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書斎の窓

連載

人生の智慧のための心理学

第4回 錯覚から世界を考える?

東京大学名誉教授(質問者) 繁桝算男〔Shigemasu Kazuo〕

立命館大学総合心理学部教授(回答者) 北岡明佳〔Kitaoka Akiyoshi〕

繁桝先生からの質問1

 錯覚という現象は、知覚において、人間の脳による無意識的な判断が関与することを如実に示している。錯覚を意識的に補正することは不可能である。すなわち、人間は、外界の現実をそのままとらえているわけではない。錯覚という現象は、外の世界と我々が見る世界とは異なることを示している。人間の錯覚を前提として、外的な世界と内的世界の二元論は克服できるのか? また、人間のコミュニケーションはどうあるべきかについて問いたい。

北岡先生の回答1

 錯覚(illusion)とは、認識する主体の外にある対象(客体)の知覚であり、その真の性質とは異なる知覚のことである。短く言えば、錯覚とは知覚の一種であるから、その研究テーマは知覚心理学の領域ということになる。ところが、必ずしもそうではないというところから、本稿は始めなければならない。

 筆者が専門としている錯視(視知覚の錯覚)の研究は、知覚の心理学の歴史とともにありながら、実は純粋な知覚心理学のテーマではないかもしれない。なぜなら、対象の知覚がその真の性質とは異なることを認識するためには、認識する主体の側(我々のこころの中)に対象に関する知識がア・プリオリに必要であり、かつその知識と得られた知覚を照合する認知過程が必要である。すなわち、錯覚を扱う研究は、広い意味での認知心理学ということになる。

 「動物に錯視はあるか」という設問がある。いくつもの証拠があり、動物にも人間同様に錯視があることは確実視されている。筆者としては、それらの研究成果は価値が高いと考えるが、にもかかわらず、それらの研究が必ず結論とする「動物にも錯視がある」という考え方には、疑問を呈したい。誤解を承知で極論を申せば、動物には錯視はない。錯視に相当する知覚のひずみがあるだけだ。「言語を使えるのは人間だけである」、「手を使えるのは人間だけである」、「利他性があるのは人間だけである」、「遊ぶのは人間だけである」といった素朴で脇の甘い思想と同様のレベルで、「錯視が見えるのは人間だけである」という珍説が、本稿における筆者の主張である。

 錯視を見ておもしろがるのは人間だけである。動物が錯視をおもしろがる証拠は今のところない。動物は「おもしろい」と言語報告できないから証拠が得られない、ということはない。人間だって、錯視に気づかなければ、特に何のリアクションも起こさないのと同様に、動物も錯視図形を見せても何のリアクションも起こさない。例外的に、静止画が動いて見える錯視を見せられたネコが、錯視的に回転して見えるであろう円盤を前脚で押さえようとする動画が知られているが、それでもそれはネコが錯視をおもしろがっている証拠とまでは言えない。

 人間にとって、錯視を見ることは報酬になる。もっとも、そんなことを実証した研究はないと思う。しかしながら、錯視は見せるだけで話題になるし、錯視やだまし絵は各地の科学館の夏の企画展の定番のテーマの一つであるし、筆者の錯視デザインはインターネット上で(あるいはリアルに)よくパクられる。特定の錯視が初見で見えなかった人は「どうやったら見えるのだ」と悔しがり、見えるようにと努力をすることが多い。ところが、動物の生活環境に錯視刺激を置くという試みをすると、ほとんどの場合、動物は錯視刺激に対して無関心であった。

 この人間と動物の反応の相違の理由は、人間は対象の知覚とその性質の知識の不一致に興味があるが、動物にはない、というところにあると筆者は考える。人間は、知覚のひずみに興味があるのだ。「知覚はひずんでいる」ということは、心理学者にとってはその受けてきた教育および実践してきた研究の過程において身に付いた当たり前の知識であり、一般の人はそう考えないことを忘れてしまいがちである。一般の人は、恒常仮定の世界観を持っている。すなわち、「心理的世界(知覚)は物理的世界(刺激)に一対一対応する」という考え方である。このため、たとえば「赤」は長波長の可視光に対応した色である、という一対一対応の物理学的世界観が広く受け入れられている。ここからの逸脱を認識することが、なぜか人間にはおもしろいのだ。

 もちろん、心理学の世界では、たとえば「赤」はいわば「心理的実在」であって、物理的刺激に随伴したアーチファクトにすぎないものではない。赤いイチゴの画像に反対色であるシアン色の一様画像を50%以上の割合で加法的に合成(アルファブレンディング)すれば、画素としてはすべてシアン色の画像になるが、色の恒常性(照明やフィルターの色みを補正して、対象の「本当の色」が知覚されること)の機能は強力であり、実験によれば、オリジナルの画像が15%程度の寄与しかなくても(85%はシアン色の寄与分)、「本当の色」すなわち赤いイチゴが知覚される。蛇足ながら、こう書くと、「イチゴは赤いという知識があるから赤く見えるのではないか」と記憶色の話に持って行きたがる人が多いので、当然他の色や他の刺激を用いて実験的に確かめてあることだが、これは記憶色の効果ではなく、色の恒常性の働きである。

