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書斎の窓

連載

市場ゲームと福祉ゲーム

第3回 「成長する神」の至福

東洋大学ライフデザイン学部教授 稲沢公一〔Inazawa Koichi〕

 人間は、「A=A」などといった浅薄な形式論理では捉えきれない広大深遠な現実を生きており、古代から、そうした世界を「A=非A」によって捉えてきた。これは、現実(A)を虚構であるゲーム(非A)として捉える(A=非A)ことを意味しているのだが、この超論理から直接的に福祉ゲームのルール「A→非A」が導き出される。

 また、市場ゲームのルール「A→A+α」の「A+α」は、そもそも福祉ゲームの「非A」に含まれる一要素に過ぎなかったにもかかわらず、特に抽出されてルールの定式に組み込まれた。ここでは、その経緯を素描することにしたい。

1 「神あるいは自然」

 スピノザの『エチカ』は、少数の「定義」と「公理」をまず定め、それらから次々と「定理」を演繹的に証明して導き出すというユークリッドを模した幾何学的な叙述形式を採用しており、全体5部構成の内、「神について」と題された第1部冒頭の書き出しは、次のようなものである。

 「自己原因とは、その本質が存在を含むもの(中略)、と解する」(第1部定義1)

 物事にはすべて原因があるとする。そのとき、今ある何らかの状態に対して、それを生み出すに至った別の何かを原因として想定することができる。そして、その何かもさらに遡った別の何かを原因として生まれたものということになる。こうした原因追求を繰り返していくとき、究極の原因は何かと問うことができる。それは、いわばすべてのものを生み出した始源を問うことである。

 そうした始源は、論理的にいって、別の何ものかから生み出されたものではありえない。そういうものが想定されれば、始源の始源(原因)が存在することになって、定義に合わないからである。であれば、始源は、自身から生じたとしかいえないことになる。すなわち、始源とは、定義上、自己原因でなければならない。

 と同時に、始源は、最初から「ある」のでなければならない。もし、「ない」状態から「ある」になったのであれば、始源の始源に「無」をおかなければならなくなるからである。したがって、始源とは、そもそも「ある」ものでしかない。すなわち、それは、定義1にあるように、「自己原因」であって、かつ、「その本質が存在を含むもの」ということになる。

 そして、スピノザは、こうした始源がイコール神であるとする。というのも、もし、神がこうした始源でないならば、神は何か別のものに生み出されたことになってしまうが、神が神以外のものから生まれるはずもない。したがって、神とは自己原因であって、その本質が存在を含んでいることになる。

 ここまでは、一神教の考え方に合致している。ところがスピノザは、平然と次のように言い放つ。

 「すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない」(第1部定理15)

 後半部については問題がない。神なしには何ものも存在しないというのは、宇宙を神の被造物とする一神教的な思想に沿っている。しかし、前半部は奇妙に聞こえる。すべてのものが「神のうちに在る」などといってよいものか。そして、スピノザは、この定理15を根拠に次の定理を導き出す。

 「神はあらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない」(第1部定理18)

 そもそも一神教にとって、神とは宇宙の創造主である。であれば、神は宇宙を超え出ていなければならない。したがって、それは「超越神」と呼ばれる。

 にもかかわらず、あえてスピノザは断言する。神はあらゆるものに内在していると。であれば、あらゆるものが神となる。そして、こうした考え方の延長線上に、彼の思想を一言で表すフレーズが登場する。すなわち、「神あるいは自然」(第4部序言)。

 スピノザにおいて、神はすべてのものに内在しているとされるので、神イコール自然(神即自然)ということになり、両者は、「あるいは」で言いかえることが可能なほどに等値となる。自然は神である。ここに、一切(A)を神(非A)として捉える「神ゲーム」(A=非A)が誕生する。

 超越神の不在から無神論として指弾されたこの神ゲームに参加すると、どのようなゴールにたどり着くのか。

2 神ゲームのゴール

 一切は神である。では、世界に存在する無数の個物は、一体何なのか。

 スピノザは、やはり定理15を根拠にして、あらゆる個物は、神の属性の「変状」あるいは「一定の仕方で表現する様態」にほかならないと説く(第1部定理25系)。たしかに、一切は神であるとしてしまえば、個物は、神がさまざまに変化して現れたものとして捉えるしかない。スピノザの神は、世界を創造するのではなく、自ら変状して、世界になる。

 そのとき私たちは、「自らが神の中に在り神によって考えられることを知る」(第5部定理30)ということになる。一切が神であれば、私もまた神であるとしか言いようがない。

