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連載

日本国憲法のお誕生

法政大学名誉教授 江橋 崇〔Ebashi Takashi〕

おまけ1

名称変更で生き残った旧憲法下の祝日

 この際、おまけのおまけとして他の祝日のことも見ておこう。

 まず、敗戦前の「祝祭日」のうちで「祭日」は宮中の「大祭」「小祭」に由来するので、天皇制と国家神道でダメになり「祝日」だけとなった。

 11月23日は「新嘗祭」であったが、「祭」がダメなので「新嘗感謝の日」と変えられて、その後「収穫祭」「感謝の日」などと変化しつつ最後は「勤労感謝の日」に落ち着いた。「勤労」は昭和前期の総力戦体制下の言葉である。大正時代までは「労働」であり、「労働者」「労働争議」「労働組合」であったが、昭和の総力戦体制時には、こういう私的な動機の「労働」という考え方や左翼的な「労働運動」は非難、処罰され、聖戦完遂、国民総動員の精神で国家の崇高な目的に奉仕する「勤労奉仕」「勤労動員」となった。したがってこの言葉は戦後には滅びるはずであったのに、日本国憲法第27条は、「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」としたので生き延びた。「勤労の権利」は妙な語感であり「労働の権利」のほうがよかったし、「勤労感謝の日」は「労働の日」(Labor Day)でもよかった。これなら11月3日の「文化の日」とも平仄があっている。

 戦前は春季皇霊祭、秋季皇霊祭であった3月春分と9月秋分は、当初はともに「子供の日」とされ、後に春分は「子供の日」で秋分は「親の日」、あるいは春分は「子供の日」で秋分は「若人の日」と工夫されたりもしたが、結局「春分の日」と「秋分の日」に落ち着いた。ここで弾き飛ばされた「子供の日」は、3月3日が女児の祝い、5月5日が男児の祝いなので中間をとって5月3日とされる予定であったが、憲法記念日がこの日に割り込んできたのでもう一度弾き飛ばされ、5月5日の「こどもの日」として収まった。

落選した新祝日候補日と母の日の滑り込み

 このほかに中途で消えた祝日候補がいくつかあった。花の日(花祭り)、労働祭(メーデー)、祖先の日(お盆)、国際親善の日(クリスマス)などだが、4月10日(女性参政権が初めて行使された選挙の日)の婦人の日、5月の母の日も途中で消えた。ただ、母の日に関しては5月5日の「こどもの日」にまぎれこんで、この日は法律の条文でも「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」日とされた。憲法普及協会の啓発パンフレットには「毎年5月5日には、全国民こぞってこどもの人格をたつとび、その健康と成長を祝福するのです。同時に、こどもを育てるには、なんといつても母親の力がいちばん大きいのですから母親への感謝をも忘れてはなりません」とあり、さらに祝日の行事として、「この日はこどもの日であるとともに、母親への感謝をあらわす日ですから行事の中にも、この母親への感謝をとり入れたいものです。アメリカでは『母の日』というのがあつて、この日は、母のある人は赤いバラの花を、母をなくした人は白バラの花を胸につけて母に感謝し、母を慕うならわしになつています」とされている。ここまで言うなら5月5日は「こどもと母の日」にすればよかったと思うが、さて、日本国憲法第24条は、夫婦の「相互の協力」と両性の「本質的平等」をいうとき、子どもの保育は一方的に母親の仕事という性別役割分担を称揚していいのであろうか。「イクメン」の父親ならずとも一考を要するところである。

幻に終わった「平和の日」

 このほかに、講和条約締結日を「平和の日」とする案も有力であったが、最終段階で消えた。もしこの日付未確定の祝日が法律で認められていたら、さて「平和の日」はサンフランシスコ対日平和条約調印の日、1951年「9月8日」なのか、批准書交換が済んで効力が発効した1952年「4月28日」なのか、それとも、これはまだ自由主義諸国との片面条約にすぎず、その後に中国とは平和条約に漕ぎつけたが、ソ連との平和条約が未締結だから、対ロ平和条約締結の日まで要件を満たしていないのか、どの日になったのであろうか。なお、韓国、北朝鮮との条約は講和条約ではないが、もしこれも視野に収めるのであれば、北朝鮮との関係の処理が完成するまで待たねばならないことになる。

おまけ2:ベアテ・シロタ神話

ベアテ・シロタ神話の形成

 憲法制定の当時、GHQの民政局政党課にオーストリア生まれのユダヤ人でアメリカに帰化したベアテ・シロタという女性事務員がいた。シロタは民政局の日本国憲法草案作成に政治調査分析担当兼タイピストとして関わり、女性の権利に関する憲法第24条の条文作りも担当した。シロタの条文案は民政局の運営委員会で大幅に否定されたが、シロタが担当した事実はGHQ草案の日米交渉の席で民政局の上司から日本側に伝えられた。日本側は多少驚いたもののさほど関心はなかったようで、佐藤達夫などの交渉担当者の記録にはこのエピソードは登場しない。また、シロタはこの日米交渉の席にも民政局が用意した4人の通訳の一人に、一人でも多いほうがいいからという理由で臨時に動員されたが、この席での通訳業務を最後に、憲法をめぐる日米間の交渉から外れて無関係になった。シロタと日本国憲法の関係は全体としては薄いものであった。シロタのGHQでの勤務期間は短く、1947年5月に帰国した。1970年代まで日本人研究者がシロタに関心を示すことはなかった。

 シロタの憲法制定過程での働きに最初に注目したのは、占領期のGHQの女性政策を研究していたアメリカ人政治学研究者、スーザン・ファーである。ファーはウィスコンシン大学教授であった1977年にいち早くシロタを発見してインタビューを行ったが、ファーの印象ではシロタの記憶はそれほど鮮明でなく、特筆するべき新知見は得られなかったようである。それでもファーはその後、日本で開催された学会の講演でシロタに触れ、そこから日本の研究者もシロタに関心を持つようになった。

 シロタが日本で一躍有名になったのは、1992年に大阪のテレビ局が日本国憲法のドキュメント番組を制作する中で、担当した制作会社の鈴木昭典がアメリカに出かけてシロタ・ゴードン(結婚後の姓)にインタビューしたことを機縁にする。この番組を通じて、日本国憲法第24条の起案者がシロタであることが広く知られるようになり、当時の憲法改正の議論や女性差別撤廃の運動の高まりの中で、シロタは憲法制定過程で女性のために奮闘した功労者というイメージが作られた。そして、シロタの名声を決定的に高めたのが1993年の来日とテレビ番組「日本国憲法を生んだ密室の九日間」の放映、そしてこの番組の取材を機縁にした自伝『1945年のクリスマス』(1995)の出版、さらに1998年から繰り返された演劇『真珠の首飾り』の上演である。

シロタ・ゴードン夫妻と憲法公布記念の銀杯

 ここでシロタのことをおまけに加えた主たる理由は、この連載の第5回で取り上げた、憲法の公布を記念して天皇が下賜した銀杯の行方が関わるからである。いうならば「天皇の銀杯、その後のエピソード」ということになるが、シロタの自伝の第五章「日本国憲法に『男女平等』を書く」の末尾はこう締めくくられている。「翌年の五月三日、憲法は施行された。その日は憲法記念日という祭日になった。それからしばらく経って、吉田茂首相から銀杯と、女性には特別に白の羽二重が一反贈られてきた。上等なシルクで、私は早速ブラウスに仕立てた。二五人全員に贈られた銀杯は、菊の紋が入っていた。なぜ日の丸ではなく、天皇家の紋なのかわからなかった。異物を呑み込んだような気持ちだった。銀杯は、今ニューヨークの我が家にある。夫のジョセフ・ゴードンのと私のとで二つ」。

 この文章はとても分かりにくい。まず、憲法記念日の制定はすでにおまけ1で紹介したように1948年7月、シロタの帰国後1年以上たってからのことであり、憲法の施行の日にはまだ姿かたちもない。シロタが日本滞在中に祭日になったと思うことは不可能であり、「翌年の五月三日、憲法は施行された。その日は憲法記念日という祭日になった」というのは、鈴木とともに番組を制作して自伝の構成と執筆を担当した平岡磨紀子の歴史知識不足に由来するミスであろう。また、憲法記念日は「祝日」であって「祭日」ではない。これも平岡のミスであろう。だが、最も重大なのは、シロタが、吉田首相が憲法草案を作成した民政局の25人に感謝のしるしとして銀杯を贈ったとしていることである。これはシロタの記憶に由来する記述と思われるが、ありえない話である。

 まず、日本国憲法の草案を作成したのが民政局のメンバーだけであったという事実はGHQの秘密であり、たとえ何かの事情でそれが日本側に伝わったとしても、25人という数として伝わるはずはない。なぜならば1946年2月4日に起草委員ないし事務スタッフとして任命されたのは最大22名、2月12日に完成した草案に署名したのは18名である。25名というのは同年6月末に起草者のメモを書いた際のハッシーの数え間違えである。このハッシーメモ以外には25人説はない。シロタは、後年に、日本のテレビから提供された誤情報を自身の記憶に残る史実のようにして語った。

 そもそも、日本政府が、憲法作成に関するGHQの助言と承認に謝意を表したかどうかも怪しいが、仮に謝意を示したとしても、GHQの上層部を飛ばして民政局行政課という一下部組織のメンバーだけに限って、それもタイピストや民政局員でもない通訳部の通訳にまで謝意を表して、あまつさえ感謝の記念品として銀杯や絹布を贈るという事態はあり得ない。軍の上級将校には何も報いないでおいて、階級も持たない末端の女性事務員に手厚く絹布の贈り物をしたというのも軍隊という階級組織の社会ではおかしな話である。

 シロタと同時期に民政局政党課に勤務し、ともに憲法草案を作成したハリー・エマスン・ワイルズはその著作『東京旋風』で「天皇から記念の勲章と特別な贈り物を貰った」と書いている。「勲章」というのはこの連載の第4回でも扱った公布記念メダルであろう。「特別な贈り物」は銀杯であろうか。贈り主は吉田首相なのか、天皇なのか。1946年11月3日の公布記念の銀杯を半年以上遅れで贈ったのか。まるで売れ残り品の処分ではないか。いずれにせよ、シロタもワイルズもあやふやなことを言っていて信頼できない。念のために書いておくが、日本では、天皇であれ政府であれ、謝意を込めた記念品を贈る際には感謝状の紙、書類が発行される。東アジア諸国の行政は文書の文化であり、銀杯や絹布が与えられるとしてもそれは添え物である。シロタは肝心の書類の話はしていない。それなのに首相からの贈り物とするのは話に無理がある。 つまり、シロタの自伝はどこかがおかしく、真実味に欠ける。銀杯がアメリカ、ニューヨークのシロタ・ゴードン邸に2個あったというのは事実であろうから、それが入手された経緯は想像するより仕方がない。思うに、これは民政局側の誰か、例えばハッシ―あたりがどこかで銀杯の件を聞きつけて、民政局によこせと日本政府に要求して、日本側は意味も分からないままに貢物にしたのであろう。あるいは区切りよく2ダース、24個よこせという要求だったのであろうか。この戦利品を局内で配布して、天皇からとか吉田首相からの感謝の印だとしたのは驕り昂る占領権力者の下品なジョークであろう。

 一点気になるのは、天皇の下賜した銀杯に菊の紋章があることにシロタが「異物を呑み込んだような気持ちだった」と感じていることである。GHQが作った象徴天皇制の憲法に不快感を示していることになりずいぶん不遜な考え方である。天皇の印がそんなに嫌だったのならば、受領を拒否するか、アメリカに帰国する際に捨ててゆけばよかったのであって、ニューヨークの自宅で戦利品のようにいつまでも飾ることはなかろうに、と思う。

