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連載

行動経済学を読む

第1回 行動経済学の蒼い時代

京都大学大学院経済学研究科教授 依田高典〔Ida Takanori〕

1 栄冠は再び行動経済学へ

 2017年のノーベル経済学賞は、米国出身でシカゴ大学教授のリチャード・セイラー氏(72)が受賞することに決まった。セイラー氏は、心理学を使って人々の経済活動を分析する行動経済学の権威として知られる。10月9日に受賞者を発表したスウェーデン王立科学アカデミーは、受賞理由について、「経済的な意思決定をする際の分析に、心理学に基づく現実的な仮定を取り入れた」ことを挙げた。

 行動経済学にとって、最も重要な概念は「限定合理性」である。米カーネギーメロン大学で活躍したハーバート・サイモンは、1955年の論文の中で、人間の持つ情報は完全でなく、認知能力にも限界があり、計算処理の費用もかかるので、人間は効用を最大化するのではなく、せいぜい満足化に甘んじることを主張した。主流派経済学では、人間は「ホモエコノミカス」と呼ばれる合理的な存在として描かれる。人工知能の提唱者としても知られるサイモンは、ホモエコノミカスの虚構性を暴き、生身の人間に立脚したモデルを提唱した。しかし、サイモンの経済学批判はあまりにも苛烈であり、時として、経済学そのものの学問批判にまで及んだために、サイモンの問題意識は経済学者の間でそれほど浸透することなく終わった。

 限定合理性がどのような満足化行動を惹起するのか鮮やかに描いたのが、イスラエルの心理学者エイモス・トヴァスキーとダニエル・カーネマンである。現実の意思決定と最適な意思決定との間には乖離が生じるが、その乖離を「バイアス(偏り)」と呼ぶ。人間の心には、今この瞬間に重きを置く「現在性バイアス」、確率が100%であることに重きを置く「確実性バイアス」などが潜んでいる。こうしたバイアスが単純ミスでないことは、バイアスを指摘されても、多くの者が行動を改めないことからも分かる。才気煥発で天才型のトヴァスキーと内気で近寄りがたいカーネマンは、異なる個性の火花を散らしながら、絶妙のコンビで次々と新しい理論を発表した。特に、1979年の論文において、リスク下の最適行動である期待効用理論を批判的に検討した「プロスペクト理論」は、ホモエコノミカスに懐疑的な経済学者の間で幅広い支持を得た。

 こうして、サイモンが種を蒔き、トヴァスキーとカーネマンが育てた行動経済学の芽は、1980年代に入って、合理性一色の主流派経済学に飽き足らなく思っていたセイラーの手によって、大輪の花を咲かせることになる。トヴァスキーとカーネマンの追っかけをしていた若きセイラーは、米スローン財団の支援を得て、「行動経済学プログラム」を立ち上げ、また、全米経済学会の機関誌で行動経済学の連載コラムを書くなどして、主流派経済学における知名度を高める努力を続けた。

2 トヴァスキーとカーネマンの友情物語

 イスラエル出身の二人の心理学者トヴァスキーとカーネマンが、どのように行動経済学を作り上げていったのかをめくるめくような心理ドラマとして描いたのが次の著作である。

マイケル・ルイス(著)、渡会圭子(翻訳)『かくて行動経済学は生まれり』文藝春秋、2017年

(文藝春秋のサイトに移動します)

 トヴァスキーはイスラエルの勇敢な戦士で、いつも自信に溢れ、才気煥発で、誰をも魅了する。対して、カーネマンはホロコーストを経験し、何ごとにも自信がなく、内気で近寄りがたい印象を与える。こんな全く異なる個性の持ち主が一つ所で出会い、火花を散らし、とてつもない偉業を成し遂げた。

 同じヘブライ大学で働いていたにもかかわらず、お互い避け合っていた二人だが、一度意気投合すると、ものに取り憑かれたように、イスラエルとアメリカを行き来しながら、新しい経済心理学の構築に熱中する。時間はかかったものの行動主義の革命は、懐疑的な経済学者の中で信奉者を確実に増やし続け、遂には成就する。

 しかし、学問的賞賛は天才肌のトヴァスキーだけに集まり、二人の関係に微妙な影を落とす。噂をされ始めたノーベル経済学賞も、トヴァスキー一人に授与されるかも知れない。そんな気まずい空気の中で、二人は遂に決裂した。しかし、3日後、絶交したばかりの相棒から、「医師から余命6ヵ月の宣告を受けた」という電話がかかってきた。こうして、二人の友情は永遠となる。皮肉なことに、数年後、カーネマンはノーベル経済学賞を寂しく一人で受賞し、世の賞賛を独り占めすることになる。

 以下、著作のクライマックスを抜粋しよう。

 

 そんなやりとりがあってまもなく、ダニエルは全米科学アカデミーの新会員のリストを見た。エイモスは十年近く前に会員になっている。このときもやはりダニエルの名はなかった。また二人の間の格差が世間の目にさらされた。「わたしは彼に、なぜ推薦してくれないのかと尋ねた」とダニエルは言う。「しかし理由はわかっていた」。もし逆の立場だったら、エイモスは決してダニエルとの友情の力で、何かを与えてもらおうとは思わなかっただろう。心の底でエイモスはダニエルのそうした欲求を弱さとみていた。「わたしは『友だちならそんな態度はとらない』と言ったんだ」と、ダニエルは話す。