 このように自らの根源が神そのものであることを見出すことから、「神に対する知的愛」(第5部定理32系)が生まれる。また、自らも神であるから、この神に対する知的愛は、神の自分自身に対する無限愛の一部であるということになる(第5部定理36)。

 そして、スピノザは、結論を下す。「我々の幸福あるいは至福または自由」は、まさに「神に対する恒常・永遠の愛」(第5部定理36備考)に存すると。さらに、この愛は、聖書における「グロリア(栄光、名誉)」であり、また「心の満足」(同)に他ならないと。

 『エチカ』は、一切は神であるという宣言から始まり、その神を変わることなく知的に愛することが幸福であり心の満足をもたらすと結論づける。結局、一切は神であるということがスタートでは「定義」として、そしてゴールでは「至福」として示されたに過ぎない。そのゲームは、はじめから閉じられていた。

 一切は神である。したがって、神を愛するとは、一切を愛することに他ならない。それは、完全なる現状肯定を意味する。すなわち、これは福祉ゲームの一バージョンであるといえる。スピノザの世界は、いささかの非難も否定も含まぬまま、一切をそのまま肯定し、すべてを際限なく赦す一つの美しい神ゲームであった。

 ところが、スピノザは、世界を丸ごと神として描き出した上で、神に一つの特性を与えた。彼は、神を「成長する神」としたのであった。

3 「コナトゥス」

 スピノザにとって、一切は神であった。ということは、一つ一つの個物も神の力を一定の仕方で表現することになる。では、神の力は、個物において、どのような表現をとることになるのか。

 「おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める」(第3部定理6)

 これは、物体でいえば、慣性の法則のように運動を維持しようとする傾向であるとも言えるが、生物についていえば、自己の生命を保存しようとすることを意味する。こうした自己保存に向けた「努力」をスピノザは「コナトゥス」と呼ぶ。

 もともと神は自己原因であって、自らを滅ぼそうとするような否定的な力を自己の内に有していない。すなわち、神は自身を肯定する力で満たされている。したがって、その力の表れである個物もまた、自己を肯定し、その保存に向けた努力を行うことになる。

 だが、ここで問題になるのが、自己保存は、ただ現状維持だけを目指すのではないということである。神は現状を超えて「もっと」を目指す。神の変状でもある人々は、「より大なる完全性」へと移行することを「喜び」とする(第3部定理11備考)。それどころか、人々は、自己の利益を追求すればするほど、それだけ有徳であるとまでいわれる(第4部定理20)。

 だが、これでは、スピノザが神即自然という絶対肯定による静謐な世界の中に自己保存の努力を忍び込ませ、さらには、現状維持ではなく、自己の利益追求を徳として称えたかのようにも見える。それは、「万人の万人に対する闘争」を生むだけではないのか。

 たしかに、個々別々のものたちが自己利益の追求のみを目指すのであれば、まさに全面戦争が繰り広げられるようにも思える。しかし、スピノザにとって、「一切は神」が大前提であった。個物や個人もまた神の表現に他ならなかった。そのように、そもそもすべてが神なのであるから、ある人の右手が自己保存を目指して自分の左手と闘ったりしないように、人々が利己的になるようなことはないと考えられていた。

 逆に、スピノザにとってのコナトゥスは、自己保存を目指して、右手と左手が協力し合うことによって能力を高めるように、社会性を含んだ努力と位置付けられていた(第4部定理37)。

 このように、「より大なる」を目指して成長する神や個物には、その特性に応じたルールが求められることになる。

4 「非A」を「A+α」に

 一切(A)を神(非A)とする神ゲームは、あきらかに「A=非A」の超論理に基づいている。ところが神には、自己否定の契機が全くない。神とは、完全なる「善きもの」であって、そこにはいささかも否定されるべき要素が含まれていない。すなわち、神には「非」の入る余地がない。このことは、神ゲームの超論理を神自身に当てはめることができないということを意味する。

 というのも、神(A)が「善きもの」であるとすれば、「非A」は、極言すると「悪しきもの」になってしまうが、神を「悪しきもの」とイコールで結ぶことなど許されるはずもないからである。

 そのため、「善きもの」として自己肯定に満ちた神は、「より大なる」を目指すことになる。すなわち、「もっと善きもの」になろうとする。それは、静かにたたずむ神ではなく、成長する神なのである。逆にいえば、そもそもの「善きもの」が「さらなる善きもの」になろうとする過程そのものが神であるということになる。

 この過程を定式化すれば、「A→A+α」になる。つまり、「善きもの」としての神(A)を「非A」として全面的に反転させることが許されないため、「非A」の中から、「より大なる」に沿った「A+α」のみを抽出して定式に組み込んだというわけである。