シロタの早期退職とGHQ内部の勢力争い

 私は『1945年のクリスマス』の内容に違和感があるが、女性運動家だけでなく憲法研究者までがシロタを称揚してこの本を典拠として憲法史を語る資料批判の甘さには驚かされた。シロタ自身も、この本の中の自分のイメージに合わせたような発言が増えてゆき、社民党の土井たか子や福島瑞穂と意気投合してからは私たちが平和の憲法を作ったと言い出し、女性は平和主義だと言い出し、憲法改正に反対だと言い出した。また、参考にした各国憲法の中では「スカンジナビア諸国の憲法のいくつかにも、女性について、たくさんよいことが書いてあるのを知って、興味深かったですし、少なくとも私は驚きました」というようになり、後にはそれがスウェーデンの憲法だと特定するようになった。スウェーデンでは1970年代の改正憲法で初めて女性の権利を強調したのであって、それを1946年に読んだとなれば超能力である。さらにシロタは、以前はその存在も知らなげであった憲法第14条の法の下の平等の規定についても後には自分が作ったと言い出すようになった。「14条は3人で作り、24条は私一人で作りました」ということだ。こうしてベアテ・シロタ神話が拡大し、強められた。そのことの是非は護憲信仰の問題なのでここでは問わない。シロタの早期退職と帰国の理由は気になる。

 シロタは1945年12月に来日してGHQに勤務し、1947年5月に退職、帰国している。1年6ヵ月という期間は短い。ところで当時、GHQ内部では、民政局幹部と参謀第二部(G2)部長チャールズ・ウィロビーの間での対立が激しかった。ウィロビーは反共主義者であり、民政局のニューディーラーたちを容共分子として嫌悪し、日本の警察も動員して民政局の職員の行動を厳しく監視していた。シロタは両親がアメリカ国籍でなかったこともあって強く疑われ、その監視の網に引っ掛かった一人であった。ウィロビーはシロタの名前を挙げて本国に詳細に密告している。シロタは後に自分に関するこの素行調査書を読んで「ほとんど嘘だった」と反論しているが、今となっては真偽は確かめようもない。

 シロタの早期退職の理由は明らかにされていないし、シロタ自身も語ろうとはしなかったが、アメリカ本国での「赤狩り」が強まりつつあった当時、ソ連大使館に出入りして、ソ連の憲法を日本国憲法起草の手本にしたことを隠さないシロタは、ソ連の工作員とみなされて退職に追い込まれたのであろう。なお、ウィロビーは、後には民政局のケーディスを旧華族の既婚女性との愛人スキャンダルで葬ることにも成功した。その謀略活動はCIAなども絡んで活発であり、後の松川事件、下山事件などもあり、占領期の闇の部分の主役の一人である。

 この連載で以前に憲法普及協会を取り上げた際に、1948年に協会が発行した『憲法改正と天皇の問題』『非米活動委員会と七ツのスパイ事件』『なぜ帰れぬ50万!:引揚げの実状』などの時事問題の啓発パンフレットに言及した。金森徳次郎、入江俊郎、宮沢俊義がかかわったこの協会の活動は、民政局が作った憲法の普及ではなくその欠点を取り上げる改正論議に転じ、G2と組んでの、抑留問題でのソ連、中共批判や、アメリカでのソ連スパイへの嫌悪と摘発活動の広報に方向性を変えたのである。この変化は、1947年2月1日に予定されたゼネ・ストを禁止した中止命令以降にGHQ内部で生じた、改革派民政局と反共派G2の勢力争いのG2優勢への変化、それに反応した日本社会の空気の変化、そしてG2寄りにシフトして反共色を強めつつあった日本政府の変化と一致している。こういう風の吹く時期に、シロタのいられる場所はどこにあったのだろうか。

 シロタがGHQでどのように行動し、どのように評価されていたのか。早期退職と帰国の経緯も含めて、あいまいな記述の自伝以外に確たる史料がないので推測に終わる。だが、ベアテ・シロタ神話は今もなお健在である。

おまけ3:憲法普及に協力した文化人、芸術家

漫画家:横山隆一

 日本国憲法の普及に協力した漫画家といえば、「新いろはかるた」に関わった横山隆一がいる。横山は戦前に漫画集団を近藤日出造、清水昆らと立ち上げ、1936年に東京朝日新聞で連載された漫画「江戸っ子健ちゃん」のわき役で登場し、人気が出たのでスピンオフされて主人公になった、早稲田大学の学帽を被っている少年、フクチャンの漫画で早くから人気者であった。戦争中は横山が従軍記者としてジャワに出かけたので、フクチャンも「ジャバノフクチャン」「フクチャン従軍記」「フクチャン大東亜コドモカイギ」「フクチャンレンセイ(錬成)ノ巻」「フクチャンソラノ巻」「防衛フクチャン」などと戦時色が強かったが、戦後になっても再び新聞連載になり、人気漫画になった。漫画集団の仲間であった清水昆は吉田茂首相批判の政治漫画で人気を博し、近藤日出造も活躍したが、日本国憲法の普及にはかかわりがなかった。

文化人:サトウハチロー

 サトウハチローは憲法音頭の作詞者であり、新いろはかるたの選考者でもあり、日本国憲法と縁が深い。サトウは戦前から作詞家として人気があり、とくに童謡に名作が多い。戦後は、映画の第一号として1945年10月に公開された「そよかぜ」の挿入歌「リンゴの唄」の大ヒットで作詞者としてスポットライトを浴び、ラジオ番組「話の泉」のレギュラーとして活躍するなど、ラジオタレントの走りでもあった。ただ、サトウは、わいわいがやがや騒いではいるのだが、その感性に憲法がどう受け止められていたのかはよく分からない。戦後社会の自由で開放的な空気の中で、どれが憲法のもたらしたものなのかは、どうもサトウの心中では識別が付いていなかったように思える。ただこれも推測の域を出ない話である。

音楽家:信時潔

 日本国憲法の制定に際して、憲法普及会は記念の音楽作品を制作した。第二次大戦前の日本政府には、国家の祝祭、皇室の慶事に際しては記念音楽を新たに創作して祝福する慣習があり、また、天皇や皇后の逝去には葬送の音楽を用意する慣例もあった。その際に用いられていたのが東京音楽学校であり、この仕事は国立大学である同校教授の誉れ高い校務の一つであった。日本国憲法の記念音楽はこうした国の制度、慣習にのっとって制作された。

 ここで歌曲を担当したのが同校教授の信時潔であることは以前に紹介した。信時の作品を見ると、佐々木信綱作詞の「皇后陛下御誕辰奉祝歌」(皇后の誕生日「地久節」を祝う歌)、作詞者不詳の「皇太子殿下御誕生奉祝歌」、東京音楽学校作詞作曲となっている「紀元二千六百年頌歌」、尾崎喜八作詞の「大詔奉載日の歌」、山本五十六の遺詠三首の「ますらをの道」、芳賀矢一作詞の「大行天皇奉悼歌」などがある。この種の信時作曲の代表例は、「皇紀二千六百年奉祝事業歌」として創作された、北原白秋作詞の大作「海道東征」である。

 また、信時には、国民こぞって合唱すべしとされた国民合唱歌として、「興亜奉公の歌」「此の一戦」「僕等の団結」「勝利の生産」「日本の母の歌」「愛国子守唄」「みいくさに仕ふ――女子挺身隊の歌」などもあり、大東亜共栄圏の全域で、同じ歌詞を日本語、中国語、タイ語、マレー語のどれでも歌えるように工夫した「興亜唱歌 アジアの青雲」もある。これらを見てわかるように、信時は同世代の山田耕作のような軍歌、戦争歌の作曲家というよりも、国家的な祭典、行事の作曲家であり、その延長線上に「全国中等学校優勝野球大会の歌」、「全国連合小学校教員会々歌」「東京開成中学校校歌」「慶應義塾々歌」「岩波書店の歌――われら文化を」「日立製作所行進曲」「三菱の歌」などもあり、生涯を通じて国、自治体、学校、会社などの依頼に応じた行事歌、団体歌、校歌、社歌などの作曲は万を超える。日本国憲法制定記念歌「われらの日本」の作曲は、信時にとっては、すでに東京音楽学校教授という公職は離れていたものの、音楽家としての自分にとってはごく自然な公務の遂行であったのだろう。この時期の兵庫県民歌「新憲法公布記念県民歌」の作曲も同じ気持ちであろう。

 信時の運命を大きく変化させたのが、1937年に国民精神総動員強調週間のラジオ番組のためにNHKの委嘱で作曲した「海ゆかば」である。これは万葉集にある大伴家持の和歌を西洋音楽の調べに乗せて表現したものであり、信時は「大伴家持作詞」という軽薄な表記を嫌って「大伴氏言立」としていた。この曲は、日本古来の言葉を西洋音楽で表現した傑作であり、音楽作品として高く評価されていたが、5年後の1942年にNHKと軍部がラジオで戦死者、玉砕者を発表する際の伴奏歌として使用するようになり、戦争が激しくなると各地の玉砕の報道で繰り返し使用され、また、1943年10月に明治神宮球場で開催された出陣学徒壮行会で数万名の女性の大合唱が行われるなど、戦意高揚への利用が増え、ついには君が代に続く第二国歌とされて国民皆唱が求められ、これに伴い信時の名声も高まった。

 敗戦後、信時は、本来の作曲の趣旨とは関係がなかったものの、「海ゆかば」が戦争に使われて、傑作、名曲であったがゆえに多くの国民を感動させ、結果的に死地に追いやったことを恥じて、作曲活動を大幅に自粛して半ば隠遁した。また、「海ゆかば」が放送禁止になっただけでなく、信時の歌曲は封じ込められた。代表作の「海道東征」が上演される機会もほとんどなくなった。政治や軍事に関心が薄い信時であったのに、時代の波に持ち上げられ、叩き落とされたのである。なお、「われらの日本」の5年後、日本国憲法施行5周年記念歌を作る動きがあり、信時が委嘱されて作曲して提出したものが用いられることはなかった。このもの悲しいエピローグで信時と日本国憲法のかかわりは終わる。

 信時は1965年に死去しているが、公務と考えた依頼への対応以外には作曲を自粛し続けた。ただ、遺品の中に岩波文庫版の『古事記』があり、赤、青、黒の鉛筆で作曲の構想が随所に書き留められていたそうである。家族の話ではすでに作曲に手を付けていたようだが、信時の心中は推測の域を出ない。

映画人:新藤兼人

 日本の映画製作会社3社で、憲法普及会の委嘱を受けて日本国憲法の制定を記念する映画が3本作られたが、そのうちの一本で松竹が担当した男女平等を主題とする映画「情炎」の脚本を新藤兼人が書いている。だが、その業績一覧にはこの作品の名前がない。

 もともとこの映画の脚本は、戦前のプロレタリア芸術運動の闘士、久板榮二郎が担当していた。監督はやはり左翼の渋谷実であった。当時の映画界では、監督は制作の全権を掌握していて、その意向は絶対であったが、この映画の場合は、久板は渋谷に劣らない大物であった。久板と渋谷は、当初は相談し合って意見を一致させて良好な関係で制作が準備された。ところが、会社の経営者たちも加わった脚本読み合わせ会の翌日、会社側から久板のシナリオは不適切であるとして改作が命じられた。久板はこれに反発して猛烈に怒ったが、渋谷はこの修正要求を受諾したので両者は意見が対立するようになった。久板は修正を拒否したので、会社はゴーストライターに修正をさせた上で脚色・久板と名前を残すことを考えたが、久板にそれも拒否されたので、やむなく降板させ、そこに若いシナリオ作家の新藤兼人を当てはめた。結局、この映画の脚本担当者の名前は新藤になり、久板の名前は原案者として残り、新藤は改作を実行し、映画が期日に間に合って完成した。

