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連載

途上国の経済発展――インドから考える

第6回(最終回) モンスーンのめぐみ

一橋大学経済研究所教授 黒崎 卓〔Kurosaki Takashi〕

モンスーンの到来

 2017年7月2日、インド気象庁はデリーのモンスーン入り(雨季入り)を宣言した。例年よりやや遅れての雨季入りだった上に、今年はプレモンスーンと呼ばれる雨季前の降雨が6月に多かったため、いつ始まったのか、はっきりしないモンスーンとなった。

 灌漑が発達したとはいえ、インドの農業生産はモンスーンによって大きく左右される。そして、製造業やサービス業が経済の中心となった現在ですら、農業の出来・不出来はインド経済全体の成長率に影響を及ぼす。農業を通じた経済への貢献、それが、モンスーンのもたらす最大のめぐみである。

 しかし大都市デリーでは、このめぐみの実感は薄い。デリーに住んでみて実感したのは、涼しさをもたらすモンスーンのめぐみである。半乾燥気候地帯に位置するデリーでは、雨季以外にほとんど雨が降らない。乾ききった大地を太陽があぶり出す4月中旬以降、モンスーンの到来まで、デリーは酷暑期を迎える。今年は酷暑期の到来が早く、4月初めに最高気温が40度を超えて、それが6月上旬までほぼ毎日続いた。

 4月中は、最高気温が40度を超えても、朝夕は30度を切り、乾燥した気候ゆえに汗を流す実感もなくて、耐え難い暑さではなかった。しかし5月に入ると、最高気温はあまり変わらないまま、最低気温が上昇してきた。ピークは6月4日。起床時の気温が36度で、最高気温は47度に達した。一日中、体温を超えた世界というのは予想以上に体力を消耗させるものだった。エアコンのない我が家のリビングルームでは、石のフローリングが韓国式床暖房のオンドルと化し、エアコンのある寝室にて食事をする羽目になった。エアコンに心底感謝した。しかしデリーでも中下層向けアパートだと、エアコンがまったくないことも多い。この酷暑がいかにきついか、想像を絶するものがある。

 このピークの後、時々、軽い雷雨がデリーを襲うようになった。雨が降るとそのたびに気温が下がる。生き返った思いだった。ヒンディー映画ではモンスーンの雷雨の中、びしょ濡れになりながら群舞するシーンがお決まりだが、その気持ちがよくわかった。

 そしてモンスーンに入り、雨が頻繁になり、街路樹を覆っていた分厚い埃も流されて、デリー全体の緑が濃くなった。酷暑を吹き飛ばすこと、それが、デリー居住者にとって重要なモンスーンのめぐみである。

デリーの大気汚染

 もうひとつの思いがけないめぐみ、それはデリーの空気が多少浄化されたことだった。

 デリーは今や中国の北京と並ぶ世界最悪の大気汚染に悩まされている。とりわけ、石炭火力発電の重要性や、増え続ける自動車と深刻な交通渋滞がもたらす排気ガスのために、PM10やPM2.5といった粒子状物質の濃度が高く、かつ上昇傾向にある。2016年11月上旬には、PM2.5濃度が700μg/m³を超え、学校が臨時休校になった。この時期、雨は降らないのに霧が生じてスモッグ化しやすい。これにお祭りでの花火・爆竹や、収穫後の稲わらの焼却などの要因も重なって、最悪の大気状態になったと言われている。外出がいかに危険か、素人でも明確に分かるレベルの大気汚染であった。

 稲わら焼却禁止や、ナンバープレートが偶数か奇数かによる自動車の使用規制、排出ガス規制を満たさない自動車の登録禁止措置など、さまざまな大気汚染対策が試行・施行されているが、目立った成果は出ていない。新聞に毎日掲載される、PM2.5濃度などを総合した「空気質指数」(AQI)を見ると、筆者がデリーに住み始めた2016年9月末以降、ほぼ毎日、汚染度最高ランクの「危険」(hazardous)の領域が続いていた。