 こうした事情は、逆に、福祉ゲームのルール「A→非A」がもつ限界を如実に示している。

 初回で述べたように、福祉ゲームでは、このルールに基づいて、どれほど「否定的なもの(A)」(たとえば、手がかかるだけの赤ん坊)であっても、そのまま「非-否定的なもの」=「肯定的なもの(非A)」(愛しい存在)とする価値の変換(→)が行われ、これを踏まえて、いかなる現実に対しても、それを無条件に肯定するのが福祉ゲームなのであった。

 このように、「A→非A」は、「否定」を「肯定」へと変換する際に活用すべきルールであるのだが、価値あるものに当てはめると無価値になってしまう。したがって、神のような全き「善きもの」といった「肯定」に当てはめることができないのである。

 たとえば、生活レベルで努力や節制は、怠惰や放縦に対して、善いこととされている。ところが、もしこれらに「A→非A」をあてはめると、たとえば、努力したところで何も報われないとか、節制したところで大した効果もないなどということになる。すなわち、ただ投げやりに価値を否定するニヒリズムが招来されてしまう。

 それに対して、これらに「A→A+α」を当てはめると、たとえば、頑張ったことは、もっと頑張ろうにつながり、「より大なる」成果、さらなる高みを目指すことにつながっていく。「肯定的なもの」が「もっと肯定的なもの」に向けて成長・発展していくというわけである。

 とはいえ、いずれにしても、現代の私たちがスピノザにならって「一切は神」と捉え、神ゲームに参加するのは、いくらそれが現状を絶対肯定する美しいゲームだとしても、実際上無理がある。

 にもかかわらず、私たちのほとんどは、かつてないほどに強力な、あるいは、絶大なといってもよいほどの神を心の底から信じ込み、至高のものとして崇めている。その神こそが『経済学批判』の表現を借りれば、「諸商品の神」と呼ばれた貨幣である。

5 「諸商品の神」

 マルクスによると、商品とは、その属性によって人間の欲望を充足させる有用性、すなわち使用価値を有するものである。また、ある種の使用価値と別種の使用価値とが交換される際の相対的な比率を量的に表現したものが交換価値であった。交換価値は、貨幣経済において、価格として表される。

 すなわち、貨幣は、価値の一般的尺度として、あらゆる物事の価値を表す「諸商品の神」となる。それによって、本来、それ自体は何の価値ももたない貨幣があたかも至極の価値を有するかのように受け取られていく。貨幣フェティシズムの成立である。すべてが貨幣によって価格として表示される。あらゆるモノはもちろんのこと、対人関係のあり方や自分自身の存在価値までも。

 さらに、貨幣は価値の自己増殖を目指すとき、資本となる。資本の一般的定式は、「貨幣–商品–'貨幣(貨幣+Δ貨幣)」であり、剰余価値(Δ貨幣)を生み出して自己増殖する運動体が資本であると規定されていた(『資本論』第1巻第4章)。

 すなわち、貨幣とは、もともとただ流通のために流通するものでしかなかったのだが、資本制は、そうした自己目的的な運動に対して、あたかもスピノザが神の変状にコナトゥスを忍び込ませたように、剰余価値の創出を埋め込み、流通を貨幣が自己増殖するための無限運動へと変異させた。

 それによって、資本は、その根本的な運動論理として「A→A+α」を採用することになった。こうして福祉ゲームの一種であった神ゲームは、市場ゲームに変質した。

 市場ゲームを生きる人々は、スピノザの神が「より大なる」を目指すように、「諸商品の神」である貨幣を少しでも増殖させること、すなわち、「A→A+α」が至上のルールであるかのように信じ、さらには、それを自分自身にまで適用して、絶えざる「成長」や「自己実現」があたかも生きる意味であるかのように思いなしている。

 マルクスは、若かりし頃、宗教を「民衆の阿片」と断じていた。しかし、現代の私たちは、市場ゲームのルール「A→A+α」を絶対善として信奉し、かつての人々が阿片に耽溺していたのと同じように、ただただ「もっと」を追い求める終わりなき運動に身を投じることで、胸中にひそむ底なしの空虚さから目をそむけようとしている。

 パルメニデスは、無限を「一」として捉えた。スピノザは、自然万有を「神」として捉えた。いずれにも、現実の一切を一つのフィクショナルな「何か」として捉えようとするまなざしがある。それは、論理的には不可能な、実際的には無謀な試みにしか見えない。しかし、古代の人々は、総力をあげて、そうした「非合理なまなざし」を死守しようとした。

 少なくとも、教父たちが活躍していた時代までは。

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