HOME > 書斎の窓
書斎の窓

連載

人生の智慧のための心理学

第1回 イントロダクション

東京大学名誉教授 繁桝算男〔Shigemasu Kazuo〕

 人間の心の正体は何かという問題は、夜空の星の正体は何かという問題と同様に、古代から大きな関心の対象であったに違いない。しかし、科学としての心理学は諸科学と比べて比較的新しい。それにしても、実験心理学の祖とよばれるウィルヘルムヴントが公的に心理実験室を始めたのが1879年であり、ウィリアム・ジェームスがアメリカで実験室を始めたのはそれより4年早い1875年である。1870年代を近代的な心理学の始まりだとすれば、140年程度の歴史を持つ。それ以来多くの心理学者の手による膨大なデータが積み重なっている。心理学はもちろん心の理を明らかにしようとする知的好奇心を満足させるものでならなければならないが、一方では、何かの役に立つという動機で心理学を勉強しようとする人も多いであろう。その1つの動機が、心理学に人生の智慧を求めることである。ほとんどすべての人が、自分の経験から「人間とは○○である」というパーソナルな理論を発達させ、必要を感じれば、自分の家族や周りの人に意見をする。再現できるデータに基づく心理学は、このようなパーソナルな意見とは異なる信頼できる智慧を持ち、有益な生き方を示唆できるだろうか?

 私自身の体験であるが、短期的にアメリカに住んでいる際に、子供が高熱を出した。その高熱への対処として、ぬるい水のお風呂に入れろという医者からの指示があった。日本の常識とはかけ離れているように思う。このように、風邪に対して各国の対応はかなり異なっている。ドイツでは、風邪の時には寒い時でも外へ出て散歩をするのが良いのだそうである。国内に限っても、各家庭で風邪退治の方法をそれぞれにお持ちかも知れない。風邪に対する対処法としてどれが良いかという、ごく普通の疑問に対する実証的(学問的)答えは、風邪の症状別に区分けしたうえで、無作為割り当てによって実験してみたデータによって得られるはずである。風邪の症状が一人一人異なる以上に、それぞれの人生は多様であり、生き方のアドヴァイスは難しいが、心理学はデータに基づいて、安定して信頼できる智慧を提供できると信じたいし、これから始まるこのシリーズではそれを狙いとしている。

 歴史上、数多くの思想家、宗教家、哲学者、小説家などなどが、生き方について説いてきて、それらは数多くの現代人の生き方に影響を与えている。これらの先哲のアドヴァイスも、自らの経験からの教えである点だけ考えれば、市井の人の意見の持ち方と変わりないのではないかとも思う。

 1つの例として仏陀を挙げてみよう。仏陀は、ゴーダマ・シッダールタという名前で実在の人である。仏陀に関して、ベイズ統計学で有名な、D・V・リンドレー先生との対話をよく覚えている。私がある論文を完成したつもりになって、リンドレー先生に見ていただいたときに、モデルの設定を少し変えるべきだというコメントがあった。そのことを指摘されたので、これはリンドレー先生自身が以前の論文で使ったモデルであると抗弁したところ、一瞬の間があったような気がするが、リンドレー先生は次のように答えた。「私がそうしたからというのは理由にならない、自分で考えてそれが正しいと思ったことを書くべきである」そして、さらに、「日本人だから知っているだろうが、仏陀は、“自分の頭で考えろ”と言っている」と、いささか唐突に付け加えたのが、非常に印象的であった。後で、機会があって、その仏陀の言葉の出典は何ですか? ときいたら、ある数学の本の序に書いてあったという程度の知識のみで、本人も出典は知らなかった。

 調べてみると、この教えは、仏教に関心のある人には周知のことであった。仏陀は、死に至った食中毒死の前にも大病を患っている。仏陀の最期にあたり、身辺を世話した、若いアーナンダは、師の病気の間不安でいっぱいだったのである。ブッダが亡くなる前に、ぜひ、悟りを開く道を知りたかったのに違いない。師亡き後はどうすればよいのかと聞いたのに対し、「自分はすでにすべてを明らかにしており、信徒を導く秘密の奥義などはない」として、「それゆえに、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他のものをたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとするな」(中村、172頁)という有名な教えを説く。当時のインドで洪水が起こると、残っている島(洲)以外に山影が見えず、自分の位置を定めるのに島しかなかったので、よりどころの意味として島が使われている。

 仏陀は、エリートとして約束されたキャリアパスを捨て、悟りを開くために、困難な修行をおこなった。ここで興味深いのは当時の修行の常識としての難行苦行を誠実に実践した後で、難行苦行では悟りは開けないとみずから判断し、説くべきことはすべて説いたという自信を持つに至ったのである。人の傾向として、自分の望むところを見がちであり、かつ、自分が労力を注いだことは何であれ正当化する傾向が根強くあることを考えると、苦行の後でそれとは別の道を歩んだことは、仏陀自身が自分の頭で考えたことの証明である。そして、仏陀は悟りを開くための道についていろいろ書き残しており、また、そのための環境を整えるためにサンガという組織を作り、その組織のあり方まで指示している。これらの指示は自ら考え、真理に到達する道に関する指示であり、仏陀の先の言葉と矛盾するものではないが、「自分の頭で考えよ」と一言でまとめるほど単純ではないかもしれない。いずれにしろ、深い洞察と智慧に基づく、学究の徒への良いアドヴァイスであると思う。仏陀だけではなく、世の中の宗教家、あるいは、その道の指導者は、人間に対する深い洞察力を持ち、その智慧によって、人生に対するアドヴァイスを行っている。