 当初の久板の脚本では、主人公の既婚女性が、家制度を前提にする夫側の一方的で身勝手な離婚要求に服従するのではなく、家を飛び出して自立し、自分で働いて新しい人生を切り開くように決意するところに力点が置かれていた。しかし完成作品では、一度は妻が鼻について離婚しようとした夫が妻の性的な魅力を再発見して復縁するという、家庭内の男女の関係のもつれと回復が主題になってしまった。いうならば、女性の社会的活躍促進の憲法第14条と、家庭内の男女平等の憲法第24条を併せて祝賀する映画が、女が男への不満と反抗心を見せるがうまく収まる通俗的な夫婦情愛物語に変質したことになる。

 これは、当時の映画界において脚本作家の大御所であった久板の筋書きの内容、主張の要点を変更させたのであるから大事件であったが、久板自身が雑誌に寄稿して、経過を暴露して抗議したので表面化して大騒ぎになった。会社側の処置の是非をめぐる久板一人と渋谷ら多数の論争になり、両者の主張は対立したままで論争は立ち消えになったが、新藤は大先輩の脚本作家の作品に本人の意向に反して手を入れたとして職場で激しく非難され、会社内で「人民裁判」、吊し上げ集会にさらされた。新藤は、自分は久板が了解しているという会社側の説明があった上で少し手直ししただけだと苦しい弁解をしたが、憲法の趣旨を捻じ曲げる検閲まがいの行為になってしまったことは否定できず、この作品に関与したことを反省して生涯恥じたのか、自ら著した生涯の脚本一覧リストに同作品を掲載していない。制作会社の松竹に調査を依頼したことがあるが、通常の作品と異なる委嘱制作作品であったからか、この映画の記録も原盤も保存されておらず、制作に用いた脚本だけがたまたま残っていた。つまり、新藤兼人の関与は、映画フィルムそのものとともに煙のように消えたのである。お伽噺であれば新藤はなんとか逃げ切れてめでたし、めでたしという終わり方になるが、その心中も推測の域を出ることができない。

おまけ4:日本国憲法の陰影

枢密院議長・清水澄

 清水澄は慶応4年生まれで、東京帝国大学卒業後、学習院大学教授を経て宮内省および東宮御学問所御用係となり、大正天皇、昭和天皇に憲法学を進講した。第二次大戦後は枢密院議長として帝国憲法改正案の審議、諮詢を主宰したが天皇主権を維持できなかったことに苦しみ、1947年5月3日の憲法施行日に自決の意思を固めて遺言書「自決ノ辞」を記し、同年9月25日に熱海錦ヶ浦海岸から入水自殺を遂げた。昭和天皇の信頼も厚く、日本国憲法の内容を進講したのも清水であり、そこで説明した内容とその後の展開が食い違ってきたことも悩みの種であったことだろう。遺書には「共和制ヲ採用スルコトヲ希望スルモノアリ或ハ戰爭責任者トシテ今上陛下ノ退位ヲ主唱スル人アリ……依テ自決シ幽界ヨリ我國體ヲ護持シ今上陛下ノ御在位ヲ祈願セント欲ス」とあり、天皇制という国体の護持をないがしろにする者と、今上陛下つまり昭和天皇の在位を危うくする者、つまり共和制や昭和天皇の退位を主張する政治家や憲法学者らへの抗議が示されている。一死を以て自分が責任を取るので御退位めさるるなと天皇に嘆願する清水の念頭に、時を得顔で学界を闊歩するどの憲法学者があったのかは推測することしかできない。清水は命を懸けて大日本帝国憲法の国体をあくまでも守ろうとした護憲の士であった。その憲法思想は古臭かったが、志の高さは記憶に残る。

京都大学法学部の憲法学者

 京都大学法学部の憲法学教授たちは、1945年に近衛文麿元首相がGHQの示唆に基づいて着手した憲法改正案作りに協力し、GHQの方針転換で近衛が見捨てられ自殺した後は、幣原内閣の憲法問題調査委員会からも、その後の日本国憲法制定の過程からも遠ざけられ、沈滞した。中心であった佐々木惣一は貴族院議員であり、憲法改正案の審議に参加して最後まで改正反対論を述べた。なお、佐々木は昭和天皇退位論者であった。同じ貴族院議員であった他の政治家や憲法学者は、陰では批判的であっても公的には皆賛成に回ったのであり、貴族院で反対論を演説したのはわずかに二人、そのうちの一人が佐々木であった。それは自らを陰に追い込む結果になったが勇気のある行為であった。

 佐々木の後を継いだのは大石義雄であり、京都大学憲法研究会を組織して宮沢らの東大憲法学を批判したが、官僚と協働する「官の憲法学」の牙城を崩すことはできなかった。また、司法試験や公務員試験などを念頭に成り立っている全国の大学の憲法学の講義では、学生の間では受験に役立たない憲法理論は右であれ左であれ変わり者扱いで冷笑された。京都大学の憲法学が講壇憲法学の権威を回復したのは、東大法学部系で始まった憲法訴訟論で肩を並べる教授が出現するようになった時であったが、それはずっと後の話である。

公職追放該当者・市川房枝

 GHQは、1946年1月4日に「軍国主義的国家主義及侵略の活発なる主導者」や陸海軍軍人らの公職追放指令を発した。その事務を担当したのは民政局であり、当初は約3000人の該当者を認定したが、GHQ上層部はドイツでの30万人の追放に引けを取らないように大幅な拡大適用を命令し、該当者が20万人に膨れ上がった。この者たちは公務員になれず、選挙に立候補することも許されず、その家族も公職から排除された。私の祖父も高位の軍人であったので追放された。当時私は幼児で祖父母と同居していたが、家に配達される郵便物は開封されており、毎月巡査が来て動向を尋問していた。陸軍士官学校第17期生の同窓会や陸軍大学校の同期生の会合がたまたま焼け残った我が家で開かれるたびに、この会合のことを絶対に家の外で話してはいけないと家人にきつく言われた。

 こうして公職追放者の範囲を拡大適用したために該当者になった一人に、戦前からの女性運動のリーダー、市川房枝がいる。市川は、敗戦後直ちに女性解放の運動を再開し、日本政府にもGHQにも尊敬されていた。ところが市川は戦争中に「言論報国会」の理事を務めており、民政局政党課の職員が1947年3月に追放者の範囲を拡大するために、この団体を超国家主義者の団体と認定し関係者を機械的に軍国主義者と位置付けたために、公職追放になったのである。市川は決して軍国主義者ではなかったので指定に激怒して抗議したが指定は解除されることがなかった。これは同年4月の第1回参議院議員選挙に立候補を考えていた市川本人にも、それを支援しようとしていた女性運動にも、市川の指導力に期待していた日本社会にも全く不本意な指定であり、抗議と指定解除を嘆願する署名の運動が全国に広がった。GHQも市川を嫌って追放したのではなかったのだが決定は覆らなかった。市川は自分が遠慮なくずけずけと物を言うのでGHQの民間情報教育局のウィード担当課長に嫌われて追放されたのだと誤解して生涯恨んだ。いずれにせよ市川はしばらくの間は公的な仕事から遠ざけられ陰に立つことになった。

 市川は追放が解除されたのちの1952年9月に日米交流の最初の代表として渡米している。このとき通訳として接待にあたったのが、アメリカ側の窓口、コロンビア大学に関係のあったベアテ・シロタ・ゴードンであった。シロタはGHQ民政局政党課に勤務していた時の職務が政党、団体の公職追放該当者のリストアップであり、市川の不当な公職追放のひきがねを引いたのはシロタだったのであるが、市川を迎えたときにはこのことは一言も触れず、滞在中の出来事や市川と自分が親しかったことを細かく誇らしげに語り、市川の思想や人格を称賛している。それならば6年前に市川を追放しなければよかったのにと思うが、たぶん、シロタはそもそも名簿作成時にも自分が誰を追放しているのか自覚がなかったであろうし、そうでなくても6年もたてばすっかり忘れていたのであろう。後年になると、自分はやっていない、政党課の男性職員がやったのだと思うと、政党課で女性団体関係者の公職追放を一人で担当していたシロタの職務からは考えもつかない奇想天外な弁解をしたし、あるいは民政局での最初の仕事は「女性の政治運動と小政党の運動のリサーチだったんです」と言うようにもなった。公職追放者の証拠集めと指名がまるで学術的なリサーチであったかのように語られている。歴史はときに皮肉な事象を生むものである。

在日旧植民地出身者

 日本国憲法の制定史を見るときに決して無視してはならないのが、その過程から在日旧植民地出身者が排除されていたことである。憲法改正のつい1年ほど前まで、大日本帝国の臣民であり、植民地人として迫害され、差別され、創氏改名を強制され、聖戦遂行のために徴兵され、徴用され、日本に強制連行されていた人々である。逆に、内地と朝鮮の一体化の証として戦争末期には選挙権、被選挙権も与えられていたのだが。

 敗戦後の日本では、在日旧植民地出身者の処遇は明確に決まっていなかった。GHQも、時には敗戦国日本という敵国の国民として扱い、時には日本に抵抗して独立を闘いとった戦勝国の国民として扱うなど、処遇政策に一貫性が欠けていた。国際社会の常識では、敗戦の宗主国に居住する旧植民地出身者には、母国に成立した新生の独立国家に帰国して国籍を取得するのか、生活の根が生えた宗主国の国籍を取得して引き続きそこで生活するのか、国籍選択の権利が認められる。ところが日本では、旧植民地出身者の国外退去を求める傾向が強く、日本国籍を認めようとしなかったし、1945年12月の衆議院議員選挙法改正ではその選挙権が停止されたのである。

 したがって、旧植民地出身者は日本国憲法の帰趨を決めた1946年4月の衆議院議員総選挙には参加していない。ポツダム宣言第12項は「日本人民(Japanese people)ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ」という。ここでいうJapanese peopleは日本国内に生活する人々という意味であるが、日本政府はこれを「日本国国民」と限定解釈して国籍のない人々を排除した。旧植民地出身者に戦争中は与えられていた選挙権、被選挙権が停止され、衆議院議員の選挙から排除された。そして、自分たちが関わることなくできあがった日本国憲法では、その第10条に「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」とあるが、ここにいう法律とは国籍法だけであり、国籍のない在日旧植民地出身者や永住権者は国民ではなく、この憲法の人権保障が及ばないとされたのである。日本国憲法の生誕はこうした陰の部分を持っている。

日本から分離された琉球の人々

 1945年の沖縄戦ののち、沖縄は米軍に占領され、軍政が敷かれていたが、1946年1月29日のGHQ覚書によって正式に日本政府の行政権行使の領域から除外された。日本からの渡航制限も厳しく、貿易も制限され、外国扱いの沖縄であったので、沖縄県民は日本国憲法制定には関わっていない。

 沖縄は、1945年12月の衆議院議員選挙法改正で選挙権行使を「停止」され、日本国憲法の帰趨を決めた1946年4月の衆議院議員総選挙には参加していない。当時の事情では、沖縄で日本の選挙を行うのは選挙事務上も不可能であったという理屈であるが、日本側での沖縄の切り離しは積極的で迅速であった。日本政府は、1947年の選挙法改正で沖縄の選挙区を廃止し、議員定数からも沖縄の分を削減した。

