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連載

新・民法小説 第2回

東京大学法学部教授 大村敦志〔Omura Atsushi〕

第3話 小説だけが媒体ではない?

1 「今日はこれで終わりです。外はまだ暑そうですね」。花村は、まだ明るい窓の外に視線を投げた。夏の陽はなかなか落ちない。

 

「急な話ですが、ビールでも飲みませんか。このあと小一時間、時間がある人は、私についてきてください」

「ビア・ガーデンですか。いいですね。行きます」

 

 元気よく応じたのは、紅谷建人だ。ほかにも何人かが花村の後に続いた。建人は3年生でまだ専門課程に進学したばかりだが、この夏からイギリスに留学するらしい。子どものころアメリカに住んでいたので、英語に対する苦手意識が低いようだ。性格も少しアメリカ風だ。

 

「先生、このあたりのビア・ガーデンってどこですか?」

「残念ながら、このあたりにはありません。以前はキャンパスに隣接して学士会館の分館があって、そこにはビア・ガーデンもあったんだけどね。今ごろの季節には、ゼミの後によく行きました」

「その話、父から聞いたことがあります」

「そうですか。白川さんのお父さんぐらいの年齢なら、ご存じでしょうね。お父さんも法学部ですか?」

「ええ、そうです。刑訴のゼミでした」

「刑事法の先生方は、よく学生を連れてビア・ガーデンにいらっしゃいましたね。ほかにも何組も、ゼミの後に来ている、というグループがあったな」

 

 父親も法学部出身だという白川彩香は4年生で、法科大学院に進学希望だと聞いている。今学期の花村ゼミは、男子6名、女子5名、それに助教の黒岩雄介も出席している。いま花村と一緒に歩いているのは、男子が3名、女子が2名だ。もう一人の女子は中国からの留学生だ。花村は留学生に話しかけた。

 

「鄧さん、中国でも、学生たちは先生とお酒を飲んだりしますか」

「どうでしょうか。あまり聞いたことはありません」

「日本みたいな飲み会ってないの?」

「紅谷君、『飲み会』じゃなくて『コンパ』と言ってください」

「えっ、飲み会じゃないんですか?」

「コンパと飲み会は重なりあうけれども、違います。どう違うかは、後で調べておいてください」

 

2 助教の黒岩が、ビールを注いだコップを皆に渡している。彩香にも暁月にもコップが渡った。小さなテーブルには、せんべいやナッツなどが並べられている。

 

「じゃあ、乾杯しましょう。今日もお疲れさまでした」

「乾杯!」

「黒岩君、買い物、ご苦労様でした。皆さん、食べてください」

「先生の研究室で、飲み会するとは思っていませんでした」

「紅谷君、飲み会じゃないって」

「あっ、そうでした」

「黒岩君、紅谷君がね、飲み会とコンパの違いはどこにあるかって言うんだけど、君、説明できる?」

「コンパは学生が集まってお酒を飲むってことですか?」

「そう。学生が自主的に、という点に重点がある。もともとコンパニーだからね」

「カンパニーじゃなくて、コンパニーって、イギリス式ですね」

「戦前の旧制高校の英語はイギリス式だったんでしょうね。紅谷君はイギリスに留学するなら、明治・大正期における英語の普及について調べておくといいかもしれない。少なくとも雑談の話題になりますよ」

 

 花村ゼミのテーマは「明治・大正期における法知識の普及」だ。だから、ということもあるが、花村はゼミの最中にも「明治・大正期」に関するあれこれの雑談をする。

 

「このゼミもあと1回だけですね。皆さん、どうでしたか?」

「面白かったですよ、先生。自信を持っていいです」

「それは、ありがとうございます」

「でも、紅谷君、結論だけじゃなくて、理由もちゃんと言った方がいいと思うけど」

「じゃあ、そう言う白川さんから、まずどうぞ」

「私は、自由民権の話が面白かったです。自由民権というと、政治の話だと思っていましたが、それが法学と繋がっているというのは意外な発見でした」

「よしやシヴィルは不自由でも、ポリティカルこそ自由なら〜」

「紅谷君は、そういうところはよく覚えていますね。でも、大事なところではあります。市民的自由と政治的自由の関係については、フランス民法の最初の方に条文もあるわけだし」