 そしてダニエルは去った。エイモスを捨てたのだ。ゲルト・ギーゲレンツァーも共同研究もどうでもいい。彼はエイモスに、もう友だちでさえないと告げた。「ある意味、彼と離婚したんだ」

 三日後、エイモスからダニエルに電話があった。エイモスはある知らせを受けたばかりだった。医者が彼の目に見つけたできものは、悪性黒色腫であると診断された。スキャナーでの検査もして、全身がガンにむしばまれていることがわかった。エイモスは医師から、余命は長くて六か月と告げられていた。彼がこの知らせを伝えたのは、ダニエルが二人目だった。それを聞いて、ダニエルの中で何かが崩れた。「彼はこう言っていた。『ぼくらは友だちだ。きみがどう思っていようと』」(『かくて行動経済学は生まれり』394ページ)

3 反逆者セイラーのシカゴ行き

 自らを「ぐうたら者」というセイラーがいなければ、カーネマンとトヴァスキーの経済心理学は心理学のままで、行動経済学の誕生はなかったかもしれない。セイラーが伝統的な経済学に大きな疑問を持ったのは、彼がアメリカのロチェスター大学の大学院生の頃だったと言う。セイラーはカーネマンとトヴァスキーの1974年のバイアスに関する論文を読み、たちまちに魅了された。1977年、セイラーは、カーネマンとトヴァスキーが滞在していたスタンフォード大学まで「追っかけ」をした。何とか、スタンフォードに滞在する道を見つけたセイラーは、二人に出会うが、柄にもなく、緊張してしまい、その時の記憶がないと言う。しかし、セイラーは、二人がプロスペクト理論を一字一句議論しながら、完成させるという瞬間に立ち会うことができた。そこら辺の経緯は以下の著作に詳しい。

リチャード・セイラー(著)、遠藤真美(翻訳)『行動経済学の逆襲』早川書房、2016年

(早川書房のサイトに移動します)

 駆け出しの経済学者にとって、ホモエコノミカスの踏み絵に抵抗することは、キャリア上のリスクをとることに他ならなかった。何とか、コーネル大学に職を得たセイラーは、苦労しながらも、セルフコントロールの理論などを発表し、次第に注目される存在となっていく。そんな折の1985年、大事件が起こる。

 合理性を重視する主流派経済学の牙城であるシカゴ大学のビジネススクールが、合理主義者と行動主義者を集めて対決する会議を開催したのだ。合理主義の巨匠は、後に全員がノーベル経済学賞受賞者となるロバート・ルーカス、マートン・ミラー、ユージン・ファーマだった。そこで、セイラーは、堂々と自説を展開した。大分、度胸がついていたのだろう。

 そして、1995年、セイラーは、シカゴ大学ビジネススクールに招聘された。この移籍はすんなりと決まったわけではなく、相当な反対もあったようだ。しかし、一番の反対者のミラーも、最後はしぶしぶ折れたようだ。

 以下、著作のクライマックスを抜粋しよう。

 

 私は裏事情にはうといので、私の任命をめぐって教授会でどんなやりとりがあったかはわからないが、私がシカゴ大学に赴任した後に、ある雑誌記者がユージン・ファーマとマートン・ミラーにインタビューしている。二人がなぜ、私のような反逆者を教授陣に迎え入れさせたのか、記者は不思議に思っていたのだ。ファーマとはいい関係を築いており、彼は、私を近くにおいて監視しておきたかったからだと、皮肉たっぷりに答えた。記者はミラーにはもう少し強く迫り、なぜ私の任命を阻止しなかったのかと、一歩踏み込んだ質問をぶつけた。この質問はどう見ても礼を失しており、「あなたには関係のないことだ」と突っぱねてもいいものだった。しかしミラーは、私の任命を阻止しなかった理由をこう語っている。「どの世代にもまちがったのが必ずいるものだ」。かくして私はシカゴに迎えられた。(『行動経済学の逆襲』357ページ)

4 三度目の正直に祝福を

 1990年のことだが、私が京都大学の大学院に入学し、最初の演習で、セイラーの現在性バイアスを解説した論文を報告した頃を思い起こすと、当時はどちらかと言えば、行動経済学ではなく、経済心理学という名称を使っていた。Google ScholarでEconomic Psychology(EP)とBehavioral Economics(BE)のキーワードを検索したところ、2000年前半までは、一貫してEPの方がBEを上回っていた。しかし、2000年代後半に、BEがEPに追いつき、2010年代前半に逆転した。こうした過程において、セイラーの地道なPR活動の影響が大きかったと想像される。

 多方面の業績を持つセイラー教授であるが、1980年代、行動経済学がまだカルトのように考えられていた時代に、心理学者のダニエル・カーネマン達とタッグを組んで、経済学界の中で孤軍奮闘、少しずつ知名度と仲間を広げた功績は大きい。2002年(カーネマン)、2013年(ロバート・シラー)と、過去2回、行動経済学分野の受賞があったにもかかわらず、残念賞扱いで待ちぼうけを食わされたセイラー教授にようやく栄冠が輝いた。セイラー教授にとっては、待望の受賞である。行動経済学を研究する者として、「三度目の正直」を心から祝福したい。

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