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書斎の窓

自著を語る


架空出版記念会
――『契約法』を刊行して

早稲田大学大学院法務研究科教授 中田裕康〔Nakata Hiroyasu〕

中田裕康/著
A5判,646頁,
本体4,800円+税

 著書を刊行したばかりの研究者がその心情を記した文章が好きだ。「書斎の窓」にも時どき掲載される。執筆中の苦労を思い起こしつつ、ようやく解放されてほっとした気持ちと、しかし、どういうわけか手放しでは喜べないという感情が表明され、それでも、やはり一つのことを仕上げたのだという雰囲気が伝わってくる。現在では、私自身が執筆者の仲間入りをしているので、そのような文章に接して、共感したり、励まされたりするという読み方になっているが、学生時代は、仕事をし終えた謹厳な著者の少しくつろいだ様子を垣間みて、いいなあと思うばかりだった。

 その白眉が来栖三郎先生の『契約法』(1974年)の「しおり」に記された文章である(法律学全集のDVD版にも収録されている)。いつまでも出ない「幻の本」といわれていたが、この秋に出るらしい、しかし、わきおこるような喜びを感じないと述べ、その理由を書き続ける。自著の意義についての疑念を表明した後、年齢をあげる。執筆を始めた頃は、疲れると歯が痛み、それがなければどんなに仕事がはかどるだろうと思ったのに、いまではもう歯も痛まなくなった、自分にはもはや強く感じる能力がなくなった、書き終えたのが10年前なら嬉しくて嬉しくて仕方がなかったであろうに、という。しかし、それでも一つだけ心を楽しくさせることがある、それは秋に自ら開く出版記念会だといい、こう締めくくる。「それは私の生涯において、おそらく、最初の、そしてまた最後の、にぎやかな場となるかも知れないのである。その秋の出版記念会のことを思うと、私も何となく待ち遠しい気持になるのである」。学生であった私は、来栖先生の飄々としたお姿を思い浮かべながら、学究としての清廉さと、謙虚さと、かすかな哀しみとユーモアに打たれた。その出版記念会を想像し、自分まで幸せになるように感じた。

 この名著の後、拙著のことを語るのは、愚挙である。シラスがクジラに向かって、同じ海の生き物ですね、というようなものだ。ただ、私にも本書を書き上げて、嬉しいことがあった。それは、これまでにご縁のあった沢山の方々から、本書を読んでいるとのお知らせをいただいたことである。また、かつて私のゼミに参加され、現在、書物に関わる仕事をされている2人の方が、それぞれのお立場で本書の販売にお力添えをくださったと伺ったこともある。執筆過程に遡ると、本書の「はしがき」に記載したように、多くの方からご教示、励まし、ご助力をいただく幸せもあった。そこで、これらのすべての方々にお礼を申し上げるための出版記念会を、頭の中で開催した。以下は、そこでの私の挨拶である。

* * *

 本日は、私の『契約法』の出版記念会にお越しくださり、ありがとうございます。

 本書を手にされた方からいただく最も多いお言葉は、「20年もかかったんですね」というものです。そうなんです。お恥ずかしい限りです。この席を借りて、その間、何をしていたのかの弁明をさせてください。

 きっかけは1997年2月のことでした。そちらにいらっしゃいますCさんから、契約法の体系書を書かないかというお話をいただきました。Cさんは『継続的売買の解消』という私の本を担当してくださった方ですし、私も書いてみたいという気持ちがあり、割合、気楽にお引き受けしたのです。

 ただ、翌年、在外研究に出たことから、実際に着手したのは、99年の夏でした。まず、それまでに出ていた契約法に関する体系書・教科書の構成を検討することから始めました。20世紀の初めから終わりまでの20ほどの作品の項目と割当頁数を整理し、それぞれの著者の工夫を追体験しました。そのうえで、同年8月末に、最初のプランを作成しました。「第1部 契約総論」、「第2部 契約各論」、「第3部 現代における契約」という構成で、細かい項目まで書き込んだ、A4判で8枚のものです。この作業をしながら、本書では、契約法の現代的課題と様々の契約法理論を平明に示したいと思い始めました。そのため、最も苦心したのが第1部です。「伝統的契約観と現実の契約関係との「ずれ」」、「契約の成立を巡る現実的問題」などの項目のもとに、様々な問題を盛り込もうとしています。他方、第2部は、典型契約を民法典の配列順に記述することにしました。第1部で自分なりの構成を示すとすれば、第2部の方はシンプルにした方が全体としては理解しやすくなるだろうという判断です。第3部は、「現代的な契約の例」と「契約法の課題」という内容でした。

 このプランには、各部の予定数量も記載されています。合計2200枚です。「枚」とは、200字のことですね。余白には、「15枚/日」という私の書き込みがあります。1日15枚書けば、5ヵ月足らずで、つまり2000年早々には、完成するということです。

