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書斎の窓

自著を語る


『非伝統的金融政策――政策当事者としての視点』

東京大学大学院経済学研究科教授 宮尾龍蔵〔Miyao Ryuzo〕

宮尾龍蔵/著
四六判,252頁,
本体2,300円+税

 日銀審議委員を2015年3月に退任して2年近くが経過しました。

 この間、わが国の金融政策は、2016年にはいって急展開を見せました。1月末、日本銀行は「マイナス金利政策」を導入し、金融緩和のアクセルをさらに踏み込みました。しかし、その後状況が推移するなかで、7月末にはこれまでの緩和策に対する「総括的な検証」を行うと表明。9月下旬には枠組みを見直して「長短金利操作(イールドカーブ・コントロール)」を導入しました。日本銀行は「非伝統的金融政策」という未踏の領域の試みをさらに奥深く進めたのです。

 めまぐるしい進展を見せる日本の金融政策ですが、これまでの「異次元」と称される大胆な政策措置には実際どのような効果があったのか、少し立ち止まって考えることは重要です。

 実際、伝統的な政策手段である短期の政策金利(コールレート)は事実上ゼロ%の状態が20年以上も続いています。その間、日本銀行は、ゼロ金利を将来にわたり継続することを約束する「ゼロ金利政策」、資産買入れなどを通じてバランスシートを拡大する「量的緩和政策」、長期国債に加えて多様なリスク性資産の買入れも行う「包括緩和政策」など、非伝統的な金融政策を世界に先駆けて導入し発展させてきました。そうした取組みをさらに前進させたのが、2013年から始まった「量的・質的金融緩和政策」であり、2016年からの「マイナス金利政策」なのです。

 「非伝統」が「新たな伝統」となる――本書の帯にはこう記しました。非伝統的な金融政策の取組みは、日本に限らず、米国、欧州など主要先進国でも実施され、いまなお継続中です。現在の政策が「新たな伝統」になったとき、どのような世界が待ち受けているのでしょうか。懸念される副作用が顕在化して、経済の混迷を招いているでしょうか。それとも、「長期停滞」と称されるような低成長経済と歩調を合わせる形で、舵取りはうまく行われているでしょうか。

 そうした先行きを見通すうえでも、現在までの非伝統的金融政策の歩みを振り返り、その特徴と課題を整理し理解することは意味のあることと考えられます。

* * * * *

 では本書の内容を紹介しましょう。

 本書では、経済学のさまざまな知見をベースに、政策委員としての経験も踏まえながら、進化と論争の渦中にある非伝統的金融政策について、できる限り平易に解説していきます。5年間の回顧録というよりは、あくまでも経済学というツールに依拠して、現代の非伝統的金融政策が抱える特徴と課題を浮き彫りにしていくというのが本書の大きな狙いです。

 具体的に、本書で検討する問題は、次の5つです。

 

⑴非伝統的金融政策の効果に理論的メカニズムはあるのか

⑵非伝統的金融政策の効果に実証的証拠はあるのか

⑶2%物価安定目標は妥当なのか

⑷懸念すべき副作用は何か

⑸マイナス金利政策の影響は何か

 

 これらは、最後のマイナス金利政策を除くと、いずれも私自身が日本銀行で政策決定に携わっていたときに直面し、自問自答を続けていた問題です。2章以降これら5つの問題について順次検討していきます。それに先立つ1章では、非伝統的金融政策とは何かについて説明します。7章では、日銀での5年間を振り返りつつ、今後の展望を述べます。そして最後にあとがきでは、「ヘリコプターマネー政策」や9月に導入された「長短金利操作」の枠組みについても言及しています。

 本書で取り上げる問題はいずれも重い課題であり、本書によって論争に決着がつくというものでもありません。本書の考察や分析が契機となり、経済学という共通の土台のもとで、今後のさらなる建設的な政策論議につながればと考えています。

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 執筆後記として、いくつか述べたいと思います。

 まず1月末に決定されたマイナス金利政策についてです。この政策は、本書の執筆を本格化させたまさにそのタイミングで導入されました。

 「マイナス金利導入」の一報を聞いて、私自身も大変驚きました。かつて日本銀行在任中、厳密にはマイナス金利ではありませんが、同じ趣旨の政策――「付利金利(日銀当座預金に付与される利息)」を撤廃し0%とする提案――が金融政策決定会合で議論されたことがありました(2012年12月19・20日金融政策決定会合)。実際その提案は反対多数で否決されたのですが、当時から、付利金利を引き下げについては、金融機関収益への影響や資産買入れとの整合性などの問題が指摘されていました(詳しくは同決定会合の議事要旨を参照)。そうした経緯もあり、私自身、付利金利の撤廃やマイナス金利政策は、将来的な政策オプションとしてありえても、実際に導入するのはかなり先の話だろうと認識していたのです。