「私は、民権運動の人たちが、旧民法を読んでいたという話が印象に残りました」

「明治初期には、フランス民法の注釈書がたくさん翻訳されています。本当に驚くほどの数です。そして法律家だけでなく地方の豪農などにも、こういうものを読んで勉強している人がいたわけですね」

 

 しばらくの間、中江兆民や福沢諭吉の話など、自由民権運動に関連する話題が続いたが、花村は、留学生の暁月に水を向けた。

 

「鄧さんは、何が面白かったですか?」

「私は、先生が少し触れた講義録の話が面白かったです。私は地方の出身ですので、北京の大学に入学するために勉強するのが大変でした。明治時代の日本でも、講義録で勉強する人たちがいたという話は、よく理解できました」

「そうですか。じゃあ、講義録の話をもう少ししましょうか」

 

3 花村は、問わず語りに話し始めた。どうやらスイッチが入ってしまったようだ。いつの間にかカバンからノートを取り出している。

 

「ゼミのときにもお話ししましたが、明治期の私立法律学校は大体どこでも、講義録というものを出版していたんです」

「先生、その私立法律学校というのは、今もあるんですか?」

「鄧さん、それはいい質問ですね。当時の私立法律学校というのは、和仏法律学校、明治法律学校、英吉利法律学校、東京専門学校などですが、それぞれ今では、法政大学、明治大学、中央大学、早稲田大学になっています。日本の大学というのは、帝国大学を別にすれば、法律学校からスタートしていると言うこともできるんですね。鄧さん、中国では19世紀末に京師大学堂ができて、これが北京大学になりますよね。でも、京師大学堂は法律学校というわけではありませんね。むしろ、胡適とか魯迅とか文学中心の感じがします」

「私の知る範囲では、京師大学堂はセイの時代の学校ですので、官吏養成のための学校だったと思います」

「そうですね。鄧さん、日本では『明』『清』は『みん』『しん』と呼んでいます。『唐』『宋』は『とう』『そう』なのにね。これも、紅谷君、後で調べておいてください」

「えっ、それもオレですか?」

 

 ここで、花村は講義録の話に戻った。大略、次のような話だった。

 当時の法律学校はどこでも、校内生(入校生)のほかに校外生を置いていた。校外生は、学校に通学することなく、定期的に送られてくる講義録を用いて学習していた。つまり通信教育である。校外生の存在は重視されており、たとえば英吉利法律学校の設置広告に掲げられた「校則」七ケ条のうちの一ケ条には次のように書かれていた(強調は原文のもの)。

 

 遠隔ノ地方ニ在リ又ハ業務ノ為メ参校シテ親シク講義ヲ聴ク能ハザル者ノ便ヲ計リ校外生ノ制ヲ設ケ講義ノ筆記ヲ印刷シテ之ヲ頒チ且就学証書又ハ卒業証書ヲ受ケント欲スル者ハ望ニ依リ試験ノ上之ヲ授与スベシ但校外生ニ関スル細則ハ別ニ之ヲ定ム

 

 さらに、英吉利法律学校校外生規則(明治18年9月)には、「何人ニ限ラス此規則ニ従ヒ校外生タラント欲スル者ハ試験ヲ須ヒス何時ニテモ入学スルコトヲ得ヘシ」「教科及ヒ修業年限ハ入校生ニ同シ」、そして「校外生ニハ毎月講義筆記ノ印刷頒布スヘシ」などの規則が置かれていた。