 甘い目算でした。現実には、2002年春になって、やっと第1部の「第1章 契約の意義」と「第2章 契約の成立」の初稿ができました。そこでまた停滞し、2007年に仕切り直しをし、2012年から13年にかけて第1章と第2章を改稿しました。その後もプランを改訂しながら書き進め、2017年3月に脱稿したというわけです。最終的には2部構成になりました。

 これほど時間がかかったのは、私の能力のなさと怠慢が第1の理由であることは、いうまでもありません。もっとも、主観的には、大きな流れの中でもがいていた、という思いもあります。

 分かりやすいことから申し上げますと、2000年代に入って、契約法に関する新しい体系書・教科書が次々に出たことがあります。十指に余る著作が刊行されました。優れた新作に接する都度、自分自身が執筆することの意義に疑問を感じることになりました。なかでも、平井宜雄先生の『債権各論Ⅰ上 契約総論』(2008年)には、打ちのめされる思いをしました。以前に平井先生が契約法の講義をする際の精神的負担感を語られたとき(「契約法と契約法の講義」時の法令1408号4頁)、あまりピンとこなかったのですが、執筆に取り組んでみて、その意味を少しずつ実感するようになりました。平井先生のこの作品は、深い研究を基礎とされつつ、苦しみ抜かれた末に到達されたところを、病身を押して著された迫力のあるものです。これを前にして、再度、自分を奮い立たせるには、少し時間がかかりました。

 もう一つ、分かりやすいこととして、民法改正の動きがあります。私自身は、2001年2月に「民法改正委員会」という研究者グループの研究会に参加したことから始まり、2015年2月に法制審議会民法(債権関係)部会が民法改正要綱案を決定するまで、様々な場で、改正に関する多くの議論に接しました。それらは自分の考えの不十分さを認識させる効果をもつものでした。

 もっとも、ここで申し上げたい「大きな流れ」は、もう少し抽象的なレベルのものです。私は、1980年代から90年代前半の間、星野英一先生の主宰される「現代契約法研究会」に入れていただきました。当初は、「約款法研究会」という名称でしたが、途中で、より一般化し、契約の成立、契約の内容、思想的背景を研究するようになりました(NBL469号6頁以下・私法54号3頁以下参照)。かつて星野先生の論文「現代における契約」(1966年。『民法論集第三巻』所収)に感動した私にとって、知的刺激に満ちた夢のように楽しい研究会でした。しかし、振り返ると、これは民法研究者にとって、牧歌的に幸せな時期であったような気もします。その後、契約法学は、2つの種類の困難に直面するようになりました。

 一つは、契約法の多元化です。様々の分野での契約法が発達していきます。商取引法、消費者法、労働法、倒産法などです。それぞれの領域の研究者が契約法全体にインパクトを与える仕事をするようになります。なかでも、江頭憲治郎先生の『商取引法』(上巻1990年、下巻1992年)は、衝撃的なものでした。また、立法においても、諸官庁がその所管する領域で独自に、あるいは、法務省との共管により、特定の種類の契約に関する法律を作るようになります。「特定」と銘打たれていても、適用範囲は次第に広がります。現実の取引においては、この特別法こそが重要です。これらの領域の研究や立法の担い手は、消費者法は別として、民法研究者以外の方が中心です。ある「民法の理論」を措定したうえ、それにこだわることのない、現実に適合した規律、各領域の規範に適合した規律こそが重要なのだという人が多くなってきます。この状況のもとで、民法研究者として、どのような契約法を提示することができるのかが問われるように思いました。

 もう一つは、契約法と債権総論との統合です。債権総論は、債権の発生原因を問わない規律であるといわれてきましたが、近年、発生原因を考慮すべきであるという見解が有力になっています。特に契約による債権について、それが強調され、合意を基礎とする債権法の再編成の試みがあります。債権法の契約債権法化ということですが、これは契約法の債権法体系への組み入れということでもあります。その結果、債権法の観点からの契約法の体系化という力が働くように感じられ、契約法学の独自の意味がどこにあるのかを自問するようになりました。

 このような大きな流れの中で、もがきながらしたことは、契約の内容だけでなく、その構造や仕組みを考えること、また、一つの思想のもとでの体系化に対し、理解しつつも懐疑を保ち続けることだったように思います。

 そして、私の本当にしたいことは、私が感じ続けてきた契約法のおもしろさを読者に伝えることではないかと思うようになりました。

* * *

 私の挨拶は、まだまだ続く。年をとると話が長くなるのである。考えてみると、来栖先生があの文章を書かれた年齢を、既に私は超えてしまっている。なんということだろう。残された時間がわずかであることを自覚しつつ、今しばらく契約法の研究を続けていきたいと思う。

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