 しかし、私にとって、より大きなサプライズだったのは、金融市場の反応です。マイナス金利の導入によって金利体系が全般に低下し、長期債・超長期債の利回りまで大きく低下しました。10年債利回りがマイナスになるまで低下したのは驚きでしたが、方向としては理論が示す通りの反応です。しかしその一方で、株価や為替レートに対しては期待された反応が見られず、株価の低迷は続き、ドル/円レートも円高基調のままで推移しました。「今後、必要な場合、さらに金利を引き下げる」と対外公表文にわざわざ明記し、将来のマイナス金利深掘りに対する並々ならぬ意欲を示したにもかかわらず、その決意は株式市場や為替市場には伝わらなかったのです。

 もちろん、当時のグローバルなリスク回避姿勢の強まりや米国金融当局による牽制発言など、政策効果を減殺する要因が作用していたと思われます。仮にマイナス金利政策を導入していなければ、さらなる株安、円高に見舞われていたかもしれません。しかし、リスクフリーの長期国債利回りがあれだけ大幅に低下したにもかかわらず、株式市場や為替市場が反応しなかったのは、私にとっては、正直大きな驚きであり、謎であったのです。

 そうした金融市場の反応とともに、金融機関の反発や預金金利のマイナス化への人々の不安など、世の中の受け止めも厳しいものでした。私が当時面会した海外の金融市場関係者からも否定的な声が数多く聞かれました。そうした状況をみるにつけ、マイナス金利政策は、それまで実施してきた大規模な国債買入れ政策と比べて、何か基本的に異なるメカニズムが作用しているのではないか。その違いの源泉はどこにあるのか問い続けました。

 そうしてたどり着いた答えが、6章の議論「マイナス金利政策の影響」に要約されています。そのポイントを述べると、「資産市場の一般均衡モデル」と呼ばれる理論フレームワークを用いて、2つの政策が及ぼすメカニズムの違いを浮き彫りにしたという点です。国債買入れ政策の場合には貨幣供給が増えますが、マイナス金利政策では貨幣供給は増えずに国債への需要だけが高まるため、国債利回りは低下する一方、株価や為替レートはむしろ下落するという結果を示したのです。こうしたメカニズムの違いは、多少なりとも、現実の金融市場の動きに反映されているものと思われます。

 もう1点、本書の初稿を書き終えてから、大きな進展がありました。それは、7月末の金融政策決定会合にて、マイナス金利政策を含めてこれまでの緩和政策の「総括的な検証」を次回決定会合で行うと公表されたことです。

 マイナス金利政策に関しては、いま述べた理論メカニズムや金融機関収益への影響などの問題を6章で列挙し、続く7章では、今後枠組みを見直す場合には、マイナス金利政策の方の修正を十分考慮すべきというトーンで議論しました。

 しかし、日本銀行による7月末の発表により、9月の政策決定会合において新たな政策対応や政策枠組みの見直しまでもが行われる可能性が浮上したのです。9月会合の開催日は9月20・21日であり、本書の校了予定日の直前でした。何らかの動きがあった場合には、急遽「あとがき」にコメントを追加することになったのです。

 結果、これまでの枠組みが見直され、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」がスタートしました。新しい枠組みの評価はこれからですが、金融政策の操作目標を、これまでのマネタリーベースから長期金利と短期金利へと変更し、同時にこれまでのマネタリーベースの拡大と資産買入れ方針は当面維持することも表明されました。

 「金利」を金融調節方針とする一方、「量」に関してもこれまで通り拡大する方針で、一見するとわかりづらいのですが、これにより緩和政策の持続性と柔軟性が高まったのは事実です。粘り強く金融緩和スタンスを続けることで、経済の回復をより長期的にサポートすることが可能となります。これまで効果を発揮してきたとみられる資産買入れとマネタリーベースの拡大も維持されることから、「金融引締めへ転じた」と誤解されるリスクもこれまでのところ抑制されているようです。校了日に間に合ったため、そうした趣旨の暫定的な評価を「あとがき」に盛り込むことができました。

* * * * *

 今後の日本経済は、デフレ脱却を確実なものとし、2%物価安定目標の実現に向かって着実に歩んでいけるのでしょうか。

 現在、大学で「日本経済」の講義を担当しています。消費税増税以降、消費の伸び悩みが続いており、景気回復の重石となっています。その理由を学生に尋ねたところ、「将来に対する悲観・不安」を挙げる回答が少なくありませんでした。今の大学3・4年生は、生まれてこの方事実上のゼロ金利しか知らないデフレ世代です。人口減少、巨額の政府債務などの重い課題に正面から向き合う世代でもあり、そうした回答もうなずけます。

 一方で、日本経済が持つ強みを理解することも重要です。日本は引き続き世界第1位の対外債権国であり、何かショックが発生してリスク回避が強まると、安全通貨として円が需要されます。将来への不安や不確実性から貯蓄が増えることは、景気回復の面ではマイナスですが、経常収支の黒字基調を維持するという面ではプラスとなります。経常収支の黒字が続けば、対外純資産はさらに増えていくことになり、たとえ政府部門が大幅な赤字であっても、日本経済全体への信認は維持されるでしょう。

 わが国の非伝統的金融政策は、持久戦も見据えた枠組みに見直されました。そうした中で、日本経済の持続可能性をさらに高めていくには、財政政策や構造政策のあり方がこれまで以上に重要です。金融政策単独ではなく、経済の実力を高めるためのマクロ経済政策全体のあり方が問われているのです。

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