 校外生制度は大きな成果を挙げた。たとえば、明治法律学校の場合、明治20年(1887年)の第一期会員は約8,500人であったが、明治35年には12,000人を超えた。財政的に見ても、明治33年度の授業料収入のうち60%を占めていた。

 

「ということは、結局、私立法律学校は講義録を売って、財政基盤を確立したということですね」

「確かに、紅谷君の言うような側面はあったけれども、それだけではありません」

 

 花村はノートを繰りながら話を続けた。ある研究者によれば、明治法律学校の通信教育の趣旨は次のように説かれていた。「本校創設以来、多数の学生を教育してきたが、法律の普及という建学の目的はなお遠く、とても満足できるものではない。国会開設、条約改正は間近に迫っており、法律知識はいっそう必要になっている。欧米の法律に通じ万国対峙のわが国を生み出すためにも、東京に集中する学校生徒のみではなく、地方有志者にも講法の便を図る必要がある」。実際のところ、国会開設や条約改正に加えて「帝国憲法発布をはじめとする諸法典編纂の動向が、世間の法律熱を高め、法律総学習の時代を迎えていた……。上京する遊学生のみならず校外生も拡大する時期であった」のであると。

4 ひとしきり語って満足したのか、花村はノートをカバンに戻して、再びコップを手にした。空になっていたところに黒岩がビールを注ぐ。

 

「先生、法律学校創設のころのお話も面白かったのですが、私は、それよりも後の、大正時代の話が興味深かったです。大正デモクラシー法学が法の普及を大事にしていたという話です」

「自由民権法学と大正デモクラシー法学は、その点では連続していますね。講義録の話をしましたが、大正時代に始まった法学全集の一つの淵源は講義録でしょうから」

「もう一つの淵源は『円本』だとおっしゃってましたね」

「『円本』が大成功を収めたので、文学全集ではなく法学全集をやってみようということになったのだと思います」

「法学全集がうまくいったので、それを引き継ぐ形で法律雑誌が創刊されたというお話もありました」

「何だか補講みたいになりましたね。そろそろお開きにしましょう」

第4話 民法小説を企てたのは誰か?

1 トンネルを抜けると列車はさらに速度を落とした。満席に近い車内のあちこちで人が立ち上がり、降車のための列ができている。暁月もリュックを背負い、お土産の入った紙袋を手に持って列に並ぶ。日本に来て3ヵ月あまり、T大での最初の学期もようやく終わった。暁月が出席している授業も昨日の夕方の花村ゼミが最後だった。今朝はちょっとだけ朝寝坊を楽しみ、ゆっくりと食事を済ませて、10時の「のぞみ」に乗った。そして、列車はいま京都駅のプラットフォームに入ろうとしている。

 夏休みには中国の実家に帰ろうと思っていたのだが、あいにく両親は、姉が住むニューヨークに初孫の顔を見に行ってしまった。暁月は黒龍江省の牡丹江市というところで生まれた。両親はしばらく前からハルビンに住んでいるが、祖父母は今でも牡丹江の市内で暮らしている。両親が留守のハルビンに戻ってもつまらない。祖父母のいる牡丹江市は懐かしい故郷ではあるが、日本からは帰るにはちょっと不便だ。

 京都には叔母がいる。暁月が日本に留学することを知って、叔母は京都に遊びに来るように、と熱心に勧めてくれた。1週間ほど前にその叔母から、姉さんたちがアメリカから帰ってくるまでの間、京都に来てはどうか、というメールが届いた。京都にはずっと行ってみたいと思っていた。暁月にとっては渡りに舟、学期が終わったら行きます、と返事をした。

 東京の夏は蒸し暑いと聞いていたが、京都はそれ以上らしい。暁月が中国の東北地方、しかも北部出身だと知った友人たちは、涼しいところに慣れた人には京都の夏は厳しいよ、国内旅行に行くなら涼しい北海道、でなければ沖縄に泳ぎに行くのがよい、と忠告してくれた。確かにハルビンは北緯45度、日本なら北海道の北端とほぼ同じ緯度に位置する。だからハルビンの冬の寒さは厳しい。でも、夏には意外に気温が上がる。市内を流れる松花江での水泳は夏の楽しみの一つだ。