 GHQが日本の非武装を推進した背景には、沖縄の支配と強度の軍事基地化で日本の防衛はできるという判断があった。日本国憲法による非武装化は沖縄の軍事化、基地化、そして米軍支配の永続化があって初めて成立した。考えてみれば、1946年1月末の沖縄分離覚書も2月初めの日本国憲法草案もGHQ内部では同じ民政局の担当であった。両者には政策的な符合があり、米軍の統治体系の中で裏表の関係にあったのである。

 このように日本国憲法第9条は、沖縄が米軍基地の重荷を背負わされることを前提に、沖縄基地での米軍駐留の継続を想定して成立したのであるが、犠牲と負担を負わされた沖縄の人々の声は聴かれないままであった。その後も、例えば日本では非核三原則が憲法に準じる重要な決議として成立したが、それは沖縄の米軍に核兵器が配備され、その傘の下に日本が置かれるという脈絡で成立した。日本国憲法制定過程での沖縄の切り離しは、沖縄を別世界に置いて沖縄抜きで憲法を制定したのではなく、陰の部分、重くつらい負担を沖縄に押し付けて憲法を制定したという意味を持っていることを忘れてはいけない。

 当時沖縄にわずか一紙しかなかった新聞では日本国憲法の制定を伝えるニュースはまったく報道されていない。ラジオ局はまだ存在せず、そもそも戦争被害で受信機もなかった。もちろん、日本国憲法の制定を祝賀したり記念したりする行事は行われていない。主権者の日本国民に洩れなく配布したとされる『新しい憲法 明るい生活』も一切届いていない。沖縄の人々が日本国憲法を知るのはもっと遅くになってからであり、それを自分たちの憲法だと受け入れるのはさらにずっと後のことである。

おまけ5:日本国憲法の周辺

GHQの映画検閲

 この連載の第8回目に日本国憲法記念映画を扱った際に、東宝映画会社が制作した「戦争と平和」で、当時の言葉でいうパンパン宿で日本人女性がアメリカ軍人、兵士を相手に売春の営業を行う場面や、キャバレーでアメリカ軍人、兵士が遊興する場面がGHQの検閲で削除されたと考えられることを書いた。そこで述べきれていないことを記しておきたい。

 第二次大戦敗戦後の日本社会では、日本国憲法の啓発、広報グッズが語るような平和で明るい市民生活が期待されており、実際に実現されていったのであるが、その社会は同時に、アメリカ軍に占領され、GHQに軍事支配され、その軍人、兵士が横暴を極めた社会でもあった。映画「戦争と平和」の検閲と部分的な削除は、当時の社会のこの二重性を思い起こさせる。

 当時の日本では、米兵の犯罪が殺人や強盗をはじめとして多発したが、多くの事件は泣き寝入りに終わり、またその被害を伝える報道はGHQの検閲で禁止されていた。そこには、日本国憲法の保障する法治主義もなければ、表現の自由もなかった。そして、こうした米兵関連の犯罪事件の中に多くの性暴力事件があり、その多発を予見したGHQと日本政府は、敗戦直後の1945年8月に早くも、「良家の子女を守るため」に米兵相手の売春施設を設置した。そして、翌年にそれが廃止されると売春女性が町に溢れた。最も多い時期には十万人以上の女性がパンパンやオンリーになっていたと伝えられている。GHQと日本政府は、米兵への性病の流行を恐れて取り締まることはあっても、売買春そのものは見て見ぬふりで放置した。日本を占領したアメリカ軍人、兵士の40パーセント以上が現地人女性の愛人を抱えていたといわれている。

 パンパンやオンリーは、日本国憲法の明るい市民生活とアメリカ軍の暴力的支配の共存を確保する緩衝材の役割を期待されていたといえよう。個人の尊厳と女性の人格を高らかに謳い上げた日本国憲法を生み出した日本社会は、同時に、「良家」の女性を性暴力被害から守る防波堤として、十万人以上の女性に対米兵売春サービスに従事することを強いて半ば公認する社会でもあった。強い表現をすれば、パンパンやオンリーの女性がアメリカ軍支配の暗黒面に対応してくれていたから、日本社会は「新しい憲法、明るい生活」の明るく健康な社会のイメージを持ちえたのである。だが、日本社会が犠牲要員のパンパンやオンリーに向けたのは強い嫌悪感であり、激しい侮蔑の視線であり、その存在の無視、否定であった。そして、こうした日本社会の二重性は決して明らかにしてはならず、闇に葬るべきものであり、だから映画「戦争と平和」は厳しく検閲され、このタブーに触れる部分が大幅にカットされたのだと思う。

パンパンのお姉さん

 戦後社会における売春女性やパンパン、オンリーの問題はこれまで広く研究されており、私にはここで付け加える新しい知見はない。ただ、私は小学生のころ東京都南多摩郡町田町(現在の東京都町田市)に住んでいた。当時基地の町であった町田にはパンパンやオンリーの女性がいっぱい生活していて、何人かのオンリーは私の母親の営む洋裁店の顧客であった。子どもの私は多くの「パンパンのお姉さん」にかわいがってもらった記憶がある。女性たちは皆きれいに着飾っていて、優しく、話し好きで、お菓子や珍しい食べ物を気前よくくれた。私たち基地の町の子どもはオンリーに頼まれた買い物や留守番などのちょっとした仕事は喜んで行った。こうした女性たちの内面には辛く苦しいものがいっぱいあったのだろうと思うが、子どもの私には理解できるはずもなく、明るくはしゃいでいた。だが、パンパンやオンリーに向けられた日本社会の差別的な眼差しを大人たちからいくら教え込まれても、子どもの私には納得がいかなかった。大人たちが女性たちに投げつける汚らしい言葉を真似してはやし立てるようなことはしたくもなかった。

 最近、映画「戦争と平和」を観る機会があったが、GHQにフィルムを切り刻まれて米兵の客が消えて日本人客しかいないパンパン宿やキャバレーの場面を見て、これは私が子どものころに見ていた占領期の基地の町の情景とは違うという違和感が強かった。GHQの検閲で消えてしまった、あって当たり前の場面のカットされた痕跡から、子どものころに感じていた、汚らわしい女性たちに近づいてはいけないとする「臭いものに蓋」のような大人社会からの強い躾けの不気味などす黒さが甦ってきた。良い子どもはこうした大人社会の二重の現実に関心をもつなとの脅しのような訓育に曝され、その是非など理解できるはずもなく、ただそのどす黒さに怯えていた幼い自分の姿はいま思い出しても哀れである。

伊豆大島暫定憲法「大島大誓言」

 1946年1月29日のGHQ覚書で大混乱したのが伊豆諸島であった。というのは、覚書で日本の行政権が及ばない地域を定めた際に、そこに「伊豆群島」と記載されていたからである。伊豆諸島には米軍が上陸しており、本土との通信、交通も不十分であり、伊豆諸島の人々、特に伊豆大島の島民は日本から切り離されて占領軍の兵士に好き勝手にされることに大きな不安を感じていた。本土に疎開していた女性たちにも危険だから帰島するなという連絡が送られた。

 日本政府は伊豆諸島の指定解除を求めた。伊豆大島の側からも連動する動きがあったが、同島内ではそれとは別に、GHQの覚書手交の1週間ほど以前に、大島駐屯軍隊長ライト大尉から日本との切り離しと、行政は島自体で行うべきで駐屯軍隊長は監督に留まる旨が通告されていた。そこで島の有力者、有志が会合を開き、3月上旬に、独立した伊豆大島の憲法にあたる「大島大誓言」を定めた。これは、独立国家の統治権、議会、執政について定めたもので、司法権その他不足する部分もあるが、統治権(主権)、立法府、行政府と続く立派な憲法典である。ところが、同月22日にGHQから分離指定解除が通告されて、自主的な国家創出の必要性がなくなったので話は中途で沙汰止みになった。

時機に遅れた「児童憲章」

 日本国憲法の制定時には、そこでは児童の取り扱いが不十分であることが自覚されていて、制定後に増補して改正することが構想されていた。4年後の1951年に成立した児童憲章(The Children’s Charter)がそれであり、時にはThe Constitution of Children と呼ばれることもあった。しかし、4年間で状況は大きく変わっており、増補型改正の好機はすでに去っていた。憲章は、政府が憲法制定会議に準じて児童憲章制定会議を開催して、全国から選出された236名の各界の代表者が参加してそれを議論して決定したにもかかわらず、それに継ぐ国会の議決も国民投票もなくて法的な権威も効力も認められず、六法全書にも採録されていない。GHQも法典化を命じなかった。日本国憲法第96条は、その英語表記がAmendmentsであり、元来はアメリカ憲法流の増補型憲法改正(アメンドメント)方式による複数回の改正を想定していたのだが、子どもの人権条項は追加条文である修正第1条(ファースト・アメンドメント)になりそこなった。その結果子どもの人権は軽視され、憲法の教科書では、つい最近まで、「子供の人権」と題された項目で扱うのは、子どもは未成熟であるので大人に認められる人権を制限してよいという「子供における人権制限」の議論ばかりだった。

増補型憲法改正(アメンドメント)方式

 増補型憲法改正(アメンドメント)方式そのものの運命も暗転した。それは、内閣法制局官僚と憲法学者によって、日本の法律文化に似合わないという理由で切り捨てられて、憲法第96条の解釈が変更されてドイツ憲法的な改正手続きだけを定めたものと読み改められた。上で紹介した憲法普及協会の座談会記録『憲法改正と天皇の問題』を見ると、金森徳次郎も入江俊郎も宮沢俊義もアメンドメント方式のことなど全く気にせずに、大日本帝国憲法当時のドイツ法的な改正方法論を自明の前提にしてあれこれ思いつくままの放談を進めている。戦後日本の憲法状況は、アメリカ流の憲法典を、ドイツ観念法学で解釈して、日本風に立法化して官僚が動かしたものだといわれるが、第96条の改正手続き論はそういった米、独、日の法律文化が入り混じる三重構造の典型例である。

 だが、現実の政治はそう簡単には動かなかった。憲法改正を危険視する勢力も強大で、憲法改正手続きの立法はまったく進まず、憲法第96条は休眠状態になり、手続きの具体像は明らかにならないままで長い時間が過ぎた。そして、2007年、それを明らかにする国会法改正と、憲法改正手続き法(国民投票法)の制定が行われた。このうち国民投票法の施行は2010年であったが、2007年以降は憲法改正を強く主張する自民党議員が少数になったこともあって議論は進まず、2016年の参議院議員選挙以後、議員数の上では改憲を主張する勢力が衆参両院で3分の2を超えたとはいえ、議論はなお停滞している。

日本国憲法の「お誕生」と「誕生」

 日本国憲法は、時代の変化に適応するように条文の解釈を変えたことは多かったが、条文そのものは一度も改正されることなく70歳の誕生日を迎えた。アメンドメント方式による条文の追加も一度もおこなわれなかった。世界的に見ても珍しい長寿の憲法であることになる。ただし、その間にこの憲法は日本社会にすっかり定着して、国の運営も憲法から逸脱することもあったが基本的にはそれに沿って展開され、何よりも主権者である国民がそれを日々の活動の中で活用するようになった。

 そういう文脈で日本国憲法の歴史を観れば、国民が平和主義と非核をかざして政府の安全保障政策を批判し、基本的人権尊重をかざして憲法裁判を起こして政府の人権保護責任を追及し、国民主権をかざして投票箱を通じての政権交代政治と市民参加型政治を主張して実現したとき、つまり一言でいえばこの憲法を自分のものにして活用するようになったとき、形式上は70年前に「お誕生」した国民主権の日本国憲法に実質的意味での「誕生」があったのだと思う。だがそれはずっと後の時代、この連載とは別の物語になる。

