無作為割り当て実験は当然できないので、妥当な統計モデルによって交絡する変数の影響を除去して早期教育の効果を比較考察するデータの蓄積に期待したい。

 第2の質問は、司法における証言は信用できるのかという問いであった。回答者は仲先生である。アメリカでは、裁判の証言に関して、仲先生の友人であるエリザベス・ロフタス氏の戦いが有名である。彼女は実験室で植え付けられた偽の記憶が生き生きとした細部描写やそれが本当であるという確信を伴うことを実験室実験によって明らかにしただけではなく、裁判において間違った証言によって苦境に立つ人の弁護のために実際に裁判で証言し、世論を喚起するために活発な文筆活動を展開した。

 日本でも冤罪が大きなニュースになるが、証拠に内在する不確実性を判決という結論に結び付けるのは容易ではない。複数の証拠を集めてそれらの間につじつまの合う、すわりの良いストーリーを求める司法関係者の発想は、不確実性をしばしば無視することにつながる。複数の不確実なデータから情報をどのようにまとめて結論に至るかについては、心理学の意思決定の理論から示唆できる部分が大きいと考える。また、証言をより正確にするために、心理学研究者の知識がもっと活用されてよいと考える。仲先生は、心理学の知見を取り入れた方法の開発や訓練を実施されている。このような努力が、犯罪者の同定に結び付く有効な証言を引き出すために役立つことを期待する。

 世の中には完全な記憶を有する人もごくまれに存在するらしいが、必ずしも、その能力は人の幸せには結び付かないようである(ルリア、原著出版は1968年)。普通の人の記憶はあいまいであり、自分の自我の都合の良いように変えられる。作られた記憶のほうが生々しい場合もある。これは心理学の基礎知識であるが、このことを知っているだけでも、日常的な会話をスムースに進ませることができる、人生の智慧となる。

 第3の質問の原点は、筆者が若いころ勤めていた大学で、尊敬していた先輩(哲学の教員)が、酒席ではあったが至極まじめに「外の世界が実際に存在することを立証せよ」と尋ねたことである。「頬をつねってみて痛いと感じれば現実だ」いう答えと似たようなものだが、その折の私の答えは盲点の存在である。盲点があることは外的に確かめられる。ところが、視覚を統括する脳が見えない部分を適当に補正しているから主観的には盲点の存在に気が付かない。この私の素朴な説明以上にきっぱりと外側の世界は存在するという客観的な現象はないものかという問いのつもりであった。

 北岡先生は錯覚について数多くの興味深い研究をされており、彼のホームページは必見である。それだけに、北岡先生のような錯視の研究者においては、外の世界があることは疑いのない前提のようである。

 第4の質問は、夢についてであった。読者の中には夢であると自覚しながら夢を見る経験をした方も多いであろう(このような夢は明晰夢と呼ばれる)。筆者自身、夢の中で事態が好転するように必死で願っているのに夢の中での事態はますます悪くなっていくという経験がある。夢を何とか利用して、良い人生を招くことはできないかというのがこの問いの動機であった。そのために、明恵上人の例を持ち出したのだが、明恵上人が夢をコントロールできたというのは筆者の記憶間違いであった。記憶は自分の都合の良いように変わりうるという一つの事例である。北浜先生からはこの誤解にも関わらず丁寧な答えが得られた。どうやら、夢に意味を与えるのは覚醒した状態での作業であるらしい。そうだとしても、夢に対する日常の対し方が、夢に意味を与え、ひいては、生き方にも良い影響を与えると思いたい。これも仮説にすぎない。この仮説に含まれている因果関係を明らかにするためには、例えば、夢を記録し、その夢にポジティヴな意味を与えるように教示する群と、特にそのような教示をしない群とに何か違いを生じるかというような実験はどうだろうか? なお、この実験でも、無作為割り当ては教育的に適当ではない。希望者を上手に割り振ることになるが、操作条件以外の変数を無視できる推論ができるかどうかは、因果関係を切り出すことができる有効な統計モデルを立てられるかどうかに依存する。