 ところが、2017年4月の酷暑期に入ったころから、同じ「危険」領域のAQIであっても、大気汚染をあまり感じないことに気づいた。霧とスモッグの季節が終わって酷暑期が始まる。酷暑期には、熱せられた大気が大きく循環するようになり、同じAQIでも地表での市民生活への悪影響は減るということらしい。

 そしてモンスーンの雨。これには確実に、大気中の粒子状物質を減らす効果がある。2017年6月30日には、久しぶりにAQIが汚染度「中間」ランクに下がった。2016年のデータを見ると、7月と8月は、年間を通じて唯一、PM2.5濃度がインドの基準値60μg/m³を下回る日が多数の月だった(残りの10ヵ月は、基準値を上回った日が月の大多数を占めた)。2017年の雨季にも同様の改善が期待できる。

 モンスーンは、酷暑だけでなく大気汚染物質も流し出すめぐみをもたらす。雨の合間のデリーの散歩が心地よいのは、気温の低下と木々の緑だけが理由ではない。

不足する都市インフラ

 モンスーンがデリーの都市生活にもたらすのはめぐみだけではない。最大の問題は、浸水害である。モンスーンの雨は短時間に激しく降る。インド気象庁の定義では、24時間の降水量が64.5ミリを超えると「大雨」(heavy rain)として注意喚起がなされるが、デリーではめったにこのような雨は降らない(2016年には一度も観測されなかった)。しかし1日に10ミリを超す雨が降ると、デリーのあちこちで浸水が起きて、交通が麻痺し、停電が増える。主要幹線道路も水に埋まり、それを無理やり通行しようとする車が動けなくなってさらに交通麻痺が深刻化する。筆者の零細企業家調査も、この浸水のために何度も延期を余儀なくされた。

 浸水の原因は、排水設備が不十分ないしは機能不全なことである。排水路がきちんと設計・建設されないままに道路や集合住宅が作られる、あるいは排水路がヘドロで詰まったまま放置されているということが日常茶飯事である。モンスーンの到来は予測されていることなのに、対応がきちんとされないままに雨季を迎え、浸水問題がマスコミをにぎわすが、雨季が終わると浸水対策が忘れられてしまうと、識者は指摘する。とはいえ都市計画が不十分なままに無秩序に広がった数千万人都市、デリーの膨張するスピードには、どんなインフラ整備も追いつけないようにも思われる。

 モンスーンがもたらすもうひとつのデリーの問題は、蚊である。酷暑期は、乾燥していることと気温が高すぎることの理由から、蚊はそれほど多くない。モンスーンは、蚊にとって最適な気温・湿度と、繁殖のための水たまりをデリーにもたらす。インドでは、マラリアが撲滅されていないだけでなく、チクングニア熱やデング熱も頻繁に発生している。

 デリー市保健局は、蚊がこれらの病気を媒介するという知識を伝え、その繁殖源となる不衛生な水たまりを排除するキャンペーンに力を入れている。このキャンペーンが功を奏することを期待したいが、不衛生な水たまりができやすくなる原因のひとつが浸水であることには触れられていない。保健局の仕事に排水路整備は関係ないということなのか、行政の縦割りの非効率を感じる。

 蚊が蔓延するデリーの雨季は、実は、日本人の筆者にとって、とても不快な気候である。酷暑期の最高気温45度が、雨が降って急降下し、最高気温が35度を下回るようになると、当初は劇的な気温低下に感動した。しかしその代わりに湿度が急上昇した。高湿の30度超えといったら、日本の「真夏日」である。昼間に外を歩くとあっという間に汗だくになる、日本の真夏の気候がデリーの雨季の気候に近いというのが正直なところ。これならば、乾燥していた酷暑期の方がましだった気がするのは、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」現象なのだろうか。1年足らずの滞在で答えを出すのは難しい。

