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連載

ウェーバーの社会学方法論の生成

第6回(最終回) 適合的因果と反実仮想

――リッカートからフォン・クリースへ(2)

東京大学大学院総合文化研究科教授 佐藤俊樹〔Sato Toshiki〕

1.

 前回述べたように、v・クリースが提案し、ウェーバーが採用した適合的因果構成は、現在でいう確率的因果論の枠組みにあたる。けれども、ウェーバーは「確率の理論」にもとづくから、あるいは量的に測れるから、こうした因果同定手続きを導入したわけではない。v・クリースもそうだ。

 導入された理由は別のところにあった。――特定の原因候補が特定の結果にどう作用しているのか(例えば結果を成立させる方向に働くのか、それとも成立させない方向に働くのか)をあらかじめ決めずに、因果関係を同定するためにはどうすればいいのか? 当時の法学や社会科学では、それが大きな課題になっていたのである。

 特定の原因候補がどのように働くかは、他の条件次第で変わりうる。結果を成立させる方向にも、成立させない方向にも。少なくとも私たちは日常的に因果をそういうものとしてとらえており、それと矛盾しない形で、因果を特定する手続きを定式化する必要があったのである。(もし原因候補の働き方が、他の条件に全く関わりなく決っているのであれば、この問題はなくなるが、いうまでもなく、その場合はすでに特定の、それもきわめて強い因果関係が前提されている。逆に、もし原因候補の働き方が全く特定できないのであれば、今度は、結果との間の因果関係も同定できなくなる。)

 この点も、適合的因果構成を理解する上では重要だ。適合的因果構成は、特定の思想や科学を学んだ人間にしか、理解できない手続きではない(その点でマルクス主義の唯物史観とは全くちがう)。私たちの日常的な因果特定のやり方を反省的に形式化した上で、それをより適切に用いる方法論になっている(→第5回注4)。

 だからこそ、当時の法的な手続きとも重なるし、現代の分析哲学とも重なる。ウェーバーもマイヤー批判論文では、適合的因果構成がそういう方法であることが明確にわかるように書いている。

2.

 実際、先の問題は、現在の科学的な因果同定の手法を体系化したJ・S・ミルによって提起されて(J.S.Mill, A system of logic, book3, chapter5 section4)、当時のドイツ語圏の法学では、すでに大きな議論になっていた(M.Heidelberger, “From Mill via von Kries to Max Weber”前掲)。法的な責任を誰かに、あるいは何かに帰属させる上では、こうした形での因果の特定が不可欠だからだが、もちろんこれは法学だけの問題ではない(1)。社会に関わる因果を特定する上でも、重大な方法論上の課題として、歴史学や社会科学もふくめて、すでに広く共有されていた。例えば前回ふれた『歴史哲学の諸問題(第2版)』の「個体的因果性についての注記」で、ジンメルも同じ問題を指摘している(2)

 v・クリースはその解決策として、反実仮想を取り込んだ確率的因果論の枠組みを提示したのである。――どちらの方向に働くかは、その原因候補Cが「ある」場合に結果Eがどのくらい「生じた」か(=P(E|C))と、「ない」場合にどのくらい「生じた」か(=P(E|¬C))とを、(同じ条件群の下で)それぞれ数えあげて比べればよい。それでP(E|C)>P(E|¬C) であれば、CとEの間に因果関係がある、とすればよい。

 そのために、反実仮想が必要になる。例えば、数えあげて比べるためには、原因候補Cが「ある」場合と「ない」場合の両方が、同じ条件群の下で観察できなければならない。それゆえ、一回しか観察できなかった事象のように、「ない」場合が現実には観察できないときには、反実仮想の形で(=反事実的に)「ない」場合を想定するしかない。

 具体的にいえば、

 

(1)一回しか観察できない事態では、原因候補Cがあり、そしてその後に結果Eがある、という経過になっている。これはCが「ある」場合にEが「生じる」ことにあたるので、P(E|C)=1と考える(3)

(2)その上で、

(2-1)もしCが「ない」場合にはEが「生じない」と仮想するならば、P(E|¬C)=0になる。

(2-2)もしCが「ない」場合にもEが「生じる」と仮想するならば、P(E|¬C)=1になる。

 