 そんなことを考えているうちに、列車は止まり、ゆっくりとドアが開いた。

2 叔母夫婦が住むマンションは、京都駅と京都大学の中間にある。叔母は若いころに日本に留学し、叔父と知り合って結婚したらしい。だから、暁月の留学は他人ごととは思えない、といつも言ってくれる。叔父は中国史の研究者で、いまは京大の研究員になっている。当然ながら中国語も話せるが、食卓の会話は日本語だ。

 

「シャオユエは、T大で法律を勉強しているんだったね。どんな法律が専門なの?」

「私の専門は民法です」

「民法といえば、いま中国では民法を制定する作業が進んでいるんだよね」

「よく知っていますね。そうなんです。でも、どうしてそんなこと、知ってるんですか。叔父さんの専門とは関係ないですよね」

「この人は、何でも興味を持つ人だから」

「私の専門は近代史だから、まったく関係ないわけでもないよ。清末の時代にも、民法を作ろうという話はあったわけだし」

「それって、やっぱり条約改正との関係ですか。日本の場合には、民法ができたのは条約改正と関係があると聞きました」

「へえ、そんなことを勉強しているんだ」

「夏学期に『明治・大正期における法知識の普及』というゼミに出ていましたが、教授がそう言っていました。ところで、叔父さんの出身は大阪でしたよね」

「そうだよ。まあ、市内じゃないけどね」

「『(しん)(しん)(どう)』という出版社を知っていますか? 大阪にあった出版社らしいんです」

「駸々堂かあ。20年ぐらい前、僕が学生のころにはまだお店があったなあ。河原町通りの店にはよく行ったよ」

「私が言っているのは本屋じゃなくて、出版社なんです」

「駸々堂は書店も出版もやっていたんだ。丸善とか紀伊國屋書店って知ってるかな」

「はい、知ってます」

「あれと同じだよ。そういえば、駸々堂が倒産して閉店した後、丸善も閉店したんだ。あの時にはちょっとした騒ぎになったけど、丸善は一昨年だったかな、新しい店をオープンしたんだ。いま京都で一番大きな書店だよ、たぶん。シャオユエも行ってみるといいよ」

「駸々堂ですけど、有名な出版社でしたか」

「出版社としてはそうでもないけど、書店としては有名だったよ。でも、出版の方も長い歴史があるみたいだね」

「叔父さん、さすが、歴史学者ですね」

「シャオユエ、この人をおだてちゃダメよ。長い話が始まるわよ」

「駸々堂のことはよく知らないけど、調べてみれば、きっと何かわかると思うよ」

「さあさあ、私の餃子をもっと食べて」

 

3 暁月は窓辺に配置された一人掛けの小さな机に座った。ここは地下1階だが、大きな明かり窓があり、外には地表から掘り下げた庭がつくられている。白い小石が半円形に敷き詰められ、中央には本を読む人の石像が据えられている。外から見ると建物は古めかしく見えたが、内部は新しくてとても機能的にできている。ここは京都府立図書館だ。図書館は岡崎公園の敷地内にあり、隣には美術館、その隣には動物園もある。暁月の叔母のマンションからは、向かいにある平安神宮の先、歩いて10分ほどのところだ。

