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書斎の窓

コラム

有斐閣の女性編集者たちとともに
――『新基本民法』シリーズ完結に寄せて

東京大学法学部教授 大村敦志〔Omura Atsushi〕

1 2014年12月に始まった『新基本民法』シリーズは2017年4月の総則編の刊行によって、どうやら無事に完結した。表題から窺われるように、『新基本民法』は、3巻本であった『基本民法』を6冊に分割し、従来はなかった家族編・相続編を加えて全8冊とした上で、アップデートしたものである。短期間で刊行を終えることができたのはリニューアルであることにもよるが、有斐閣書籍編集部のご尽力によるところがきわめて大きい。今年から編集部長になられた藤本依子さんをチーフに、中野亜樹さん、小林久恵さん、島袋愛未さんが加わった女性4人のチームのがんばりがなければ、今ごろはまだ道半ばであったことだろう。『新基本民法』シリーズは、「女性とこどもの法」という副題を付した家族編からスタートした。同書の各章は「女性と○○」という表記で統一されており、女性から家族法を見るという視点に立っている。この本から始まった新シリーズが、女性編集者たちの活躍によって早期に完成したことを、著者としては大変うれしく、また誇らしく思っている。そこでこの機会に、多年にわたる女性編集者の皆さんとのかかわりを振り返り改めて謝意を表するとともに、有斐閣と女性編集者のかかわりについても一言しようと考えた。

2 1994年に最初の1冊を刊行していただいて以来、単著・共著を含めて有斐閣からはたくさんの書籍を出させていただいてきた。さらに雑誌、特に「法学教室」の特集(1990年代前半)・連載(2000年代)や六法全書・法律学小辞典・民法判例百選・新注釈民法などの編集でもお世話になってきた。30年を超えたおつきあいを振り返ってみると、女性編集者の方々にお世話になることが多かったことに、今さらながら気づく。もちろん、男性編集者にお世話になっていないわけではない。とりわけ、酒井久雄さんには言葉では尽くせないほどの恩義がある。1989年に当時編集部長だった大橋祥次郎さんからご紹介いただいてから編集部長になるまでの間は、書籍に関しては専ら酒井さんの手を煩わせてきた。『基本民法』シリーズについても、企画段階から刊行までの7、8年の間、ずっと酒井さんに面倒を見ていただいた。

 2002年に酒井さんが編集部長になられた頃に「忙しくなるでしょうから、若い人に担当を交代してもらってもいいですよ」と申し上げたところ、酒井さんに代わって私の担当になったのが当時入社したばかりの小野美由紀さんであった。小野さんには『基本民法』の改訂のほか、『生活のための制度を創る』を手始めに『日韓比較民法序説』『不法行為判例に学ぶ』『民法のみかた』、とりわけ『民法読解 総則編』では大変細やかな仕事をしていただいた。『基本民法』のリニューアルの構想に関しては、当初、辻南々子さんに相談したが、辻さんには『民法判例集』や百選でもお世話になったほかに、『消費者法』の改訂もしていただいてきた。『不法行為判例に学ぶ』は、渡辺真紀さんが編集長の時代に法学教室に連載していたものだが、渡辺さんにはそれ以前に『もうひとつの基本民法』の連載の際にもお世話になっていた。ちなみに、この連載の企画を担当されたのは伊丹亜紀さんで、書籍化する際にも伊丹さんを煩わせた。そのほか辞典では梅原紀子さん、六法では青山ふみえさん、奥山裕美さん、百選では木田悦子さんに、お世話になってきたし、アド・ホックに原稿のやり取りをした方々はほかにも何人かいらっしゃる。