ということだ。

 仮想(2-1)では、P(E|C)>P(E|¬C)になり、適合的な因果があることになる。したがって、CはEを「促進するbegünstigen」といえる。それに対して仮想(2-2)では、P(E|C)=P(E|¬C) になるから、CとEの間に適合的な因果はない。この場合は「偶然的 zufällig」とよばれる(マイヤー批判論文201~208頁、S.283-287も参照)。現在の確率的因果論でいえば「贋の原因(疑似原因)spurious cause」にあたる(→第5回注4)。

 つまり、どう仮想するかによって、因果のあるなしが決まってくる。適合的因果における法則論的知識とは、そうした反実仮想の論拠になるものである。だから、適合的構成における法則論的知識と法則科学の法則とは、論理的には全くことなる。

 法則科学の法則が特定の因果関係にもとづくのに対して、法則論的知識はその因果を同定する前提条件にあたる。そして、(これから見ていくように)ウェーバーがくり返し強調していることだが、法則論的知識は必ず仮定の部分をふくみ、それゆえ経験則という性格をもつ。

 D・ルイスの枠組みにそっていえば、法則論的知識は「必推量反事実条件“would” counterfactuals」にあたるが、これは現実世界と各可能世界の近さの基準にもなる(David Lewis, Counter factuals, Basil Blackwell, 1973, P.4、吉満昭宏訳『反事実的条件法』前掲3頁など) 。「客観的に可能」というv・クリースやウェーバーの表現も、現在では、そうとらえた方がわかりやすいかもしれない。

3.

 要するに、

 

①適合的因果構成は確率的因果論になっており、だからこそ反実仮想が必要になる。法則論的知識はそのための論拠にあたる知識である。

 

②この因果特定手続きは、法的責任論だけでなく、歴史学や社会科学全般に関わる重大な方法的問題への答えとして提案された。この問題自体はJ・S・ミルによって提起され、広く共有されていた。

 

 ウェーバー自身もマイヤー批判論文の長い注記の1つで、これらの点を明快に解説している(222〜223頁、S.269-270)。具体的にいえば、「T・キスティアコウスキーの批判……には私は賛成できない」から「[可能性の]範疇の使用は……現実の因果的諸連関のある部分が、原因の連鎖のなかに出現するまでは、あたかもいわば『宙に』浮いているかのような、そんな考え方は全くふくんでいない」までの文章で、先行研究をあげながら主要な論点を整理している。例えば「『宙に』浮いているかのような」という語句が具体的にさしているのは、特定の原因候補がどの方向に働くかが他の条件に関わりなく決っている、とする種類の因果論である。ウェーバーは、適合的因果論がそういうものではないと解説しているのだ。さらに、「可能性」や「必然性」が、この枠組みの上で整合的に定義できることも示されている。

 その上で、「J・S・ミルの理論とv・クリースの理論との対立点は、クリース自身によって、私の考えではきわめて説得的な形ですでに説明されている(前掲書107頁)」と結論している(4)。つまり、ウェーバーも1906年の時点では先の②を、すなわちこの因果特定の問題が、ミル以来の方法論的な課題であり、そういう形で社会科学全般に共有されていることを明確に意識しており、かつそれが読み手にわかるように書いている。なお「107頁」が参照指示されている「前掲書」は、v・クリースの『確率計算の諸原理』である。

 なぜこういう書き方をしているのかは、リッカートの文化科学を補助線にするとわかりやすい。ジンメルも『歴史哲学の諸問題(第2版)』の「注記」であらためて説明し直しているように、リッカートの「個体的因果関係」は、実はこの共通課題に対する答えの1つ、それもかなり特異な回答にあたるものであった(注2も参照)。

 第3回で述べたように、1904年の「客観性」論文でのウェーバーは、そのリッカートの文化科学の枠組みのなかで考えていた。その点でいえば、ウェーバーはこの共通課題に対していわば裏口から接近する形になった。そのことに気づいて、マイヤー批判論文では自分の位置を再定位しているのである。

 ウェーバーやリッカートのテキストだけ読んでいると、こうしたことはわからない。当時の因果特定の方法論の展開全体をふまえて読み解く必要がある部分だ。

4.