 これまで錯視画像を一切出さずに記述しているので、おもしろくなくて投げ出した読者がいないか心配である。上記のイチゴの画像の色の恒常性の例では、「かなり彩度の高いシアン色からでも人間は赤を知覚できる」すなわち「シアン色が赤に見える」という劇的なことを言っているのであるが、本稿はカラーではないので、モノクロ画像で同様のデモを掲載しておきたい。図1は、「同じ輝度の縞模様が白にも見えるし、黒にも見える」画像である。

図1 左の画像の髪と服は白く見え、右の画像の髪と服は黒く見えるが、同じ輝度の縞模様である。明るさの恒常性のデモ画像の一種である。

 さて、「錯視は人間固有のものだ」と誤解を招きそうな論を一席ぶったところで、繁桝先生からの頭書の設問に戻りたい。「錯覚という現象は、知覚において、人間の脳による無意識的な判断が関与することを如実に示している。錯覚を意識的に補正することは不可能である」(⑴)という点については、錯視にはあてはまるが、認知的な錯覚、すなわち思い違いや勘違い、非合理的な判断といった高次の錯覚にはあてはまらないことを指摘しておきたい。高次の錯覚すなわち認知レベルの誤謬は意識的に訂正できるのに対して(本当にすべて訂正できるのかどうかは別として)、低次の錯覚すなわち知覚レベルの錯覚はほぼ訂正不可能である。それは、知覚がいわば生理学的で不可逆的なメカニズムだからである。すなわち、⑴は知覚の性質を表したものである。

 続いて、「すなわち、人間は、外界の現実をそのままとらえているわけではない。錯覚という現象は、外の世界と我々が見る世界とは異なることを示している」(⑵)については、本稿で既に述べた通り、心理学者の常識であっても、一般の人の常識ではない。このことを⑵では指摘した、ということであろう。

 ところが、設問の締めくくりの「人間の錯覚を前提として、外的な世界と内的世界の二元論は克服できるのか? また、人間のコミュニケーションはどうあるべきかについて問いたい」(⑶)がぶっとんでいる。「外的な世界と内的世界の二元論は克服できるのか」ということは、客体と主体の二元論を前提として(それは筆者は歓迎である)、「克服」というのだから「そのズレは問題だ」という前提が含意されている。

 何が問題なのだろう。錯視そのものは問題ではない。錯視はだれにでも起き、人畜無害で、しかも(人間には)おもしろいものである。たしかに、古くから錯視研究は視覚研究に貢献すると期待され、期待を裏切り続けて今世紀に至ったような気はするが、それは問題ではなく愛嬌というべきものだろう。

 「人間のコミュニケーションはどうあるべきか」という問いも考えに入れると、どうやらここでは認知的錯覚のことが問題にされているようである。しかし、筆者は錯視研究者すなわち知覚的錯覚の研究者なので、その問いには十分満足して頂ける回答を示せないと思われる。

繁桝先生からの質問2

 指摘されてみると、確かに、私の問いかけの最後の項は、かなり飛躍している。このシリーズは、それぞれの研究者の先端的な知識を踏まえ、人生の指針になるような、なるほどと思わせる助言を期待しているのが飛躍の原因でもある。その文脈において、科学を専門としていない普通人に根強く生き残るデカルト的二元論について、その息の根を止めるような知識が錯視研究から生まれるのか、人との対話において、このような言い方はしないほうが良いなどというヒントを期待したのだが、的外れだったようである。残された紙数が限られているが、私の問いに束縛されず、自由に「ぶっとんで」論を展開してほしい。

北岡先生の回答2

 繁桝先生はデカルト的二元論(心身二元論)を問題視されていて、近年急成長中の錯視研究がそれに関して何か鋭いコメントやヒントを持っていないだろうか、という問いかけだったとのことである。錯視という概念は、客体と主体の二元論に立脚しているので、主体を実体的に扱うという意味では、デカルト的二元論を支持する側である。このため、「デカルト的二元論について、その息の根を止めるような知識」は錯視研究の立場からは供給されることはないと思う。「人との対話において、このような言い方はしないほうが良いなどというヒント」ともなると、高次すぎて、少なくとも普通の基礎的な錯視研究の知識の中には答えはないと思われる。

 むしろ筆者としては、デカルト的二元論の何が問題なのか、それをなぜ錯視の研究者(知覚の研究者)に問うのか、といったところに興味がある。これだけ科学が発達した世の中なのに、唯物論的世界観が徹底しないということを嘆かれているのであろうか。もしそうだとすると、潜在的な論敵である筆者には問いかけではなく、論争をふっかけるべきところだったことになる。筆者は、デカルト的二元論が間違っているとも思わないし、人間を不幸にする原因であるとも考えていない。

 いや、繁桝先生の問いかけの真意を、まだ筆者は十分つかめていないようにも思える。

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