おまけ6:日本国憲法の後日談

昭和天皇の日本国憲法イメージ

 政府寄りの憲法研究者である佐藤功は、昭和天皇の代替わりがあるまでは日本国憲法の象徴天皇制は起動しないと語っていた。一体、日本国憲法下の天皇制には、その施行後に何が起きていたのだろうか。「昭和天皇の日本国憲法イメージ」は興味ある後日談である。

 昭和天皇は、日本の占領期に、マッカーサーと合計11回以上会見している。第1回目の会談は、1945年9月27日に東京のアメリカ大使館で行われ、その事実は衝撃的な両者の写真とともに報道されて、敗戦に伴う天皇制の変質を告げるものとして広く強い衝撃を与えた。そして、昭和天皇はその後少なくとも10回マッカーサーと秘密裏に会見していたが、その事実を明らかにしたのは歴史研究者の半藤一利である。

 半藤の解明したところによれば、昭和天皇はマッカーサーを訪問するたびに、その時々の最重要な政治的課題について積極的に意見を述べている。それに対して、日本国憲法第4条「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」で天皇の政治的無能力を命じたマッカーサーであるのに、天皇の発言の越権を咎めるどころか、英明な君主扱いで積極的に応答している。憲法的に重要なのは1947年5月6日の第4回訪問で、昭和天皇は日本が憲法で非武装を国是としたのであるからアメリカがリーダーシップを取って安全保障することを求め、マッカーサーは日本の防衛を保証すると誓約した。また、同年の秋に米軍が日本防衛のために全国に基地を展開する計画で芦田均総理大臣が日本本土のどこでもよいと同意したことを知った昭和天皇は、沖縄を25年ないし50年の長期間アメリカに貸与してそこにアメリカ軍の強大な中心基地を集約すれば、日本国内に基地網がなくても日本の安全も極東の軍事バランスも確保できるという思い切った軍略を親書でGHQに示し、日米両国はその線でその後の安全保障体制を築いていった。昭和天皇は極めて老練な外交交渉家、軍略家であったといえる。

 一方、国内政治でも、昭和天皇の積極的な政治発言があった。これは、天皇制批判の国内世論をことさらに刺激するので厳重に秘密が保たれ、皇居内での天皇の言動を外部に漏えいさせることは政治家や官僚が絶対にしてはならない一大タブーであった。古くは1949年10月に、当時の警視総監田中栄一は主要都市の警察長らとともに宮中で昭和天皇に治安状況の内奏を行い、その際に「治安の維持は日本の再建の為に大切なことであるから、みんなよく確りやつて欲しい。警察の制度が非常に複雑だから、運営の点で関係の警察とよく連絡協力して、治安確保に一層努力することを希望します」との言葉を得た。田中は退出後に警視庁本庁舎第一会議室に全職員を集めてこの天皇の言葉を伝達し、のちに自著でも全文を紹介している。内奏とお言葉という慣習が日本国憲法制定直後からすでに広く行われていたことが分かる。また、昭和天皇とマッカーサーとの第8回目の会見はこの年の7月8日であり、天皇はしきりと国内の治安の悪化を憂慮する発言をしていて、田中の内奏の時期と合う。

 田中の場合は天皇の言葉が外部に漏れることがなかったので政治問題化しなくて済んだ。一方、1973年5月に防衛庁長官の増原恵吉は防衛問題の内奏ののちに新聞記者に、内奏の際に天皇から「近隣諸国に比べ自衛力がそんなに大きいとは思えない。国会でなぜ問題になっているのか」と言われ、「おおせの通りです。わが国は専守防衛で野党に批判されるようなものではありません」と答えると、天皇から「防衛問題は難しいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪いことは真似せず、よいところは取り入れてしっかりやってほしい」との言葉をもらい、「防衛二法(防衛庁設置法、自衛隊法)の審議を前に勇気づけられた」と話した。これはタブーの明白な侵害であり、増原はバッシングにあって発言の翌日に防衛庁長官の職を辞任させられた。

 このタブーは平成年間、現天皇になっても継続している。2001年9月に小泉純一郎内閣の外務大臣であった田中真紀子が新任大使の認証式で宮中にいた際の天皇との会話の内容を外務省職員らに自慢気に漏らして大問題になり、2009年11月に鳩山由紀夫内閣の亀井静香金融・郵政改革担当大臣が宮中での午餐会の席での天皇との会話をテレビ番組で漏らして非難を浴びた。田中や亀井の場合は雑談の漏えい程度であったが、天皇が国務大臣、衆参両院議長、高級官僚らから正規の報告、内奏を受けるのに用いるのは昭和天皇の時期から同じ皇居内の小部屋であり、ここでは二人だけの密談が行われ、天皇は意見を述べ、希望を語り、指示を出している。

 こうした内政、外交上の天皇の行為を日本国憲法第4条違反だとすることは困難ではない。だが、少し見方を変えてみると、ここには天皇が自ら体現してきた象徴天皇制のイメージが具現している。昭和天皇がGHQ草案受諾時の内閣総理大臣幣原喜重郎や枢密院議長清水澄から象徴天皇制についてどのように説明されたのかは記録が残されていないが、立憲君主制の一変種ないしそれに近いものと説明されていたのではなかろうか。天皇は、自身の政治的発言が憲法違反の国政への干渉であるとは毛頭思っていなかったであろう。周囲の者はこうした天皇の思いを認め、天皇の気持ちが傷つくことのないように配慮して、立憲君主制の君主と臣下の関係のように謹聴する振る舞いを続けてきた。このほかに、天皇が行う法律の公布手続きは「御名御璽」で大日本帝国憲法の裁可手続きと同じだし、総理大臣、衆参両院議長らが就任後に最初に行う公務は各皇族を歴訪して就任の報告を行う「宮家邸への挨拶/記帳」である。外部の権力から独立している司法府でさえ式典への天皇の臨御を求めてそれが実現されると、これでやっと立法府、行政府と並ぶ対等な最高権力になれたと歓喜する。最高裁長官は宮中祭祀に出席し、就任時と退任時に夫妻で宮中に呼ばれて天皇から慰労の言葉をかけられて晩餐にあずかる。そうした壮大な立憲君主制のお芝居が昭和天皇にとっての日本国憲法として続いた。日本国憲法は皇居の外では国民主権原理で政治的に無力な象徴天皇制であるが、皇居の中では立憲君主制原理で天皇は君主であり続けた。佐藤功の残した言葉は日本国憲法の運用におけるこの奇妙なダブル・イメージを示唆している。

国際連合への加盟

 GHQが提示した憲法草案の前文第二段には次の一文があった。“We desire to occupy an honored place in an international society designed and dedicated to the preservation of peace, and the banishment of tyranny and slavery, oppression and intolerance, for all time from the earth.”。この文章は、日本政府によって次のように翻訳された。「我等ハ平和ノ維持並ニ横暴、奴隷、圧制及無慈悲ヲ永遠ニ地上ヨリ追放スルコトヲ主義方針トスル国際社会内ニ名誉ノ地位ヲ占メンコトヲ欲求ス」(いわゆる3月5日案)。

 この文章の肝はinternational society に不定冠詞のanがついていることである。an apple といえば、数多くあるリンゴの中の一つを意味する。an international societyは、一つのinternational societyである。これは通常考えられている、地球社会と同義の国際社会ではなく、地球社会に存在する数多くの国際団体の中の一つを意味する。そしてそれは、「平和ノ維持並ニ横暴、奴隷、圧制及無慈悲ヲ永遠ニ地上ヨリ追放スルコト」を「主義方針」つまり目的として設計され(designed)、それに献身している(dedicated)団体である。いうまでもなくこれは国際連合であり、日本は国連加盟による国際社会への復帰の願望を憲法の最も根本的な原則として設定するように要求されたのである。

 国連(United Nations)は、第二次大戦中の軍事同盟である連合国(United Nations)を基にして、1945年に設立され、その憲章には、連合国と対戦した日本やドイツなどについては差別的な処遇を認める敵国条項(第53条など)を持っている。日本国憲法前文は、日本が連合国に哀願してこの指名手配を解除してもらい、かつての敵国集団の末席に連ねさせてもらうことを至上の名誉としたことになる。

 これほどのUnited Nationsへの拝跪は、憲法に第二の降伏文書の色彩を濃くさせるものであり、敗戦国の謝罪の形とはいえさすがに日本側の受け入れられるところではなかった。果せるかなこの文章は、3月5日案から一夜明けた3月6日の憲法改正要綱では、「日本国民ハ平和ヲ維持シ且専制、隷従、圧抑及偏狭ヲ永遠ニ払拭セントスル国際社会ニ伍シテ名誉アル地位ヲ占メンコトヲ庶幾フ」となった。文章の推敲にあたった官僚の巧みな細工である。ここに言う「国際社会」は同じ言葉なのに「地球社会」の意味に近く、平仮名書きに改められた現行の文章では「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」となり、「設計され、それに献身している」は「努めている」と変えられ、GHQ草案にあった連合国グループへの転向を渇望する色彩はさらに希釈された。日本は1956年に国連加盟が承認されたが、憲法前文のこの文章の微妙なニュアンスを思い出して指摘する者はいなかった。忘却が後日談となっている。

戦犯裁判の法理

 GHQが示した憲法前文の案文第三段にはもう一つやっかいな文章があった。“We hold that no people is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal; and that obedience to such laws is incumbent upon all peoples who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other peoples.”日本政府はこれを次のように翻訳して受け入れた。「我等ハ如何ナル国民モ単ニ自己ニ対シテノミ責任ヲ有スルニアラスシテ政治道徳ノ法則ハ普遍的ナリト信ス、而シテ斯ノ如キ法則ヲ遵奉スルコトハ自己ノ主権ヲ維持シ他国民トノ主権ニ基ク関係ヲ正義付ケントスル諸国民ノ義務ナリト信ス」(3月5日案)。

 ここでこの文章が元来意味するところをもう少し明らかにすると、われら日本国民は、①いかなる国の国民(軍人、兵士)であっても自国(の最高位者)に対してのみ責任がある(その命令に従って行動した場合は自身の行為について刑事責任を免責される)のではなくて、②戦争犯罪人、人権、人道を侵す者は処罰されるべきであるという政治道徳の法はいつでもどこでも誰に対しても適用される(universal)ものであり、③この法に従うことを自己の責任とする(incumbent upon)ことが、自己の主権を維持し、他の国民との正義に基づく関係を維持しようとするすべての国民の義務である、と思料する(hold)ということである。

 こう理解すれば、この文章が、1945年11月から46年10月にかけてドイツ、バイエルン州ニュルンベルグ市内で行われていた戦争犯罪人裁判で展開され、後に国連総会決議とされた、戦争犯罪者処罰のニュルンベルグ裁判法理、つまり、いかなる人間も上官、ひいては自国(の主権者)の命令に従ったという理由では戦争犯罪、人権、人道侵害の犯罪から免責されることはないとする法理論を、日本国民が主権者として日本でも全面的に是認する趣旨であることが分かる。前文の起案者であるGHQ民政局のハッシーは、同局内部の憲法草案検討の運営委員会で、これがニュルンベルグ裁判法理であることを力説し、①、②はハッシーの文案、③はケーディスの修正文案で固まった。

 GHQ草案はここまで日本の猛省、屈服を求めたのである。日本は後に敗戦国として、戦勝国の行った極東軍事裁判の有罪判決を継承することで講和独立したが、さすがに新生憲法の冒頭でこれを主権者国民として真正面から認め、国内法上の最重要法理として自認して頭を下げるのは行き過ぎであろう。憲法は謝罪文ではない。