 これ以降、ウェーバーはv・クリースの適合的因果構成を自らの方法とする。方法論的な論文だけではない。経験的な研究、例えば1908〜09年に『アルヒーフ』に発表された「工業労働の精神物理学について」(以下「工業労働論文」と略す)もそうだ。さらに、彼の最後の著作になった1920年の『宗教社会学論集1』「儒教と道教」の結論部、いわゆる「儒教とピューリタニズム」では、「促進するbegünstigend」(やその反対語の「阻害するhemmend」)というv・クリース由来の術語で、実際に原因を識別している(5)

 「儒教とピューリタニズム」は社会学以外でもよく知られているが、工業労働論文については、社会学者でも知らない人がかなりいると思う。ウェーバーの研究のなかではあまり読まれないものの1つだが、実は方法論の展開においても重要な論考である。

 この論文は、ある亜麻織物工場を調査し、労働者の成果量や作業効率の記録を再計算して、熟練や消耗、年齢や性別、経歴、遺伝的形質、さらには文化や宗教といった要因が、特に心理や生理を通じて、どんな影響をあたえているかを計測しようとしたものだ(MWG1/11 S.162-380、日本語訳は鼓肇雄訳『工業労働調査論』日本労働協会、1975年)。つまり、今でいう計量社会学の論文であり、そして「プロテスタント的禁欲」という言葉が出てくるように、実は倫理論文の計量分析編でもある(MWG1/11 S.279-280, S.362-363, S.362 Anm95、鼓訳198〜201頁、303〜305頁参照)。

 原文の一部を載せておこう。ドイツ語が読めない方も、数値が並んでいるのがおわかりだろう。ウェーバーはこうした論文も書く人なのである。

 ここではd、e、n、……という記号で示された7人の労働者の、6週間にわたる、作業能率の変動の程度の「平均値Durchschnitt」を求めて、その推移を要約している(鼓訳では255〜256頁)。

 「客観性」論文や倫理論文などが注目されすぎて、しばしば忘れられがちだが、M・ウェーバーは社会調査の計量分析の専門家でもあった(村上文司『社会調査の源流』法律文化社、2014年など参照)。他の調査でも質問票の配布から集計作業の細部まで、いろいろ気を配っており、「社会心理学的アンケート調査の方法とその加工について」という関連した小論も書いている(Archiv 29(4), 1909, MWG1/11 S.388-398. 鼓肇雄訳『工業労働調査論』所収)。

5.

 ウェーバーの時代には「確率的因果論」という呼び名はなかったが、適合的因果が確率的な考え方を用いていること(=先の①)は、ウェーバーも明確に自覚していたと考えられる。

 そもそも「促進的」という術語は、前回述べたように、v・クリースが当時の確率理論の「専門用語」を導入したものである。さらに、先ほど引用した注記のように、マイヤー批判論文では、『確率計算の諸原理』の107頁と108頁がくり返し参照指示されている。ここで述べられているのは、現在の言い方でいえば、仮説の値と観測値のずれを二項分布で検定する手続き、いわゆる「母比率の検定」である。

 とはいえ、検定手続きの数理の部分まで、ウェーバーは理解できていたわけではない。工業労働論文を読むかぎり、数理に関しては、むしろほとんど理解していなかった、と考えた方がよいだろう。

 【少し専門的になってくるが、重要な点なので、具体的に説明しておこう。統計学が苦手な人は読み飛ばしてよい。

 例えば工業労働論文では、実験室状況とのちがいに注意しながら、特定の因果連関が「適切に(適合的に)adäquat再現される」か、特定しようとしている(MWG1/11 S.229、訳145頁など)。ところがウェーバーはそれを、標本比率の差の大小だけで判定している。

 P(E|C)P(E|¬C)の差は、現在でいう母比率の差にあたる。その差が有意かどうかには、標本比率だけでなく、標本分散にあたる値――母比率の検定の場合は標本規模――も関わってくる。その点は、おそらく全くわかっていなかっただろう。