2017年のモンスーンと間接税改革

 以上の話は、筆者の滞在経験に基づくものではあるが、毎年、多少の差はあれ繰り返される一般的なものでもある。2017年のモンスーンに固有な話をひとつ取り上げよう。

 2017年7月1日からインドの間接税体系が刷新され、それまでの17種類に及ぶ各種間接税(物品税、各州政府による付加価値税、連邦政府による中央売上税など)が、全国共通の「財・サービス税」(Goods and Services Tax: GST)に一本化された。6月30日深夜の新税施行宣言の際にモディ首相は、GSTは「ひとつの国、ひとつの税、ひとつの市場」を実現させる「良い、簡単な税」(Good and Simple Tax)だと自画自賛した。

 長期的にはその通りであろう。平均税率を若干引き下げることで、消費者に恩恵をもたらしつつ、間接税納税者のネットを拡張することで税収増加をもくろむという制度設計は、廃貨(本連載第3回、4回を参照)に絡む所得税改革と同様の戦略である。

 しかし7月1日施行開始のGSTは、税率が4種類(免税品目と特別高税率品目を加えると6種類)もあり、州をまたぐ取引には別の納税書類が必要で、原材料購入に係る税金と製品・サービス販売に係る税金それぞれを両面でチェックし、整合性が確認されて初めて納税額が確定するシステム(原則インターネットで、納税書類を毎月最低3回作成・提出するシステム)となっている。それまで付加価値税がかかっていなかった製品(サリーなど)の小売業や、IT化が進んでいない零細企業には、非常に敷居の高い、複雑なシステムになっている。頻繁に停電が起こり、Wi-Fiはおろか携帯電話用電波の接続も悪い地域が多いインドで、零細企業がインターネットできちんとGSTを納めていけるのか、課題山積みのままの発進である。

 プレモンスーンの雨の中、新税に反対するストライキや、個別品目の税率切り下げを要請する業界団体の交渉などが続いた。このこともあって、7月1日の施行開始時点でもまだ税率別品目リストは流動的で、さらには、今後2ヵ月は移行期間として、当初の設計にあった厳しいスケジュールも緩められた。7月1日、筆者が訪ねた範囲では、外税表示がスタンダードな中高級レストランの勘定書きが新しい税率になっていたのとは対照的に、零細小売店はすべて、内税表示形式の品目を、GST税率に変更せず、旧税率での税込価格のまま販売していた。いつ始まったのかはっきりしなかった今年の雨季入り同様、間接税改革も、制度が整わないまま、実質的スタートがはっきりしない見切り発車となった。

終わりに

 今回が本連載の最終回である。連載のキーワードとして、古きインド世界「バーラト」(Bharat)と、急成長する近代的インド世界「インディア」(India)の2つを第1回で紹介した。

 6月末の英字新聞には、「GSTで税率が上がる品目はこれ。ネット通販なら6月30日23時59分まで買えます」という広告が踊っていた。この広告のターゲット層こそまさしくインディア世界の消費者で、彼らの関心は、GSTで奢侈的財への税率がどうなるかに集中していた。同じ新聞には、GST実施に不安でいっぱいのデリーの零細企業家の声もあふれていた。廃貨同様にGST導入も、インフォーマルセクターの事業主など、バーラト世界の低所得者階層に、より大きなストレスをもたらすものだった。同じ企業家でも、インターネットを使いこなし、付加価値税や中央売上税を払ってきた階層、すなわちインディア世界の企業家にとっては、今回の制度改革にストレスを感じないどころか、「ひとつの市場」を活用したビジネスチャンスを生み出す可能性そのものなのだ。

 経済発展はえてしてその初期段階で不平等の拡張を招きやすい。これは、クズネッツの逆U字曲線として開発経済学では知られている。インドで現在起きているのも、その一例と考えることが可能なのだろう。途上国では例外的にIT化が進んでいるだけに、インドではそれが、デジタル・デバイドと絡んで、より先鋭化して現われているように思えてならない。1年間、お付き合いいただいたことに感謝しつつ、筆を擱く。

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