 ここでも危機を救ったのは官僚の細工であった。前文のこの文章は、翌日の3月6日の憲法改正要綱では「我等ハ何レノ国モ単ニ自己ニ対シテノミ責任ヲ有スルニ非ズシテ、政治道徳ノ法則ハ普遍的ナルガ故ニ、之ヲ遵奉スルコトハ自国ノ主権ヲ維持シ他国トノ対等関係ヲ主張セントスル各国ノ負フベキ義務ナリト信ズ」と変身し、最終的に現行憲法では「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」とされている。一晩のうちに、戦争犯罪に関与した国民個々人の法的責任を承認するという、場合によっては個人や法人の賠償責任にも結び付く法的に極めて重要な意味のある文章は、国民ではなく国家の、法的責任ではなく道義的責任の、理性的な認識、判断ではなく単に主観的な想い(「信ずる」)を述べるだけの、法的な意味のない人畜無害な、国際協調、国際貢献の文章に変身している。GHQが日本政府によるこれほどの曲訳になぜオーケーを出したのかは謎であるし、前文は主権者国民が自らの反省と決意を語る文章なのにここだけが国家としての道義を語るという構文上の不均衡も生じているが、いずれにしても、日本政府としては最悪の選択は免れたことになる。

 のちに2003年12月に、小泉純一郎首相は、イラク特措法に基づく自衛隊の海外派遣に際して、これを憲法違反とする批判もあるが「憲法をよく読んでいただきたい」として前文のこの文章を読み上げ、「日本国として、日本国民として、この憲法の理念に沿った活動が国際社会から求められている。……この憲法の精神、理念に合致する行動に自衛隊の諸君も活躍してもらいたい。これは大義名分にかなうし、我が国が自分のことだけ考えているのではない……」と演説した。前文制定の経過、趣旨からすると実に奇妙であった。前文が全く異なった文脈で語られるというとても不思議な後日談である。

おまけ7:日本国憲法の忘れ物

枢密顧問官柳田國男

 民俗学の創始者、柳田國男が日本国憲法の制定に関係があったことはあまり知られていない。柳田は、昭和21年7月に吉田茂首相の直々の推挙で就任した枢密顧問官である。日本国憲法の政府案はすでに枢密院への諮詢を経て帝国議会に提出済みであり、柳田の意見が条文案に反映される機会はなかった。吉田が高名な柳田に期待したのは、象徴天皇制を採用した日本国憲法では、全国の「常民」が天皇を中心に一体をなしてきた日本の国体が維持されたとする民俗学的な天皇制擁護論であった。なお、柳田は、同年10月29日、帝国議会で議決された修正案を議決する枢密院の会議には出席して起立採決で賛意を表明している。

 柳田の考えが公にされる機会は少なかったが、吉田とはこの後も生涯親しく交際し、また、米作と祖先崇拝を日本というまとまりの軸に据える柳田の教えは、保守派から革新派まで幅広く傾聴された。以前に法制局参事官、大礼使長官官房事務官、貴族院書記官長などを勤めた官僚出身の柳田には天皇崇拝の考え方が強く、保守派の吉田首相による登用の期待に十分に応えたように見える。

 当時、論壇では、日本国憲法の制定によって日本の国体が変わったのか変わらなかったのかという国体変革論争があり、国民主権、共和制が採用されたとする憲法学者に対抗して、倫理学者の和辻哲郎が文化論を駆使して応戦していたが、柳田は和辻よりも大物で、論争の表面には登場しないが和辻らの奥にどっしり控えていた国体堅持論の重鎮であった。

 柳田が直面したのは、東大法学部の政治学者丸山眞男が提唱し、憲法学者の宮沢俊義が広めた「八・一五革命説」である。大日本帝国憲法の天皇主権を国民主権に変えるGHQの日本国憲法草案を知った丸山は、この大転換が生じたのは、昭和20年8月15日に主権の移動をもたらす法的意味での革命があったからだと説明した。この説明そのものが、GHQの決意を知った後の「後出しじゃんけん」であったが、宮沢はそれを憲法学的に洗練して論戦に参加し、戦後憲法学の主役の座を射止めた。

 柳田の立場はこれとは違う。祖先を神として一家で祭祀を行う民間神道を信じる日本国民には、その延長線上に、あらゆる国民の共通の祖先の直系の子孫である皇室への崇拝があり、天皇が行う神道の宮中祭祀は明治時代に再編集されて国家神道のものとされたがそれは例外で、本来は皇室内部の祖先崇拝の祭祀であり、その遂行は一般家庭の民間神道の祭祀と同じように日本国憲法においても許容されている。吉田内閣以降、歴代の政権は、天皇の行う神道儀礼、宮中祭祀を皇室の私的行為、プライバシーだと説明して違憲論を封殺してきた。柳田は日本国憲法下の天皇制の在り方を見事に理論付けたのであった。

 ただ、現実の憲法史が柳田の見込み通りに動いたものではない。国会開会式、法令の公布手続き、官吏任免手続き等への天皇の関与では立憲君主的な振る舞いを残そうとする要求が強く、皇室の私的行為であるはずの宮中祭祀に内閣総理大臣、衆参両院議長、最高裁判所長官が必ず出席することも憲法慣習となっている。三権の長には内閣総理大臣を第一位、衆議院議長を第二位とする宮中序列の位置付けがあり、外国の元首や外交使節への応接にも参加するし、皇居で非公開の政務報告、内奏をする機会も多い。内奏は防衛官僚、警察官僚も含む高級官僚が行うこともある。こうした立憲君主制と見紛う天皇の振る舞いについて、天皇制批判の左翼や憲法学者は神経を尖らせているが、皇室が神道式の祖先崇拝儀礼を行うことについてはあまり異論を聞かない。憲法学者による柳田の天皇制論への批判も聞かない。つまり、柳田は、日本国憲法下の天皇制について、広く賛同を得られる理論化に成功したのである。

 昭和37年に柳田が亡くなると政府は在野の学者としては異例に高位の正三位勲一等旭日大綬章を与えて生前の功績に報いた。民俗学の開祖としての柳田に対してはすでに昭和26年に文化勲章が授与されて国としての表彰は完結していたのであり、日本国憲法制定時には従三位勲四等であった柳田が日本国憲法下でなぜここまで高位になったのか、天皇の意向も汲み取ったように見える追贈がどのような功績の顕彰であったのかを考えると含蓄がある。

八・一五革命説

 日本国憲法の制定当時に盛んに世にもてはやされたのに、いつの間にか消えてしまったものの中に「八・一五革命説」がある。本稿ではこれまで憲法学説の内容、妥当性については議論してこなかった。ここでもその姿勢を貫き、「八・一五革命説」の社会心理史に限って見てみたい。

 昭和20年8月の敗戦当時の人々の気持ちを「忖度」してみよう。人々の多くは、それまでに戦争反対で天皇に背いたことなど一度もなく、むしろ戦争遂行のために召集、疎開、勤労動員、金属供出などの苦難にも耐えて協力してきた。敗戦から数か月、自分たちの戦争への協力が家族も含めて数百万人の戦死者、戦争被害者を生み出したことを後悔し、号泣もしたけれども、その償い方は分からないでまだ呆然としていた。作家の坂口安吾は当時のベストセラー『堕落論』で、敗戦後の国民の呆然自失ぶりを描いて堕落しきるべき道を説いた。ただし、人々は自分が「大東亜戦争」を支持しなかったかと言われれば否定しきれないのであって、お互いにその傷口を攻撃することは控えられた。反戦、反天皇、非転向の日本共産党だけが声高に天皇の戦争責任を指摘し、大急ぎで左翼に転向した文化人、研究者、芸術家などもそれに同調したが、支持は多数にまでは広がらなかった。

 多くの人々にとって、「八・一五革命説」はとても甘美であった。人々は、戦争反対などと唱えなくても、天皇制打倒を叫ばなくても、何も行動しなくても、ほれ、昭和20年8月15日に立派に天皇主権を打倒して国民主権と平和を実現したのです。こう囁いたのは東大法学部の丸山真男であり、同学部の宮沢俊義はそれを文章にして広めて、戦争を支持して加担した多くの人々に自分の戦争中の大活躍を隠蔽し、敗戦後の転向を合理化する道筋を開いて見せた。その中には、丸山や宮沢自身も、その他の戦争に協力した知識人、文化人も含まれている。

 昔、オーストリアにハンス・ケルゼンという憲法学者がいた。彼は、第一次大戦後の祖国オーストリアの過酷な運命を背景に、一国の憲法がまったく新しい原理のものに変更される原因は二つ、国際社会の圧力か、国内社会の革命のうちのどちらかに集約されると述べた。ケルゼンはこれを根本規範の変動と名付けた。この考え方を応用して言えば、大日本帝国憲法から日本国憲法への根本規範の変動は、GHQに具体化されている国際社会の圧力による場合の典型例であるのに、丸山はこれを日本国内での民主的な革命だと書き換えたのである。実際には国民は天皇に対する不忠の一億総懺悔をしたことはあっても天皇主権を否定する革命と呼べるような言動はなかったが、一朝目覚めれば国民主権、丸山は「法的意味での革命」という便利な言葉を考案して8月15日に国民主権が成立したとした。

 当時、GHQは、連合国によって日本の憲法問題への過剰な関与を禁じられており、日本国憲法は日本国民の自発的な努力の成果であると言い繕っていた。丸山の理論は、結果的に、こういうGHQには好都合な弁論になった。GHQは、自身の干渉に触れた文章は左右を問わずに検閲で削除した。そして宮沢以下の憲法学者は、右翼も左翼も、GHQの介入、干渉について黙して語らないで、日本国民が主役であるかのような憲法理論を展開するようになった。これが学界のお作法となり、行儀の悪い中村哲法政大学教授は、何度検閲で駄目出しされても懲りずに筆を曲げずにいて、ついには日本一の回数のGHQ発禁学者になったが、「八・一五革命説」の支持者はそういう愚かな危険を犯さないように賢明に自主規制した。

 結局、「八・一五革命説」に同調することは、自分たちが平和と国民主権を実現したのだという偽史を体内に取り込み、戦争を支持して加担してきた立ち位置から平和愛好国民へと変身した過去を美しく自己欺瞞することであった。戦争中に何をしていたにせよ、8月15日に国民主権と平和主義確立の法的な革命を成し遂げたのだからその罪は許され、改心がなされたのだから戦時下の言動はすべて封印されて忘却され、戦後の自分は新生者であって転向者という「前科者」に近い語感の後ろ暗いレッテルを貼られることもない。日本国憲法は、それを信じる者に、戦時下の戦争協力の過去を黙殺し、その罪を許す免罪の書となった。丸山は、そして宮沢はこの福音を伝える使徒であり、この時、日本国憲法は聖典となった。私は、ここに、「八・一五革命説」が憲法学説の範疇を超えて、広く社会一般で圧倒的な通説になり得た社会心理的な根拠があったのではないかと考えている。

 丸山は後に「悔恨共同体」という言葉を作って、自己を含む戦後の知識人の罪の意識を説明した。丸山は私の大学生当時の演習の師であり、その後も彼の個人を知る私はその誠実な人格を疑いはしないが、厳しく言えば、「八・一五革命説」が開いたのは「悔恨共同体」よりももう一歩先の「自己免罪共同体」であったのではなかろうか。