 また、論文中で何回か「大数」の法則に言及しているが、経験分布と確率分布の区別はしていない。これは当時の統計学を考えればしかたがないことであるが、1911年の社会政策学会の大会で工場労働の共同調査が報告された際にも、討論者として招待された統計学者L・ボルトキヴィッチの好意的な批判に対して、的外れな反論をしている村上前掲第14章など参照。】

 しかし、何が問題になるかについては、ほぼ理解していたようだ。例えば、データからP(E|C)とP(E|¬C)の差を推論する際には、「偶然的なものZufälligkeiten」の影響を外して考えなければならない、と述べている(MWG1/11 S.248、訳164頁)(6)。さらに、多数の原因候補のなかで特定のものが有意かどうかを識別しなければならないことにも、明確に気づいている(特に六節「方法上の諸問題」参照)。つまり、適合的な因果があるかどうかを厳密に判定するためには、どんな問題を解決する必要があるのかは、わかっていた。

 現代の社会科学では、このような場合、重回帰分析など、多変量解析の数理統計学的なモデルをつかって対処することが多い。具体的にいうと、特定の確率モデル、それゆえ因果関係の特定の構造を前提においた上で、例えば説明変数群にCを含むモデルの説明力とそれからCを除いたモデルの説明力を比較して、Cが原因だといえるかどうかを判断している。母比率の検定は、こうした確率モデルのなかの最も簡単なもので、モデル間比較にとっては最初の一歩にあたる(7)

 したがって、先に述べた、マイヤー批判論文でのウェーバーの参照指示は、現代の社会科学の手法からみても、的確なものだったと言わざるをえない。彼にとって『確率計算の諸原理』の107頁と108頁は、たしかに重要な箇所だった。それこそ、くり返し言及するに値するくらいに。数理の部分はともかく、方法論の上で何が問題にされており、それにどう答える必要があるかに関しては、理解できていたと考えてよいだろう。

6.

 以上述べてきたことを、簡単にまとめておこう。

 当時の因果分析の方法論では、[Ⅰ:特定の原因候補の働き方をあらかじめ決めずに因果関係を同定する]、[Ⅱ:無数の原因候補のなかで特定の因果を識別する]、という2つの課題が大きな焦点になっていた。J・S・ミルもジンメルもこれらを重要な問題として提起しているし、マイヤー批判論文の長い注記のなかで、ウェーバーも[Ⅰ]と[Ⅱ]をそれぞれ明記している。v・クリースが提案した適合的因果構成論はそれを解決できる枠組みであった。

 現代の社会科学にとっても、[]と[]は大きな課題でありつづけている。その意味では、今も決して十分な解決の手段が用意されているわけではない。それどころか、十分な見通しすら、現在の統計的因果推論statistical causal inferenceまで持ち越される、といった方がよい(→第2回)。

 それゆえ、例えば現在一般的に使われている検定手続きでは、[]も[]も部分的にしか解決できないが、それでももし当時のウェーバーの手元に統計ソフトがあれば(もちろんこれも反実仮想だ)、彼は喜んでつかっていただろう(8)。実際、工業労働論文のなかでも、データから特定の結論を引き出す際には、慎重な言い回しをつづけている。[]と[]にどう答えられるか、だけでなく、自分が現在使える計算手法ではどの程度しか答えられないのか、に関しても、できるだけ見極めながら書いている。そんな方法的配慮が伝わってくる文章だ。

 そうした点で、ウェーバーの方法論の生成において、v・クリースの適合的因果の導入は、決定的な転換点になった。それによってウェーバーは、リッカートの文化科学を完全に離れて、独自の比較社会学を始めていく。そのv・クリースの名前と「適合的因果構成」の語が方法論の論文群に登場するのは、第1回で述べたように、1904年の「客観性」論文ではなく、1906年のマイヤー批判論文とクニース2論文からである。

 ラートブルフの回想からみて、1904年の終わりにはウェーバーはラートブルフの論文を読んでいた、と考えられる(山田晟訳『著作集10巻 心の旅路』東京大学出版会、1962年)。また1904年6月のリッカート宛ての手紙には、「近いうちに(この冬に)、歴史的な判断や発展の概念にとっての「客観的可能性」というカテゴリーの意義を分析することを試みるつもりです」と書かれている(MWG 2/4 S.231、野崎前掲204頁も参照)。1905年には、「個体的因果性についての注記」が追加されたジンメルの『歴史哲学の諸問題(第2版)』も刊行されている(→第5回、本回の2および注2参照)。