 しかし、これらのおびただしい数の教えは、互いに矛盾することがある。そもそも、「自分の頭で考えよ」ということと、生き方に対する智慧を求めることとも矛盾の気配を感じる。心理学においても、フロイトやロジャースなどの臨床家は、自分の臨床経験と洞察から、人間に関する豊富な智慧を提供している。心理学においても、両立しないような仮説や実践のためのルールがともに生き残っていることが多いと思う。

 心理学は1つの学問分野として確立しており、かつ、物理学を範として科学(サイエンス)であろうとしている。ところで、科学とは何であろうか? その厳密な定義をするのは難しいが、私の個人的なイメージでは、科学的心理学とは、データの積み重ねによって、理論の構造がより確かなものとなり、意味のある仮説を生み出す力が強くなるという方法論とそれに基づく知識体系である。ただし、ここでいうデータは、一人一人の日常の経験やエピソードのようなものではなく、組織的に計画されて得られたデータであり、そのデータを得た当人でなくても、その問題に関心のある他の研究者が望めば再現できるデータである。そうでなければデータの積み重ねはできない。心理学はすでに膨大なデータが積み重ねられており、心理学研究者は特別の洞察力を必要とせず、あるいは、そのような直観的洞察の力をもっているとしてもあえてそれを使わず、データの積み重ねによる心理学理論の深化が生き方に関する智慧を提供していると考えたい。

 

 この連載では、まず、まとめ役の繁桝から、人間性に対する素朴な疑問を提示する。それにたいして、門外漢にもわかりやすい言葉で回答してもらう。その回答で分からないところをさらに聞き、具体的な示唆を引き出したい。時の経過により、問いの変更もあるかもしれないが、次号からは次のような質問と答えを連載する。

 

Q1 マスコミでは、経済格差が教育格差を生じるという説をよく聞く。この説の根拠は、親の年収などの社会経済的指標と学力との相関であるとか、社会経済的階層間の違いで比較してみると学力や教育年数に差があることを根拠としている。しかし、相関データから直接因果を語ることはできない。また、この見解は一種の宿命論的な考え方を導く恐れがある。各家庭の置かれている状況の違いを乗り越える子育てについてのヒントを求めたい。

 

Q2 記憶には、事実ではないことをまるで事実であるかのように記憶されている偽記憶があり、裁判所における証人の証言を鵜呑みにすることはできない。証言の信憑性について、アメリカでは心理学者が裁判所で意見を述べることは稀ではないと聞く。この点で、日本の状態はどうか。一般論として、偽記憶の可能性を論じることは実験室的データに基づいて可能であるにしても、個々の裁判事例において、個々の証言についてその信憑性の評価をすることはかなり難しいように思われる。この点で本当に心理学者は貢献できるのであろうか?

 

Q3 錯覚という現象は、知覚において、人間の脳による無意識的な判断が関与することを如実に示している。錯覚を意識的に補正することは不可能である。すなわち、人間は、外界の現実をそのままとらえているわけではない。錯覚という現象は、外の世界と我々が見る世界とは異なることを示している。人間の錯覚を前提として、外的な世界と内的世界の二元論は克服できるのか? また、人間のコミュニケーションはどうあるべきかについて問いたい。

 

Q4 夢はなぜ見るのだろうかとは誰しも不思議に思う疑問であるが、現在の心理学ではこの問題に対する答えは用意できているのだろうか? 夢をより良い生き方につなげるという意味で明恵の例は参考になるのだろうか? 彼は、夢をコントロールして、自分の信心の方向性を鍛えたと言われる。睡眠中に、自己との問答を繰り返し、より良い生き方とつなげることができるのだろうか?

 

Q5 ダーウィンの提唱した進化論は、我々の心の進化にも適用されている。進化論は、遺伝子の変動が起こり、その変動のうち、環境に適した遺伝子パタンが生き残るという考えであるが、この遺伝子の変動がランダムかどうかには疑問も提出されている。また、心の進化については、動物あるいはヒトの身体の変化に比べて、環境の時間的つながりの影響を受けている。心についての進化論の知見から、生き方について有効な助言が可能だろうか? 最近では、トランプ大統領が選挙で勝つことを霊長類の行動パタンから予測したという新聞記事があったが、霊長類など他の動物の行動パタンから、人生に有益なアドヴァイスができるのであろうか?

 

Q6 人間は意識するよりも先に決定しているという実験が認知心理学で有名になっている。たとえば、コップを取ろうとするからコップを取る動作をするのではなく、コップを取るというなんらかの意思決定が先行し、そのことを追認するのが意識であることが実験的に示された。意思決定に至るプロセスにおいて、意識は、どのような位置を占めるのか? 意識は、脳と身体を使って決めていることの上澄みをモニターしているだけなのか? 人生の重要な問題についてならば、意識的にあれやこれやと考えて決定していると思われるが、重要な問題においても、直観的に考えるほうが、後悔しない良い決定につながるのだろうか?

 

参考文献

中村元 『ゴータマ・ブッダ(下)〈普及版〉』 春秋社(2012年)

ページの先頭へ
Copyright©YUHIKAKU PUBLISHING CO.,LTD. All Rights Reserved. 2016