文化国家

 昭和20年9月4日、第88回帝国議会開院式における天皇の勅語に「朕ハ終戰ニ伴フ幾多ノ艱苦ヲ克服シ國體ノ精華ヲ發揮シテ信義ヲ世界ニ布キ平和國家ヲ確立シテ人類ノ文化ニ寄與セムコトヲ冀ヒ」があった。平和国家という言葉はこの時初めて登場したものであり、日本国憲法第9条の平和主義の淵源はこの天皇の言葉にあり、決してGHQに押し付けられたものではないし、昭和天皇は平和主義者であったのだという歴史の再定義も生じている。

 ここで注目するのはそこではなく、その後ろの「人類ノ文化ニ寄與セム」である。これが、文化国家という観念の萌芽であり、同年中に政府によってこの言葉が使われるようになった。

 文化国家という観念は、辞書的に説明すれば、「警察国家・法治国家などに対して文化の発展・向上を最高指導理念とする国家」のことであり、19世紀のドイツで提唱された。日本では、もう少し緩やかで、国家の進むべき目標という程度に使われている。昭和21年3月5日の「憲法改正ヲ政府ニ鞭撻スル勅語」では、「日本國民ガ正義ノ自覚ニ依リテ平和ノ生活ヲ享有シ文化ノ向上ヲ希求シ進ンデ戦争ヲ抛棄シテ誼ヲ万邦ニ修ムルノ決意ナルヲ念ヒ乃チ國民ノ総意ヲ基調トシ人格ノ基本的権利ヲ尊重スルノ主義ニ則リ憲法ニ根本的ノ改正ヲ加ヘ」とあり、昭和21年11月3日の日本國憲法公布記念式典において発した勅語には「自由と平和とを愛する文化國家を建設するやうに努めたい」とあり、昭和22年6月23日、日本国憲法施行後の第1回国会開会式の勅語には「われわれ日本国民が真に一体となって、この危機を克服し、民主主義に基づく平和国家・文化国家の建設に成功することを、切に望むものである。」とある。勅語の文章は内閣が輔弼して作成されるのであり、文化国家は政府の主張であった。

 また、憲法草案を審議した帝国議会衆議院は、その議決時の付帯決議で「四、憲法改正案は、基本的人権を尊重して、民主的国家機構を確立し、文化国家として国民の道義的水準を昂揚し、進んで地球表面より一切の戦争を駆逐せんとする高遠な理想を表明したものである。」とした。議会での憲法審議の立役者であった芦田均も、昭和21年11月4日、日本国憲法公布日の翌日のラジオ放送で「この憲法は、新しき平和国家、文化国家の基盤となるにふさはしい姿を備へてゐる」と述べ、昭和47年5月3日の憲法施行日には「今後われわれは平和の旗をかかげて、民主主義のいしずえの上に、文化の香り高い祖國を築きあげてゆかなければならない」と述べている。文化国家は議会の主張でもあった。

 日本国憲法の制定当時、文化国家は、民主主義国家、平和国家と並ぶ、新生日本の国家の基本的な性格を意味していた。日本国憲法の理念の重要な構成要素であったのである。だから、東大法学部が総力を挙げて出版した日本国憲法の解説書『新憲法体系』シリーズでは、同学部の有力教授の一人、田中耕太郎が昭和22年9月に執筆した『新憲法と文化』が出版された。また、日本国憲法の施行に伴って設置された国会には、衆参両院に「文化委員会」という常任委員会が設置された。ただし政府は、GHQ草案に文化国家の趣旨が含まれていなかったことに敏感に反応して、帝国議会の議論などではこの言葉の使用を避けた。それだけに、文化国家の建設は占領軍の押し付けではなく、平和主義と同様に天皇自身の発意による日本国の基本国策であると言える余地が生まれたが、保守派もこの点を強調することは控えた。

 だが、衆参両院の「文化委員会」は、昭和23年秋の第3回国会での常任委員会の所掌官庁別への再編成で、所掌事務を他の省庁別常任委員会に移管して廃止された。そしてこの頃から「文化政策」や「文化国家」という言葉は輝きを失っていく。天皇の国会開会式でのお言葉などではずいぶん後までこの語が用いられているが、実質性を欠く飾り文句になり、昭和24年以降に文化都市という考え方が出てきたこともあり、いつの間にか消えていった。そしてその空隙に基本的人権の尊重が入り、今では憲法の三大原理と言えば国民主権、戦争放棄、人権尊重であることはだれも疑わない。

 改めて考えてみれば、これは、憲法改正手続きもなく、さしたる議論もないままに憲法の三大基本原理の一つが消えてしまった大事件である。それがいつの間にか生じて、気が付けば今では文化国家という言葉も死語である。こんな幽霊話のような憲法改編もあるのかと驚かされる。

生き延びた文化勲章

 日本国憲法制定という暴風雨を潜り抜けて、大日本帝国当時の制度がそっくりそのまま生き残ったものがある。文化勲章である。それなりにややこしい経緯がある。

 文化勲章は、昭和12年に、文化勲章令によって新設された勲章である。大日本帝国憲法第15条は「天皇ハ爵位勲章及其ノ他ノ栄典ヲ授与ス」と天皇の栄誉大権を認めていたが、授勲の歴史は憲法制定よりも古く、明治初年の太政官布告に遡る。そして、明治年間に多くの勲章制度が誕生したが、芥川龍之介が喝破したように、胸に勲章をぶら下げたがる軍人が欲しがるご褒美の制度であり、特に金鵄勲章は、時には命と引き換えにして授与される名誉の印とされていた。それに比較すると文化勲章令(昭和12年2月11日勅令第9号)は「文化勲章ハ文化ノ發達ニ關シ勲績卓絶ナル者ニ之ヲ賜フ」と、初めて文化の人を顕彰する趣旨の珍しい勲章であった。同年の第一回の受勲者には、長岡半太郎(物理学)、本多光太郎(金属物理学)、木村栄(地球物理学)、佐佐木信綱(和歌・和歌史)、幸田露伴(小説)、岡田三郎助(洋画)、藤島武二(洋画)、竹内栖鳳(日本画)、横山大観(日本画)が名を連ねている。

 第二次大戦の敗戦後、日本では、天皇制の廃止に伴って天皇から下賜される勲章の制度も消滅するのではないかという不安が生じていた。軍国主義の象徴である金鵄勲章が廃止されるのは致し方ないが、国としては授けた名誉の印が消滅するのは耐え難く不名誉なことである。

 ここで日本政府が打った手は興味深い。政府は、昭和21年2月11日の紀元節に、中田薫(法制史・日本法制史)、宮部金吾(植物学)、俵国一(金属学)、仁科芳雄(原子物理学)、初世梅若万三郎(能楽)、岩波茂雄(出版)に文化勲章を授与した。文化勲章を授与する日はそれまでは固定されていなかったが、紀元節に授与した先例はない。政府は、日本という国の建国の本義は武力と戦争ではなく学術と芸術の振興にあり、天皇はそういう平和な文化の体現者であると主張したかったのであり、紀元節は、主旨が神権天皇制と軍国主義に置かれていた前年までのものとはすっかり模様替えして文化の紀元節となった。すでに敗戦直後から、天皇や政府は、これからの日本は文化国家として世界に立つと主張していたが、その動きと軌を一にする授勲であり、軍国主義から決別し、平和な文化国家となるのが日本という国の本然の姿であるという弁明をアピールしているのである。中田薫、宮部金吾、俵国一、仁科芳雄、初世梅若万三郎、岩波茂雄等の諸氏は都合よく出汁として使われている。GHQにも評判の悪くない文化勲章を先頭に立てて天皇の文化イメージを高め、勲章制度の存続を既成事実化する作戦はうまくいったのである。

 しかし、皮肉なことに、この日の数日後にGHQは憲法典の抜本的な改正を命じ、大日本帝国憲法の栄誉大権の消滅を命じた。そして、できあがった日本国憲法では、栄誉大権は第7条第7号「栄典を授与すること。」という天皇の国事行為の一つに縮減された。ただ、大日本帝国憲法での天皇の任命大権や刑罰大権は日本国憲法では内閣の権限による決定の認証(Attest)という国事行為の権限に封じ込められたのに対して、栄誉大権だけは例外的に天皇自らが主体となって与える大権としての趣旨が生き続けて、Award honorsと規定されている。GHQの軍人たちも、勲章は政府ではなく君主から貰うものと思っていたのであろう。なお、第14条第3項には「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。」と定められ、勲章には付き物の年金が廃止された。

 GHQが金鵄勲章は廃止だがその他の勲章は廃止しない意向であると分かって、日本側は、日本国憲法下での国民主権にふさわしい新しい栄典制度の検討に入った。昭和23年の第2回国会に閣法としての「栄典法案」が提案された。同法案では、第1条で「国家公共に対し著しい功労のある者」を表彰するため一級から五級の勲章を新設して授与することとし、さらに、これと別に第1条第3項で「文化の発達に関し特にすぐれた功労のある者」には文化勲章を授与すると定めた。また、「国家公共に対し功労のある者」への功労章、「自己の危難を顧みずに人命を救助した者、孝行その他徳行の著しい者及び私財の寄附又は労力の提供により公益のため著しい貢献をした者」への善行章も定めた。同法案ではさらに、「表彰にあわせて賞金又は賞杯を授与することができる」とした。

 同法案は6月10日に衆議院に提出され、同月11日文化委員会に付託、同月30日同委員会で起立総員により原案可決、7月1日に本会議で異議なし確認により全会一致で委員長報告のとおり原案可決、参議院へ送付という手順を踏んだ。保守から革新まで全政党が賛成し、賞金付与は特権の付与だから憲法違反であるという異論が全く出なかったことは当時の国会議員の意識を物語っている。だが、参議院では、7月1日衆議院から受領、同日文化委員会に付託したもののすでに会期末であり、同月5日会期終了により審査未了、廃案となってしまった。

 この後、同法案は、昭和27年、昭和31年と2回立法が試みられたがいずれも廃案に終わった。そのために、勲章制度全般は明治8年の太政官布告第54号、文化勲章は大日本帝国憲法下の勅令が法的根拠という古めかしい制度のままに運営され続けた。日本国憲法の下で太政官布告が有効に機能したのである。13世紀のマグナカルタが21世紀の今日でも有効だとするイギリスにはかなわないが、なんとも古めかしい奇妙な例である。

 このような経過で、結局、文化勲章は、大日本帝国憲法当時と同じように、天皇が旧勅令を根拠に自ら主体となって授与する制度として生き残った。後日談には、憲法第14条第3項の禁止規定をかいくぐって勲章の年金制度を復活させた裏技や、栄典法の制定をあきらめた政府が憲法第7条第7号を直接に執行する政令事項であるという奇妙な憲法解釈に転じたことや、女性軽視の制度の改正が行われたことなどあるが、それはまた別の話である。

憲法付属法

 日本国憲法は多くの憲法付属法とともに生まれた。普通、憲法付属法といえば、まず憲法典が制定されて、その執行をする上での細則をイメージする。ところが、日本国憲法の場合は、憲法改正案が帝国議会で審議されていてその内容が定まっていない時期から臨時法制調査会が設置され、付属法の立案が始まっていた。調査会は各官庁の官僚と、東大法学部系の学者で構成されていた。同時に行われていた帝国議会での憲法草案の審議の際にも、この条文はどういう意味なのかと問われた政府が臨法調で関連法を整備していますと答弁したり、議員の方からそれならば法案の要綱を早く教えろという要求が出たりしている。仮に、新聞連載小説の連載中にそれを映画化する話になり、原作はまだ結末が定まっていないのに、映画のシナリオではもう最後の場面まで筋書きが決まって撮影が進んでいる事態を想像してみたい。日本国憲法と憲法付属法はそのように奇妙な同時進行ぶりであった。