 そして、そのどこかの時点で、ウェーバーは自分が少し厄介な立場にいることに気づいたのではないだろうか。実は1904年の「客観性」論文のなかでも、「「法則論的」認識»nomologische« Kenntnis」「適合的な原因の連関adäquat ursächliche Zusammenhänge」「「客観的可能性」»objektive Möglichkeit«」といった形で、v・クリースの術語群が出てくるが、この論文では、全て参照指示なしでつかわれているのだ(89〜90頁、S.179)。

 特に大きいのは「法則論的」である。すでに述べたように、この言葉はv・クリースが20年以上も前に提唱して、ドイツ語圏の自然科学だけでなく、人文学や社会科学でも広く知られていた。「適合的な」因果という表現はスピノザが『エチカ』でつかっており、「客観的に可能」は日常的な言葉遣いでもありうるが、「法則論的」はv・クリースの術語だといってよい(9)

 例えば現象学の創始者E・フッサールも、1900年の『論理学的研究1(第1版)』で「法則論的科学nomologische Wissenschaft/存在論的科学ontologische Wissenschaft」という区別を立てている。そこでは「v・クリースの用語を借用した」と、はっきり述べられている(Logische Untersuchungen 1(1 Aufl.), S.234-235, Niemeiyer, 1900. 立松弘孝訳『論理学研究1』257〜258頁、みすず書房、1968年)。

 

理論、すなわち原理上の統一という観点によってその領域を特定されている諸学、それゆえ全ての可能な事態と類的個別者をイデア的完結性Geschlossenheitのなかで包括し、一つの基本法則性の内部でその説明原理を有する諸学は、……抽象的な学とよばれている。その特徴からいえば本来は、理論的な諸学とするのが最も適切だろうが。……J・v・クリースの提案にしたがえば、これらの諸学は法則論的学nomologische Wissenschaftとして特徴づけられるかもしれない。……
 けれども、真理を学へ統合する上では、第二の、非本質的な観点もある。……すわち、その内容が一つの同じ個体的対象性ないし一つの同じ経験的類に関係する全ての真理が結びつけられる。地理学、歴史学、天文学、博物学、解剖学のような具体的な諸学、すなわちv・クリースの用語を借用すれば存在論的諸学ontologische Wissenscaftenは、こちらにあたる。

 

 「非本質的ausserwesentlich」という表現(この後でももう一度出てくる)や天文学の位置づけからもわかるように、フッサールによるこの区分は、リッカートの法則科学/文化科学とは全くちがうものだ。実はこちらの方がv・クリースの法則論的/存在論的の定義には近い。実際に『確率計算の諸原理』を読んでいれば、法則論的/存在論的と法則科学/文化科学が異質な概念であることに気づくのは、それほど難しくない(10)

7.

 『論理学的研究』でフッサールは、『算術の哲学』の心理主義から論理主義へ転じたとされる。論理主義的確率論に分類されるv・クリースがそこに出てくるのは、興味ぶかい。

 当時の「論理」や「心理」の用法を考えあわせると、学説分類上の名称だけから関連性を推測するのはあやういが、フッサールはよく知られているように、もともと数学者として出発した。微積分の理論を厳密化したK・ヴァイアーシュトラウスの下で、数学を学んでいた。そんなフッサールと、当時の社会科学者としては例外的なくらい、数理に苦手意識をもたなかったウェーバーの間には、内在的な近さがあったのではないか(7)。その背後には、M・フーコーなら「〈知〉エピステーメーの転換」と言い出しそうな、自然科学までふくめた西欧の学術全体の大きな転換がある。