 叔父の話を聞いて興味を持った暁月は、駸々堂の歴史を調べようと思ってやってきた。レファレンス係に相談すると、何冊かの本を探してくれた。その本がいま目の前に積まれている。最初に暁月が手にしたのは、『心斎橋北詰』というタイトルの本だ。表紙の色合いがあの『民法小説』と似ている。「駸々堂の百年」という副題が付された本だ。奥付を見ると、出版年は平成9年(1997年)10月21日、著者は駒敏郎、発行者は大渕甲子郎・大渕響、発行所は駸々堂出版株式会社とされている。見返しに「ごあいさつ」と書かれた横長の紙が折りたたまれて張り付けられている。そこには、「明治、大正、昭和の大阪の一書店、一出版社の物語としてご覧いただけるよう」にこの本を企画したと書かれている。文章の名義人は、「大渕甲子郎・大渕響」だが、それぞれに「会長(四代)」「社長(五代)」という肩書が付けられている。なるほど、駸々堂の百年史が作られて、挨拶状が添えられたわけね。

 ここまでチェックをして、暁月はリュックの中から『民法小説』を取り出した。奥付を確認すると、著者兼発行者は大渕渉となっている。そうか、この二人は『民法小説』の著者の子孫なんだ。暁月は無意識にうなずいた。ページを閉じて裏表紙に目をやると、大きな広告の下に「発行所・駸々堂」「大阪市南区心斎橋北詰」と書かれている。そうか、と暁月は再びうなずいた。『心斎橋北詰』というのは、駸々堂があった場所だったのね。そう思って百年史の表紙を改めて見ると、描かれているのは橋の絵だった。これがきっと心斎橋ね。

 百年史は第一部「明治・京都」、第二部「明治・大阪」、第三部「大正・昭和(戦災復興)」に分けられている。このうちの第二部にはなんと、「『民法』のヒット」という項目がある。さっそく暁月はそこから読み始めた。

4 ヒットした『民法』というのは、『改正 日本民法正解』という本のことらしい。刊行は明治31年(1898年)8月、校閲者は乾吉次郎という弁護士となっている。百年史によると、この本は確かにずいぶん売れたようだ。著者は次のように書いている。

 

 民法の親族・相続二編が整えられたのは三一年四月。第一二回帝国議会を通過して、六月二一日に公布された。この前後、大阪でも東京でも、各出版元の民法関係の出版物が氾濫することになる。

 渉は弁護士乾吉次郎に『改正 戸籍法詳解』二〇〇頁一五銭を書かせたところ、わずか二〇日間で五版一万五千部を売りつくし、第六版を出す成績を上げた。同時に刊行した『改正 日本民法』はさらに上まわって一五版、『改正 日本商法釈義』も三版と版を重ねた。

 八月三〇日には『改正 日本民法正解』を、乾の校閲、高野勝三・吉川豊三合著で出した。これはクロス装に金文字入りの美装本で、九〇〇頁七〇銭という大冊だったが、これまた羽根がはえたように売れた。

 若い弁護士は、たまたま用件があって駸々堂を訪ねたところ、店頭に黒山の人だかりがしているので、てっきり何か事件があったのだろうと思って緊張したら、それが民法の本を買いに来た人たちだったと判って、ほっと胸を撫でおろしたそうである。

 

 百年史によると、駸々堂は創業間もない明治17年(1884年)に『徴兵令注解』を出して以来、『改正 日本民法正解』が出版されるまでの15年ほどの間に、20数冊の法律書を出している。しかし、法律書出版を専門としていたわけではないらしい。著者は、「自分も含めて、大勢の人びとが知りたがっているものを本にするというのが、渉の信条の一つであり、それが販売面に結びつくことを心得ていた」と述べている。

 暁月はこの一文の後に、面白い指摘があるのに気づいた。

 

 明治一五年といえば、民法編纂局総裁大木喬任の下で、ボアソナードが民法草案をまとめている最中であったが、巷間に結婚条例という法律が出されるという噂が流れた。早婚は弊害があるので、この法律が出ると男子は二〇歳、女子は一八歳以上でなければ結婚を許されなくなる。しかも結婚するときは、家産保険として政府へ身元保証金をさし出さねばならないなど、まことしやかな話が、新聞紙上を賑わせた。

 