 そして、昭和21年11月3日に日本国憲法が公布されると、半年後の施行の日までに多くの付属法の審議、決定が急ピッチで進み、慌ただしく議決されて昭和22年5月3日の施行日に間に合わされた。こういう経過なので、日本国憲法に盛り込まれた方が良かった多くの問題が付属法に書き込まれた。憲法付属法は第二、第三の日本国憲法であった。

 国会法では、本会議中心主義か、委員会中心主義かという議会運営の基本的な構造は、日本国憲法ではまったく触れられておらず、国会法案の立案の際に、GHQのウイリアムズ立法課長の強力な指示でアメリカ議会流の委員会中心主義と定まった。裁判所法では、日本国憲法の審議では最高裁判所に一審制の憲法裁判所の機能を付加することで大方の理解が進んでいたのに裁判所法案の審議でオプラー司法課長の強力な主張で下級審から違憲審査をするアメリカ型の違憲審査制に定まった。

 いっぽう、GHQの監視をすり抜けて、日本政府の意向が通された付属法もある。内閣法では、国務大臣として任命された者が各省庁の主任大臣となってその職域の全責任を負って行政を行い、他の大臣はそれに容喙しないという明治時代からの省庁割拠性が残された。地方自治法では、GHQは地方分権を強く求めたが、日本側は戦前の中央主権的な地方制度を残すことを主張し、自治体の長が国の機関として国の命令に従って行為する機関委任事務という奇妙な制度を作り上げた。これはGHQの指示に逆行するので到底認めないだろうと心配されたが、GHQとの事前折衝にあたった内務官僚たちは、地方自治法の法案説明の際に機関委任事務関連の条文は説明を飛ばすという裏技を使って、事情のよく分からない担当課長から、この部分も含めた地方自治法案全体への承認のサインを得た。これにより、憲法の地方自治は、GHQが考えた、民主主義を草の根で守り発展させる地方自治から、多くの点で国の事務をその地方で分担して執行する単なる地方制度へと逆行した。地方自治法案への承認のサインを得た帰路、GHQの建物正面の階段を下りながら、内務官僚の一同が、これで明治初年以来の日本の中央集権的な地方制度の伝統は守られたとバンザイをした有名なエピソードが伝わっている。

 要するに、日本の憲法改革は、憲法典の改正で完結したのではなく、その具体的な内容は同時進行の憲法付属法の制定ではじめて決まったのである。GHQは全法案の事前審査を行い、立案、審査でのGHQの指示は強烈なものがあったが、日本の官僚も良く抵抗して、自己主張をした。日本国憲法と違って、付属法の法案は日本側で立案したので、GHQの押し付けという印象は大分弱まった。そして、付属法はいずれも、大日本帝国憲法下での立法手続きを踏み帝国議会の議決を得て、憲法関連法であるので枢密院の審査も経る慎重な手続きで制定された。これは日本国憲法の制定と同じ法手続きであり、付属法とされるが実質は日本の憲法構造の重要な部分であった。日本国憲法という成文法典と並ぶ、半年遅れで公布された上でほぼ同日に施行された憲法規範の一角といっても良い。

 日本国憲法の制定経過がこうなった理由は、GHQの態度にあった。GHQが目指したのは、憲法典の改正だけではなく、日本の民主化であり、憲法典の改正は重要ではあるがその一部に過ぎず、政治の構造そのものの変革を推し進めた。だからGHQは、その承諾なしの議案の国会への提出を禁じて法律案の事前審査で多くの指示を貫いた。政府の人事にも干渉し、意に沿わない政治家は公職から追放した。日本政治の民主化という目的を達成するのに役立つのであれば憲法改正でも新立法でも直接の指示、命令でも、法形式はなんでもよかったのである。

 GHQは、昭和23年の年末ごろまでに日本民主化の作業がゴールしたことを自覚した。立法改革もほとんど終わり、最後の刑事訴訟法の立法作業が翌年の春までに終わると見込まれたのである。その後、昭和24年に、GHQ民政局は担当した民主化の成果報告書『1945年8月から1948年8月にかけての日本の政治的再編成』を作成したが、それは「日本外政の統制」「超国家主義者の排除」「日本の新憲法」「執行部」「立法部」「司法部及び法制度」「公務員制度」「地方自治」「法執行の統治に関わる諸側面」「選挙」「政党」「政治教育」に及ぶ広範なものであり、「立法部」をジャスティン・ウイリアムズ立法課長、「司法部及び法制度」をアルフレッド・オプラー司法課長が執筆したように、GHQ民政局の責任者たちが書いている。憲法は重要なテーマであるが、それに関する記述は多くの章の一部でしかなかった。

 広範囲な日本政治の民主化を徹底的に行う意思を持ったGHQであれば、要は政治構造の改革が実行されることであり、改革の根拠法が憲法典の法形式をとるか、付属法という一般法になるのかは大した違いではない。日本国憲法の草案作成は大急ぎ過ぎたので多くの問題点が残った。憲法典に盛り込まれて然るべき多くの論点が数か月遅れで付属法に回された。憲法的な内容は日本国憲法という法典に集約的に盛り込んで、そういう憲法の父として歴史に名を残したいという法律家の美学はなかった。GHQはやはり占領軍であり、スタッフはやはり軍人だったのである。

 ここから、不思議な憲法改正が起きた。日本国憲法条文の改正は不可能だから書き洩らした部分の追加はできなかったが、憲法の内容が付属法に盛り込んであれば、法律改正手続きで実質的に憲法改正ができる。超硬性な憲法典と超軟性な付属法であるのでこんな芸当ができる。日本国憲法は制定以来一度も改正されたことがないというのは不正確な表現である。日本の憲法のうち、憲法典は一度も改正されたことがないが、付属法に含まれている憲法的な内容は何回か改正されている、というべきであろう。次に扱う憲法慣習とともに。

憲法慣習

 どこの国にも憲法慣習はある。成文憲法典があっても、長年執行する中でおのずと条文にない不文の慣行が定着して、実務を拘束するようになる。日本国憲法も例外ではなく、多くの憲法慣習が生まれ育っている。

 不文の憲法慣習が生まれた一つの理由は日本国憲法の制定過程にある。憲法の制定に合わせて多くの新制度を発足させる必要があったが、天皇制の関係では新皇室典範は皇位継承など一部の制度を決めただけで、国事行為の行い方を決める法律が間に合わなかったし、元号法も作り損ねた。国会でも議会運営の大まかなところは国会法で決めたけど詳細は決めきれなかった。

 こういう事態に直面したGHQは、憲法施行の日までに法律の制定が間に合わなかった場合は、暫定的に旧法や旧慣例を継続してよいとした。そこで、多くの戦前の法令や慣習が生き延びることとなった。事項によっては、保守的な内容を目指した日本国政府と、民主化した新制度の発足を考えたGHQの間に意見の相違があり、保守的な日本政府はあえて立法化の作業を急がず時間切れに持ち込んで、旧制度を維持するサボタージュ作戦に出た気配もある。新国旗法、新国歌法を作らずに暫定的に日の丸、君が代を使うという具合である。こうして大日本帝国憲法下の制度や憲法慣習が日本国憲法の下でも継承されることになった。

 当時の国政の運用を見てみると、旧憲法との断絶ではなく、連続、継承が目立った。そしてこういう旧来の憲法慣習はその後長期間継続的に運用されて定着し、その時々の多数派の都合で法改正して変更してよいものではないと観念されるようになり、法律に書かれていても多数決で改正できない憲法慣習と位置付けられるようになった。

 もう一つの理由は、日本国憲法の執行を通じて形成された新しい憲法慣習である。国会の運営が典型例であるが、多くの場合、与野党の合意の下で運営が行われてきた。そこに形成されたルールは、先例集として記録に残されるものもあれば、まったく不文の申し合わせとして記憶されているものもある。いずれにせよ、与野党合意の下で議会運営をスムースに行う知恵の結晶であり、この全会派一致で議会運営を進める慣習もまた、一時的な多数派の国会対策で多数決で強引に覆して良いものではない。その趣旨で、これは多数派支配による国会法改正を制限する、立法を拘束する憲法慣習と位置付けられる。

 とはいえ、憲法慣習もまた、ちょうど憲法付属法の改正のように、これまで何度か改められてきた。多くの場合に与野党の合意があり、多数決で政権与党が押し切ることはそれほど多くはない。

 議会の会議の運営で与党が強行採決を試みて与野党が激突し、暴力沙汰に及んでも、翌日には国会正常化で本会議が再開されてにこやかに談笑しているという不思議な光景を見かけることがあるが、与野党合意で議会を運営するという憲法慣習は、一度や二度の強行策で崩壊するものではない。意地悪く言えば、強行採決、与野党激突スタイルで議案を処理する合意が与野党間にできている馴合いの激突が多いのである。与野党合意で定めた議会運営の憲法慣習を変更するには与野党合意が基本である。

国会はTHE DIETか、THE NATIONAL DIETか

 日本国憲法の不思議の一つに、国会を英語でどう表記するのかがある。周知のように、GHQが最初に日本政府に示した憲法草案では、一院制の議会がTHE DIETと表記されていた。日本側は直ちに二院制を主張し、GHQもそれを認めたが、THE DIETという表記には変更が加えられることがなく、この言葉は二院制の国会を意味するようになった。憲法と同時に制定された国会法もTHE DIET LAWであり、今に至っている。

 ところが、その後、英文表記をTHE NATIONAL DIETとするようになった。GHQの国会担当者の考えかたに従ったものと思われるが、大日本帝国憲法当時、帝国議会はTHE IMPERIAL DIETと英文表記されていたので、それならば国会はTHE NATIONAL DIETだということであろうか。現在では、THE NATIONAL DIETが正式の表記である。衆議院や参議院のホームページの英語版を見ると、いずれもそのように表記している。実害はないのでどうでもいいことではあるが、日本国憲法上の表記が無視されたことになる。ただし、日本国憲法の正文は日本語のものであり、英文憲法は参考資料に過ぎないから、憲法が実質的に改正された、憲法の変遷だと騒ぐことにもならない。

 奇妙なのは国立国会図書館である。これは、昭和23年にGHQの指示で作られた国会の付属機関である。それ以前の日本には、戦前の帝国図書館の流れをくむ国立図書館と、それと別組織の衆議院図書館、参議院図書館があったが、GHQの指示で、国立国会図書館とされたのである。その英文表記はTHE NATIONAL DIET LIBRARYである。当時は、国立図書館NATIONAL LIBRARYと国会図書館DIET LIBRARYの合体なのでこうしたのであろうが、合併後の銀行の名前みたいである。だが、今日の語感からするとTHE NATIONAL DIET LIBRARYの全部で「国会図書館」である。

 国会図書館は国会の付属機関として現在に至っている。国立劇場や国立競技場のように、「国立」というのは直接、間接に政府の下にある組織である。他方、議会の下にある組織は、国立国会議事堂とか国立衆議院議員会館と言わないように、「国立」という冠になじまない。国立国会図書館も「国立」は余計だ。ただ、ここは対行政サービス、対国民サービスも行うのでこうしたのだろうか。

 なお、市販の和英辞典では、「国会」の英語表記は「(日本の)the (National) Diet(*米国議会はCongress、英国議会はParliamentという)」とややこしい。国権の最高機関の名称がthe National Dietとthe Dietと2つあってどちらでもよいとする日本文化はあいまいであり、こうした日本文化の特性と日本国憲法の制定経過をともに理解していない人にはわけが分からないであろう。

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