 こうした広がりまで視野にいれると、ウェーバーがどこで「法則論的」という言葉を知ったのか、そしてv・クリースの論文や著作をいつ実際に読んだのかは、かえって特定しづらくなって少し頭が痛くなるが、正確な時点はともかく、v・クリース自身の適合的因果構成論を読んだことで、ウェーバーの方法論は大きく転換していく。くり返しになるが、そこにはまさに、ウェーバーが知りたかったことが書いてあったからだ。一回しか観察できない事象にも(複数回観察できる事象と同じように)適用できて、[]と[]の課題を解決できる因果同定手続きが。

 「客観的可能性の概念」論文でv・クリースは、因果のあるなしを反事実的な反実仮想の形で定義した上で、どうすればそれを特定できるかを考察した(山田・谷口訳(1)148〜149頁、S.198-199)。

 

ある特定された対象の因果性に関する問いは、あの実在の諸条件の諸複合Complexe der Bedingungenにおいて(ある特定された一部が)欠けていて、けれどもそれ以外全ては全く同じにふるまったとしたら、どうなったであろうかwas geschehen wäreと問うことに等しい。……

つまりここでも、具体的な事例の関係性がある一定の点に関して変更されたと考えられるべきであり、実際に存在した諸条件Xの代わりに、そのことから特定の修正を通じて生み出されたであろう諸条件Xダッシュが想定されなければならない。

 

 読んでおわかりだろうが、この定義は一回的な事象を念頭においたものだ。その上で、そうした事象に対して、一般的にしか定義できない因果関係をあてはめるためには、反実仮想を用いる必要があることが、述べられている。だから「どうなったであろうか」での完了の助動詞seinは、反実仮想を示す接続法Ⅱ式wäreになっている。

 だからこそ、ウェーバーはv・クリースの考え方を取り入れたのだろう。実際、マイヤー批判論文の第2節の例示では、v・クリースの術語や論文の文章を踏まえた表現がしつこいくらいに出てくる。»〜«のような引用表現も多用される。そして、接続法Ⅱ式が自在につかいこなされている。法則論的/存在論的という対概念もそこに関わってくる。

 それによってウェーバーは、経験的な分析の位置づけだけでなく、方法論の理論の上でも、リッカートの文化科学から決定的に離れていく。「理論的価値関係づけ」の下で、あるいは個別的な価値関係づけの下で、歴史的な事象の文化意義を解明するという立場から(→第3、5回)、歴史的な事象の間の因果関係を経験的に同定していく立場へ、すなわち個々の事象の「文化意義の大きさ」も測りうるとする立場へ、転じていく。文化科学の枠組みにもとづく価値関係づけの「客観性」から、v・クリースが提唱した、反実仮想を用いた「可能性判断」の「客観性」へと、舵を切っていくのである。

 方法論の最後の論考になった1920年の「社会学の基礎概念」論文では、はっきりとこう述べている(阿閉吉男・内藤莞爾訳『社会学の基礎概念』、恒星社厚生閣、6〜7頁、MWG1/23 S.149)。

 

 社会学とは、社会的行為を解明しつつ理解し、これによってその経過とその影響を因果的に説明しようとする、1つの科学だというべきである。

 

 それがウェーバーの社会学なのである。

(1)ミルの因果論とドイツ語圏の法学での影響については、ハイデルベルガーの “From Mill via von Kries to Max Weber”前掲参照。また、W・リュッベも「すでにクリースが1888年の論文で示唆し、それをふり返りつつマックス・ウェーバーが1906年に詳細に展開しているように、歴史科学も、因果性論からみると全く同じ問題にぶつかっていた」と指摘している(Weyma Lübbe, “Die Theorie der adäquaten Verursachung,” S.97, Journal for General Philosophy of Science 24, 1993)

(2)というか、そもそもリッカートが「個体的因果関係」の定式化で参考にした、『歴史哲学の諸問題(第1版)』でのジンメルの議論は、本来、この問題をとりあげたものだった(前掲120〜123頁、S.310-313)。それをリッカートが誤解もしくは転用したのである。

(3)複数回観察できる事態や、観察結果に確率的な誤差が生じる場合には、P(E|C)やP(E|¬C)は0〜1の間の値になる。

(4)この注記をみるかぎり、ウェーバーはミル自身の解決を、個々の事象の内部に、複数の方向性をもつ作用を(いわば潜在変数として)想定するものだと理解したようだ。その場合、ミルの解決は「可能性」を実体視することになり、ロッシャー論文でウェーバーが厳しく批判した「流出論」的なとらえ方に通じる。

