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書斎の窓

自著を語る


『スマートグリッド・エコノミクス――フィールド実験・
行動経済学・ビッグデータが拓くエビデンス政策』

経済学の新しい息吹を伝えたい

京都大学大学院経済学研究科教授 依田高典〔Ida Takanori〕

依田高典・田中 誠・伊藤公一郎/著
A5判,222頁,
本体2,800円+税

1 経済学は現実に答えうるか?

「諸君、経済学は現実に答えうるかね?」

 そう言って、目の前の学生に問いかけるのが、私の恩師・伊東光晴京都大学名誉教授の常だった。大恐慌に対する処方箋として、マクロ経済学を築き上げた英国の経済学者ジョン・メイナード・ケインズの研究をライフワークとした伊東先生にとって、経済学は現実を改革するための実践の学問であった。

 しかし、皮肉にも、ケインズ以降の経済学がたどった道程は、数理化を過度に重視した虚構への道だったと言えないこともない。一流雑誌に掲載される経済学の論文は、高度な微分方程式や位相数学を使って書かれ、どこでどのように現実の経済問題の解決と関わっているのか、具体的に探し出すのは困難であったろう。経済学は頭の良い若者の知的遊戯に成り下がった感があった。

 20世紀の経済学の模範が、ニュートン以来の古典力学に求められたことはよく知られている。経済学の数理化に貢献し、その後の流れを決定づけたポール・サミュエルソンが、物理学の研究から転じて、経済学者になったことからもその辺の事情がうかがわれる。実際、経済学の理論は、物理学ではお馴染みの最大値原理で組み立てられている。消費者は効用を最大化し、企業は利潤を最大化する存在として想定されるわけだ。

 人間を数学モデルで取り扱うために、経済学では、人間を合理的な「ホモエコノミカス(経済人)」と仮定した。ホモエコノミカスは、利己的な存在で、自分の満足を表す効用の最大化ばかり考え、衝動や感情に揺らぐことはない。そういった意味では、ホモエコノミカスは、入力に対して出力するモノとして、物理学で扱う粒子同様の存在なのかもしれない。

 しかし、物理学と経済学の間には、決定的な違いがある。物理学では、実験によって、理論のパラメーターを正確に求めることができる。残念ながら、経済学では、気まぐれな生身の人間や変幻極まりない社会を対象に精密な実験をして、理論の正否を検証することは困難だった。伊東先生の問いかけは、いつもこう終わるのが常だった。

「経済学は、実験ができないからねえ」

2 フィールド実験という最強の経済学

 実験ができない経済学に方法論的革新が起きたのは、もうすぐ21世紀に入ろうとした頃だった。経済学で分かることと言えば、せいぜい変数と変数の間の相関関係だけ。決して、因果関係は分からない。そんな諦めに果敢に挑戦した経済学者達がいた。例えば、開発経済学の分野で新境地を切り拓いたマサチューセッツ工科大学のエスター・デュフロや公共経済学の分野で精力的に論文を発表しているシカゴ大学のジョン・リストである。

 彼らが何をやったかと言うと、医薬品の臨床効果を測る無作為比較対照実験(Randomized Controlled Trial: RCT)を、生身の人間が生活する現実のフィールドで行ったのである。具体的には、実験協力者をランダムにトリートメント(介入)を受けるグループと介入を受けないグループに分けて、結果を2グループ間で比較し、平均的なトリートメント効果を求める。因果性を求める実験方法として、RCTは「最強」と称される。

 例えば、発展途上国で貧困にあえぐ人に対して、起業資金を融資することによって、生活水準は改善するだろうか。自発的に寄附を募ろうとする篤志家に、運営者がお金を足すとどうなるだろうか。こうした経済問題に対して、経済学の冒険者達は、大胆にもRCTを使って、「フィールド実験」を行ったのである。

 フィールド実験を運営し、トリートメント効果を測定し、政策形成のプロセスの中で、それらのエビデンスを活用することを、「エビデンスに基づく政策形成」と呼ぶ。今や、経済学は、自然科学同様に、因果性を識別する方法論に則って、実験を行う実証学問となりつつある。

 2点、付け加えたい。第1に、生身の人間を対象に、フィールド実験を実施すると気づくことがある。生身の人間の反応は、従来、経済学が想定してきたホモエコノミカスと全く異なる振る舞いを示すことだ。人間の限定的な合理性に着目する心理学的な経済学を「行動経済学」と呼ぶが、フィールド実験の結果を解釈するには、行動経済学的仮説が非常に役立つ。

 第2に、フィールド実験が容易化してきた背景には、人間の行動履歴が廉価で入手できる「モノのインターネット(IoT)」の普及がある。スマートメーターを設置して、30分毎の電力消費量が見える化できるようになったり、ウェアラブル端末を用いて、健康に関わるバイタルデータを収集できるようになったりした。私は、こうしたフィールド実験、実験経済学、ビッグデータを三位一体にして、「エビデンス重視の経済学」と呼んでいる。今、経済学は、エビデンスを重視しながら、現実に答えられる学問に進化している。

3 日本初の大規模フィールド実験

 さて、ここから、私、田中誠政策研究大学院大学教授、伊藤公一朗シカゴ大学公共政策大学院ハリススクール助教授の3人が、日本初の大規模フィールド実験に関わることになった経緯を紹介したい。