 第5の質問は、進化論についてである。進化とは、環境に適したDNA構造が残ることによる、DNAの変化を指し、DNAが変化するには長い間の世代の交代が必要である。それが人間の心にどのような影響を与えているかを研究するのが進化心理学である。例えば、数百人の部落を意味のある全世界とみなしていた頃の感情システムが、ネット全盛の時代にもまだ引き継がれているとされている。この齟齬は、進化心理学的に考察すべき格好の話題である。長谷川先生の答えでは、進化心理学は心についての基礎的な研究であり、即席のアドヴァイスには適していないというお考えのようであるが、この進化心理学的理解は、人間の活動の種々の場面で智慧になりそうである。例えば、最近のForeign Affairsでは、部族(tribeをこう訳しておく)的感情を外交でも理解しておくべきだという興味深い記事を読む機会があった(Chua, 2018)。たとえば、ベトナム戦争、アフガニスタン介入、イラク紛争、シリア紛争などにおけるアメリカ外交は、イデオロギーよりも、そして、ときには、宗教よりも同じ「部族」に属することの影響力を過小評価していることが指摘されている。

 第1番目の質問における因果の連鎖において、経済格差を生じる前の原因について考察する必要はないのかと考えた読者もいるかもしれない。遺伝的素質がその候補である。率直に言えば、遺伝的素質が経済格差を生じるという可能性はあると思われるが、もしそうだとしても、経済格差からの因果の連鎖における教育の価値が減じるわけではない。また、このことに関して、長谷川先生の言を引用する。「ヒトの遺伝子は少なくとも2万個あり、その約3分の2に機能の異なる遺伝的多型があるといわれる。少なく見積もって1万個の遺伝子に3つの遺伝子型があるとすると、その組合せは3の1万乗、まさに天文学的数字であり、一人一人の遺伝的個性はこの世に一度きりの希有なものである。このような多様性を恣意的な少数の物差しで差別化することは、豊かな人間個性の矮小化にほかならない。この世の誰が最も優秀で誰が最劣かを決める術はない。別の見方をすれば、人は誰でもなんらかの望ましくない形質を抱えながら生きている」。

 第6の質問は意思決定についてである。人生の智慧は、意思決定の場面で意味を持つべきである。楠見先生は、決定を、瞬間型と熟慮型に分け、人生で重要な意思決定は、熟慮型であり、あれこれ考えて決定すべきであるとされている。熟慮型の場合でも意識的に考えるだけではなく、無意識的な感情をどのように決定に組み入れるかが問題である。楠見先生のアドヴァイスは、「直観に照らして、しっくりくるものかをチェックして、違和感があったら、その理由が言語化できなくても考え直す」である。筆者自身の考えについては、拙著(2007年)を参照していただければありがたい。

 多忙にもかかわらず、快く執筆を引き受けていただいた回答者の先生方は、多くの研究論文だけではなく、わかりやすく読みやすい本も多数出版されている。この連載での答えはページ数が限られており、納得できない部分は彼・彼女たちの著作を読み、それでもなお、納得できない場合には、本稿の著者の代わりに第3の質問を考えてほしいと思う。

参考文献

Akee,R.K.Q., Copeland,W.E., Keeler,G., Angold,A., and Costello,E.J. (2010)

Parents’ Incomes and Children’s Outcomes: A Quasi-Experiment Using Transfer Payments from Casino Profits American Economic Journal: Applied Economics 2010, 2:1, 86–115.

Chua, A. (2018) Tribal World, Group Identity is all. Foreign Affairs Vol.97 No.4 July/August 2018

A・R・ルリア(天野清訳)『偉大な記憶力の物語――ある記憶術者の精神生活 (岩波現代文庫、2010年)

繁桝算男『後悔しない意思決定』(岩波書店、2007年)

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