 近著に関して言えば、小粥太郎教授との共著『民法学を語る』は佐藤文子さんの編集によるが、佐藤さんとは15年ほど前に道垣内弘人・山本敬三・森田宏樹の3教授との共著『民法研究ハンドブック』の際にもご一緒したし、道垣内さんとの共著『民法解釈ゼミナール5 親族・相続』でもお世話になった。横田光平・久保野恵美子両教授との共著『子ども法』の編集会議には、藤本依子さんがずっとおつきあい下さった。『民法読解 親族編』も藤本さん、『家族法』は初版以来数次の改訂もすべて藤本さんで、小野さんが雑誌編集部に移ってからは有斐閣での私の書籍のほとんどは藤本さんが担当して下さっている。

 藤本さんとのお付き合いは1990年代の初め、故星野英一先生のご指示で法学教室の特集企画に関与していたころに遡る。では、藤本さんが私にとっての最初の女性編集者かと言えば、そうではない。高橋道子さんという方がいらした。高橋さんは1980年代前半、私たちの助手時代に法学協会雑誌の編集を担当されていた。当時はまだ活字を組んでいた時代であり、再校でたくさん直すと高橋さんに叱られるのではないか、と若い助手院生はひそかに(根拠なく)恐れていたものだ。高橋さんと梅原さんとはほぼ同年輩だが、さらに先輩の編集者としては西尾みちみさんがおられた。西尾さんは有斐閣を退職後に放送大学の教科書を編集する仕事をされており、そちらの方でお世話になった。ちなみに、星野英一先生の『民法論集』を早い時期に担当されていた江辺美和子さんは、お名前には親しみがあるものの、名編集長として語り継がれてきた新川正美氏と同様に、私にとっては神話中の人物である。

3 こうして見ると、本当に多くの女性編集者にお世話になってきた。では、私の担当編集者がたまたま女性だったのかと言えば、必ずしもそうではない。有斐閣にはそもそも女性編集者が多いのではないか。特に最近は増えているのではないか。常々そう感じてきた。しかし、印象だけで断定するのは危険なので、先日、江草貞治社長を煩わせて、社員の男女比に関するデータを提供していただいた。あまり古いデータはないとのことだったが、現存のデータによると、平成14年〜17年(2000年代前半)には女性社員(編集者に限らない)の割合は31〜34%であったが、平成18年以降は40〜45%の間で推移している。社長の解説によると、必ずしも女性の採用が増えているわけではなく、定年を迎える社員に男性が多かったことによって相対的に女性が増えているとのことだが、言い換えればこれは、かつては男性社員が多かったということだろう。

 ところで、藤本依子さん以降の人たちは、私が有斐閣とお付き合いをするようになった後に入社した方々なので、その入社時期の前後はほぼわかる。これに対して、西尾さん、梅原さん、高橋さんといった方々はそうはいかない。そこで彼女たちについては、手元にある『有斐閣百年史』の「年譜」に掲げられている毎年の入社者・退社者欄を参照して、前後関係を確認した。『百年史』は1980年に刊行されているが、この年には私はまだ学生であったので、私の所蔵本は有斐閣から寄贈されたものではない。私が法律書店の歴史に関心を持ち『百年史』を欲しがっていることを知った副島嘉博さんが、ご自身の持物を下さったものである。ちなみに、月刊「法学教室」の創刊などに貢献された副島さんの入社年次は、『百年史』によれば、西尾さんと梅原さんの間ということになる。

 『百年史』にはいろいろ興味深い事実が記されているが、「年譜」から女性社員に関する記事を2つ紹介しておこう。1つ目は戦前の状況について。「昭和初頭より敗戦までの退職者氏名一覧」によると、女性と思われるのは74名中13名であり、その割合は18%である。2つ目は「敗戦時の在職社員」であるが、13名中3名(満洲有斐閣を除く)が女性で、割合は23%であった。これも即断は禁物ではあるが、有斐閣は昔から女性社員が多い会社だったと言えそうである。