 2010年3月、アメリカ・カリフォルニア州の大学町バークレーで顔を揃えた3人は、カフェで歓談していた。アメリカでは、電力危機に直面したカリフォルニア州を中心に、フィールド実験が普及していた。そこで、日本でも同様の研究を行えないか相談し、さしたるあてもなかったが、日本へ話を持ち帰ることになった。

 そんな折、同年7月、経済産業省から、横浜市・豊田市・けいはんな学研都市・北九州市で実施されるスマートグリッド社会実証事業を計画しているので、フィールド実験の設計・運営・分析を担当してくれないかという相談があった。我々は喜んで申し出を受けることにし、4地域で研究パートナーとの交渉を始めた。

 しかし、日本には、フィールド実験を行う文化がまだ根付いていない。コントロール・グループを設けて、トリートメントをランダムに割り当てるという発想は違和感をもって受け止められた。なかなか、話し合いはうまくいかない。業を煮やして、一計を案じた。伊藤にアメリカから帰国してもらい、関係者の前でアメリカのフィールド実験の現状を講義してもらうというものだ。東京の講演会が終了し、2011年3月11日は、大阪で講演会が予定されていた。講演会の直前、ゆっくりとした揺れが感じられたが、講演会は予定通り、実施された。今思えば、この不気味な揺れこそ、東日本大震災であった。

 福島第一原子力発電所の事故が起こり、この未曾有の危機に直面して、3人はフィールド実験どころではないと半ば夢を諦めた。しかし、2011年5月頃であったろうか。経済産業省から、思いがけない連絡が入った。原子力発電所はストップし、電力の供給力が不足すると予想される中、スマートグリッドの役割がますます重要になるので、今まで以上に、フィールド実験を進めて欲しいというものだった。

 3・11を経験したことで、研究パートナーの態度も一変した。スマートグリッドを活用して、この国難を乗り越えよう。こうして、日本初の大規模フィールド実験が、エネルギーの分野で船出したのである。

4 フィールド実験で分かったこと

 ここでは、2012年夏、2013年冬に、関西電力、三菱重工等と協力して、けいはんな学研都市で実施したフィールド実験の結果を紹介しよう。この実験には、約700世帯が参加した。参加世帯には、スマートメーターとホーム・エネルギー・マネジメント・システム(HEMS)が無料で設置された。さらに、参加世帯はランダムに、①コントロール・グループ、②節電要請グループ、③変動型電気料金グループに割り当てられた。

 節電要請グループは、電力の需給が逼迫する2012年夏期15日間、2013年冬期21日間、前日の夕方に、「○月○日の午後1〜4時の間、電力の使用をお控え下さい」というメッセージを受けた。変動型電気料金グループは、節電要請グループがメッセージを受けるのと同じ日に、「○月○日の午後1〜4時の間、電気料金が○円に値上がりするので、電力の使用をお控え下さい」というトリートメントを受けた。時間帯別電力使用量のデータから、コントロール・グループと比較して、節電要請グループ、変動型電気料金グループの電力利用量がどれだけ低かったかというピークカット効果を計測する。

 特に、我々は、節電の行動変容が持続するかどうか、3つの心理学的仮説の検証に注目した。第1に、節電要請、変動料金という介入を繰り返したときに、ピークカット効果は持続するかどうか。介入に慣れて効果が減衰することを、心理学で「馴化」と呼ぶ。夏期の節電要請は、当初こそ、約8%の効果があったものの、すぐに効果が落ちた(馴化)。他方で、変動料金は、一貫して、15%以上の効果が持続した(非馴化)。

 第2に、夏期の介入後、冬期に介入を繰り返したときに、ピークカット効果の復活が見られるかどうか。間隔をとって介入すると、効果が復活することを「脱馴化」と呼ぶ。冬期の節電要請の効果は、夏期の効果と全く同じパターンを描き(脱馴化)、一度効果が復活した後、再び効果が落ちた(再馴化)。他方で、変動料金は、冬期も、20%近い効果が持続した。

 第3に、夏期の実験終了後に介入を取り除いても、秋期にピークカット効果が残るかどうか「習慣形成」を検証した。節電要請は、秋期に全く効果が見られなかった(非習慣形成)。他方で、変動料金は、秋期に約8%の効果が見られた(習慣形成)。冬期の実験終了後に介入を取り除いた春期も、節電要請、変動料金共に、秋期と全く同様の習慣形成パターンが観察された。

 伝統的に、電力危機の際は、節電要請に頼る施策がとられがちであったが、その効果は一時的には期待できるものの、持続的には期待できないことがエビデンスとして明らかになった。国の施策として、スマートメーターの設置を推進し、需給逼迫時には電気料金を高く、需給に余裕がある時には電気料金を低く設定し(変動料金)、効率的電力使用を誘導する市場メカニズム(デマンド・レスポンス)の活用が求められる。

 今回は、震災後の日本でフィールド実験を行い、エネルギー分野でエビデンスに基づく政策形成を提唱した。今後は、ヘルスケア、教育、その他の分野でも同様の取組が行われることに期待したい。

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