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書斎の窓

書評


『映像文化の社会学』

東海大学文学部准教授(広報メディア学科) 加島卓〔Kashima Takashi〕

長谷正人/編
A5判,302頁
本体2,400円+税

 一人で読むのがもったいない本である。講義ならコメントが増え、ゼミなら議論が盛り上がりそうだ。この本の執筆者たちも、きっとわいわいやりながら書いたのであろう。そういう雰囲気が感じられ、そこに自分も巻き込まれたいと思える1冊である。

 

 本書は人間が映像にとりつかれているのではないかという。ここでの映像とは写真や映画のことだが、本書のポイントはそれらを娯楽や芸術の作品として論じないところにある。「映像をつくりだすことのほうが人間の文化にとっては本筋かもしれない」と考える本書にとって、私たちがカメラでなんでもかんでも撮影してしまうこと自体が考察の対象になりうるのである。

 こうした設定の本書を支えているのは、ヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」という論文である。メディア論でもよく参照されるこの論文は実に様々な解釈がなされてきたが、本書はベンヤミンによる「アウラの凋落」という命題にこだわり、これと格闘しながら人類にとって映像とは何かを明らかにしようとするものである。

 よく知られた言い方をすれば、ベンヤミンによるアウラの凋落とは、複製技術の登場によって芸術作品が礼拝的価値の代わりに展示的価値を持つようになることである。教会の宗教画や王宮の肖像画が備えているかのように見える不思議な力も、複製可能な写真や映画に収められるといつでも見られる鑑賞物の1つとなり、信仰や崇拝から切り離されてしまうというわけである。これに素直に従うと、写真や映画は展示的価値の側にあるということになる。

 しかし、本書はそのように考えない。写真や映画を娯楽や芸術の作品として論じないということは、展示的価値に還元することのできない何かとして映像を論じようとすることである。そこで本書はいくつかの仕掛けを用意している。

 1つには、映像を「テクノロジー」として論じることである。その結果、写真史(第1章)や映画史(第2章)、テレビ史(第3章)やコンピュータ史(第4章)が科学実験の歴史として見えてくる。映像の内容とは別に、映像をつくりだすこと自体が考察の対象になるのである。

 2つには、映像を「社会統合」との関係で論じることである。その結果、写真史や映画史が人間関係の歴史(第5章、第6章)や共同体の歴史(第7章、第8章)として見えてくる。個人や他者との記録が、コミュニケーションとしていかに機能するのかも考察の対象になるのである。

 3つには、カメラを「科学」との関係で論じることである。その結果、カメラの歴史は医療技術の歴史(第9章)や犯罪捜査の歴史(第10章)、さらには学問調査の歴史(第11章)として見えてくる。カメラで撮影された映像が私たちの常識を覆すこともあり、その破壊的な力が考察の対象になるのである。

 4つには、撮影された内容と「アウラ」を結びつけて論じることである。その結果、映像の歴史は人物崇拝の歴史(第12章)、心霊画像の歴史(第13章)、アニメーションにおける生命力の歴史(第14章)として見えてくる。複製技術はアウラを凋落させるどころか、むしろ呪術性を高めてしまったところがあり、その逆説が考察の対象になるのである。

 このように4つの仕掛けを用意した本書は、「映像文化が人間の平凡さや無名性に関わっている」ことに強い関心を持っている。というのも、映像文化は「過去の無名の人びとを無名のままで見る」という驚くべき経験を可能にしているからである。この点は、アウラの凋落が実は「無名の人びとを主役とした歴史が始まるという可能性」を訴えているのではないかという解釈と結びついている。

 またその一方で、本書は人びとが平凡さや無名性から逃れようとすることにも強い関心を持っている。というのも、映像文化は平凡な人間を少しだけ有名人にすることもできるからである。この点は、アウラの凋落が実はアウラの消え難さを物語っているのではないかという解釈と結びついている。

 アウラの凋落による無名性の肯定とアウラを感じ続けたい超越性への欲望。こうした2つが両立してしまう不思議な経験を具体的に取り上げながら、人類にとって映像とは何かを問い詰めていくのが本書の狙いである。

 

 それでは、映像をテクノロジーとして論じるとはいかなることか。それはたとえば、「写真術は、被写体に当たって反射した光が感光版(フィルム)の表面に塗布された化学物質を変化させることによって自動的に像を生み出すテクノロジーである」と説明することである(13頁)。また、「映画とは、人間の動作を観察するための科学的探求(連続分解写真)と、人間の眼に運動の錯覚を与えるために考案された実験装置(フェナキスティスコープ)とが結びつけられて生まれた、独特の科学装置なのだ」と説明することである(28頁)。うっかりすると、こうしたメカニズムの説明は写真や映画を鑑賞するための前提知識に聞こえる。しかしこうした説明は、映像をつくりだすことが実は人間の知覚の限界に挑戦する科学的な実験だったことも教えてくれる。テクノロジーとして映像を論じるということは、このような発想の転換を読者に促すことなのである。