(5)原文はGAzRS1 S.535/ MWG 1/19 S.477。残念ながら現在の日本語訳では、これが専門的な術語であることは、明確には意識されていないようだ。工業労働論文では“ungünstig”や“Hemmung”という言葉が出てくるが(WG1/11 S.355)、こちらは専門的な術語だとは言い切れない。ただし、後で述べる[]と[]の課題は明確に述べられている。
  なお方法論の論考群の「法則論的nomologisch」の表記にはいくつか種類があるが、以上の経緯を考慮して、v・クリースの定義を採用したものだと判断できる場合には、以下原則として「 」をつけずに表記する。それ以外には適宜「 」をつける。「存在論ontologisch」は使用例が少ないが、同様の表記を採る。
  「客観的可能性」と「適合的」、さらに「促進的begünstigend」もv・クリースの術語だが、日常的にもつかう表現なので、v・クリースの定義を採用したものには「 」をつけて表記する。ただし客観的可能性判断や適合的因果構成はv・クリース独自の術語なので「 」は省略する。また、引用では原文での表記を優先する。引用語として文中でつかう場合にも全て「 」をつけて表記する。)

(6)現在の知識では、これは、標本比率と母比率を区別することにあたる。ただし、統計学でもこの2つが厳密に区別されるのは、1908年のW・ゴセットの論文「平均の確率誤差」以降になる。この論文からT検定が始まる。安藤洋美『多変量解析の歴史』現代数学社、1997年、特に第8章参照。

(7)例えばP・スッピスの「一応の原因/贋の原因」の区別は、多変量解析における先行変数(による交絡)への注意と同じものになる。また、確率的因果の具体的な同定は母集団のとり方に左右される、という指摘もその通りだが、だからこそ経験的な研究では、一般化の方向に注意を払いながら、可能なかぎりデータを集めて測定している。

(8)「社会心理学的アンケート」の論文でも、結論をだすには、現在のログリニア分析にあたる多変量解析の手法が必要であることを実質的に指摘している注記がある(MWG1/11 S.396 Anm5, 訳351頁)。

(9)ハイデルベルガーは、v・クリースが『エチカ』から「適合的」という表現をもってきたのでないか、と推測している(“From Mill via von Kries to Max Weber,” p.247)。

 また「法則論的/存在論的」には、もう一つ興味ぶかい経緯がある。リッカートが文化科学/自然科学の区別を展開した『自然科学的概念構成の限界』第2版は1902年、W・ウィンデルバントが「個性記述的/法則定立的」という二項図式を提唱したのは1894年である。v・クリースの著作も論文もその10年近く前に発表されている。法則論的/存在論的という術語は、新カント派の科学論よりも旧いのだ。1927年の『確率計算の諸原理』第2版の「第2版への序文」では、その点にも言及している。

(10)この箇所の注記でフッサールは、『確率計算の諸原理』と1892年の別の論文をあげた上で、「ただし『法則論的』と『存在論的』という術語でv・クリースがとりあげたのは判断の区別であって、ここでのような学術の区別ではない」とも書いている。これも適切な言及だろう。

(11)だから、もし理解社会学と現象学との関わりを考えるのであれば、確率的因果論や法則論/存在論的の対概念と、フッサールの数学論との関連性も、視野にいれておく必要があるだろう。後者については鈴木俊洋『数学の現象学』名古屋大学出版会、2013年などを参照。A・シュッツ以降の「現象学的社会学」では、こうした面での関連性はほぼ完全に見過ごされてきたように思う。例えばシュッツは『社会的世界意味構成』(Alfred Schütz, Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt, S.264, Springer, 1975. 佐藤嘉一訳『社会的世界の意味構成[改訳版]』、木鐸社、2006年)で、客観主義的確率論にたつL・v・ミーゼスの「社会学と歴史」を何度も参照指示しており、ウェーバーはもちろん、フッサールともかなりちがった立場に立っていた。森元孝『アルフレート・シュッツのウィーン』(新評論、1995年)、特に390〜394頁などを参照。

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