4 その理由はどこにあるのだろうか。

 有斐閣は働く女性にやさしい職場環境を有しているというのが、さしあたり考えつく答えである。実際のところ、前記の女性編集者の中には、出産のために産休をとり、その後に復帰して働き続けている人も少なくない。子どもを育てていると、急な病気や怪我でどうしても休まなければならない、あるいは遅刻・早退しなければならないということもあるが、編集者という仕事は9時から5時までという仕事ではないので、時間のやり繰りがしやすいといった事情もあるのだろう。また、有斐閣には夫婦で働いている方々も何組かいるが、女性編集者のパートナーたる男性社員たちも、育児に積極的に参加しているのかもしれない(そうであると期待している)。

 仮に以上の推測が当たらずといえども遠からずであるとして、では、なぜそのような「社風」ができあがったのだろうか。これはなかなかの難問であるが、解答のための手がかりはやはり『百年史』の中に見出されるように思われる。現在の社長は6代目にあたるが、有斐閣中興の祖と言うべきは先代(現会長の忠敬氏)・先々代(忠允氏)のご尊父の江草四郎氏(1900―1992)であろう。四郎氏の「経営改革」が今日の有斐閣にも影響を残している、というのが私の当面の仮説である。

 四郎氏は東京帝国大学法学部卒業後、台湾総督府に就職が決まっていたが、赴任に先立ち、有斐閣2代目の江草重忠氏と養子縁組をし、その娘・英子嬢と結婚することとなった。1926年4月のことであった。就職の周旋をしたのは穂積重遠、媒酌人は富井政章夫妻であったという。台湾行きの直後に、四郎氏は内務省に転勤となって内地に戻ったが、重忠氏の懇請を受けて、1928年には官途を辞し有斐閣に入店した。余談ながらしばらく前に、まったく採算がとれないであろう『穂積重遠・終戦戦後日記(1945―50年)』を出していただくにあたって、私はこの話を持ち出して「穂積先生は四郎さんの就職の世話もしたんだから」と社長にお願いをした。

 話は前後するが、関東大震災が起きたのは四郎氏が東大に在学中のことであった。四郎氏は末弘厳太郎が指揮する教授活動に参加した。この活動はやがて帝大セツルメントへと繋がり、大正デモクラシー法学の社会実践の好例となった。四郎氏もまた、その強い影響下にあったのだろう、児童福祉や社会教育に対して強い関心と熱意を持っていた。『百年史』には次の2つのエピソードが現れる。

 1つは、四郎・英子夫妻が1932年4月から翌33年12月までの欧米視察旅行中に立てたという「パリの誓い」にかかわる。これは「ある年齢に達したら有斐閣の経営は子どもに出来る限りまかせ、その余力で産院もしくは託児所といったものを経営しよう」というものであった。「寿子(長女)の出産にあたりジュネーブの病院をはじめ、旅行先の各地の託児所などの世話になった。また四郎氏は、内務省社会局社会部や鳥取県社会課長として勤務していたこともあって、そうした児童福祉に関する社会施設についても強い関心を寄せ、できるだけ視察に務めていた」という(『百年史』263頁)。戦後、この誓いを実現するために、四郎氏は土地を確保し、英子夫人は助産婦の資格を取得したものの、戦後の混乱のために資金難に陥り、計画を放棄せざるを得なかったが、その志は注目に値する。

 もう1つは、欧米視察後に実施された店員教育にかかわる。「まず店員を選んで夜学に通わせて勉強させることにし、一方、夜学に行けない店員には講座を開設して店内で教育することにした。1週2回ないし3回開講し、午後7時から9時までの2時間とした。科目には、公民=江草四郎、英語=江草英子、出版概論=山野金蔵、そろばん、文学=田中久吉、書道=坂本知正などであった」という(『百年史』265頁)。

5 こうした出産・育児に対する理解と先を見越した社員教育の実施。このあたりに、女性編集者が長く勤務を続けられる職場環境の源があるのではなかろうか。有斐閣は今年創業140年を迎えるということだが、このような伝統がこれからも存続し、多くの女性社員が(もちろん男性社員も)生き生きと働ける場であってほしいものである。

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