 次に、社会統合との関係で映像を論じるとはいかなることか。それはたとえば、テレビなどによる生中継が「大衆にリアルタイムで「見る」と同時に、擬似的な参加の体験をもたらし、互いに面識のない人びとの間に共同性を感じさせる」と説明することである(55頁)。また、家族写真や友人との記念写真のように「写真は集団の統合を表す理想化されたイメージを定着させる」だけでなく、「集団はその統合のイメージを用いて再度、統合へ向けた手段として利用することができる」と説明することである(101頁)。こうした説明は、映像をつくりだすことが共同体や人間関係をつくりだすことにもなっているということを教えてくれる。社会統合との関係で論じるということは、映像が生活のなかで果たしている役割や機能への気づきを与えることなのである。

 続いて、科学との関係でカメラを論じるとはいかなることか。それはたとえば、X線写真や脳内画像など「医療における映像技術は、医師たちのまなざしを補強するばかりか、人間の視覚を超え出る領域へと拡張しようとするものであった。こうして私たちの身体は自分とは無関係な独自の論理に従って切り取られ、見たこともない画像として示されるようになった」と説明することである(174頁)。また、「科学的な方法としての人類学の模索において、映像はさまざまな「民族」の身体的特徴や行動を計測し、比較するために用いられてきた」と説明することである(196頁)。こうした説明は、映像をつくりだすことが私たちの常識を覆す力を生み出すことにもなっていることを教えてくれる。科学との関係で論じるということは、カメラが私たちの認識や思考と深く結びついていることへの気づきを与えることなのである。

 最後に、撮影された内容とアウラを結びつけるとはいかなることか。それはたとえば、スターやアイドルのように「映像のなかのバーチャルな他者に対して、一方的に憧れの感情を抱いたり、熱狂してしまったりする」ような「非対称な関係性」だと説明することである(218頁)。また、心霊写真や心霊ビデオなどを「すでに死んだ者を生と死の境を超えて生き返らせ、それを映像に定着しようとする試み」と説明することである(234頁)。こうした説明は、映像をつくりだすことが呪術的な作用を生み出すことにもなっているということを教えてくれる。アウラとの関係で論じるということは、実は私たちが憧れや恐怖といった不思議な感情にとりつかれていることへの気づきを与えることなのである。

 

 このように、本書は実に様々な気づきを読者に与えてくれる。読みながらいろいろなことを思い付いてしまい、ついつい黙っていられなくなる。だから、こういう本は一人で読むよりもみんなで読んだほうが楽しい。また、この書評では十分に紹介できなかった事例もたくさんあるので、ひとつひとつを舐めるように読んでほしい。

 気になった点を挙げておくと、「パーソナル化」というキーワードである。たしかにこれは現代社会を考える上で重要なキーワードであり、それぞれの事例においては説得的に述べられている。しかし、本書全体としてはパーソナル化が「アウラの凋落」とどんな関係にあるのかまでは読み取ることができなかった。デジタルメディアで多様性を肯定する個人化社会にベンヤミンが生きていたら、いったいどのような驚き方をするのであろうか。本書の次には、そういう本を読んでみたい。

 個人的に興味深かったのは、いくつかの章で「動き」の記録に注目している点である。一瞬であれ、連続であれ、動きの記録は映像をつくりだすことと深く関係している。そして映像になった動きにびっくりして大きな声を出したり、感動して何度も見直したり、時には真似をしたくなることもある。実は映像はこうした身体的な反応を私たちから誘い出す社会的な仕掛けになっているのではないか。このように考えると、ここ数年で歌手やコマーシャルの振り付けがやけに過剰になり、そのありえない動きを不器用に真似た動画をインターネットで数多く見かけるようになった理由も、少しはわかるような気がする。

 また本書と併せて読むのなら、『字幕とメディアの新展開』(青弓社、2016年)と『画像と知覚の哲学』(東信堂、2015年)の2冊を挙げたい。前者は映像を見るという経験が感覚のいかなる組み合わせであるのかをメディア論および障害福祉学の視点から検討しており、後者はそもそも「像」を結ぶという出来事がいかなることであるのかを現象学や分析哲学に即して検討している。無音で映像を見るという経験のあり方や、あるものが他でもなく何かに見えてくるという驚きは、それらの内実を具体的に検討することでわかってくる。

 考えてみれば、私たちは証明写真の表情がぎこちなくて友だちに見せられない時がある。また、友人との悪ふざけを撮影した映像がインターネットで拡散して社会問題になってしまう時がある。さらには、走り出す前に軽く動きをためる様子がアニメーションキャラクターのように見える時がある。こうした「あるある」をいくつも思い浮かべながら読み進められるところに、『映像文化の社会学』の刺激的な面白さはある。

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