 早婚の弊害というのは『民法小説』でも話題にされていたけど、当時の人はこの点について強い関心を持っていたんだわ。ジグソーパズルのピースが一つはまった。そんな感じがした。

5 『民法小説』の話はどこにあるの? そう思って読み進めたが、『民法小説』の話はどこにも出てこない。「『民法』のヒット」の前後の項を探してみたが、やはり見当たらない。期待が高まっていただけに、暁月はちょっとがっかりした。それでも、『民法小説』と関係がありそうな記述は全くなかったわけではない。著者は次のように書いていた。「弁護士に民法の解説書を書かせるというのはいいアイディアだが、明治31年といえば、駸々堂は『新百千鳥』を出し、『探偵小説』や『探偵文庫』のシリーズを、矢継ばやに刊行していた最中だ」。

 この一文を見て、暁月はリュックから再び『民法小説』を取り出した。確か、裏表紙の広告は「探偵小説」に関するものだった。そう思い当たったからである。やはり、そうだった。いまでは黄ばんでしまった裏表紙には、次のような宣伝文に続いて、「探偵小説」第一集「薄皮美人」、第二集「鬼美人」から第三〇集「保安条例の犯罪」までのタイトルが掲げられていた(読みがなは筆者)。

 

 淀川の水淀み無く日夜流れ、昨日の淵は今日の瀬と、変る世の中に、偖(さて)変らぬは小説の趣向、男女の痴情に非ざれば悪漢毒婦の奸計邪策、様(よう)に依て胡蘆を画く千編一律、其名こそ伊勢の浜荻と変れ、筋は変らぬ難華の葦、其根を洗ひ葉を苅(かり)て新たに芽を吐く一趣向、他に類の無い探偵小説、奇想妙案神出鬼没、午睡の伽(とぎ)に旅行の伴(とも)、内外嫌はぬ重宝品、紙数は毎(いつ)も百頁以上、代価は僅か銅貨七枚、之を買はぬは損、之を読まぬは痴(おこ)

 

 『民法小説』の表紙には「第一集」と書かれていたし、ページ数も改めて調べてみると、100頁に少し足りないものの、97頁だ。こうして見ると、『民法小説』は先に刊行され、おそらくは成功を収めていた『探偵小説』の法律版なのだろうと思われてくる。そう思って百年史のページを繰ると、「『民法』のヒット」の少し前に「推理小説の夜明け」という項がある。

 そこには、大略、次のようなことが書かれていた。最初に「探偵小説」というシリーズ物を刊行したのは春陽堂という東京の出版社だが、その6ヵ月後に、大阪の駸々堂も「探偵小説」シリーズを始めた。明治26年(1893年)ごろのことだ。その後、明治35年(1902年)までの10年間に駸々堂のシリーズは50冊に達した。この間、明治26年(1893年)7月には「相馬事件」が法廷で争われることになって、世間の関心は一層高まった。「相馬事件」というのは東北の旧藩主だった相馬家の相続争いで、当主が監禁され毒殺されたということで訴訟になったらしい。これに伴い、埋葬された死体を発掘して解剖するという異様な事態になったという。百年史の著者は、「大流行中の探偵小説の実物見本のような事件なのだから、取り上げ甲斐があるというものだ」と述べ、「こうした一連の出版の傾向を見ていると、当時の単行本は、現代の週刊誌的な役割も果たしていたかのようである」と付け加えている。

 なるほど、そういうことか。事件や裁判が人々の関心の対象になる。だから、それを題材にした「探偵小説」が売れる。民法制定もまた関心の対象になった。それなら、「民法小説」も売れるのではないか。現に、『改正 日本民法正解』も売れたのだから……。

 

 ふと時計を見たら、もう12時に近い。窓の外の小石の庭は白さを増している。図書館に来たのは10時過ぎだから、2時間近くが経過している。今日はもう帰ろうっと。叔母さんがお昼を用意して待っているだろうし。残りの本は、また今度読めばいいわ。

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