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書斎の窓

鼎談

法学教育・法学の方法・法学部

――『法学入門』(有斐閣ストゥディア)をもとに考える(下)

立教大学法学部教授 早川吉尚〔Hayakawa Yoshihisa〕

立教大学法学部教授 瀧川裕英〔Takikawa Hirohide〕

東北大学大学院法学研究科教授 森田果〔Morita Hatsuru〕

早川吉尚/著
A5判,192頁,
本体1,800円+税

「立法論」と「解釈論」

瀧川 とすると、この本は、従来の法学が基本的に「法解釈論」中心だったのに対して、法を立法するような局面を考慮しようとすると、どうしてもコストを考えざるを得ないので、そこを伝えようとしている。法を変えていかなければいけない時代に合った「法学」という趣旨なのですか。

早川 「立法論」と「解釈論」の違いについては非常に曖昧なところがありますね。

森田 「立法論」と「解釈論」は、一般的には違うと言われますが、私はあまり違うとは思っていません。

 例えば、民法の条文の解釈をするときに、「利益衡量」をすることがありますが、これも経済分析をある意味「雑に」やっているだけのものと見ることができるかもしれません。本当は、もう少し緻密にモデルを作って、「こういうルールだとこういう効果が発生するからこういうルールがいいのだ」ということを明確に考えたほうがよい。そのように考えると、ルールの目的や前提は何なのかというのを明らかにして議論しなければいけなくなってくるし、そうすると議論の決着がわりと付きやすくなる。もちろんこういったモデルの分析の際には、複数のモデルの組み方が当然あり得て、最終的にはどれが正しいかをデータで示すしかないわけですが、ともあれそこまでは論点が明らかになる。そこまで論点を明らかにするためには、「解釈論」の中でも目的は何かを明確化し、前提のモデル化などもして、特定のメソッドに依拠して分析したほうが、よりわかりやすくなるのではないか。その意味で、この本で書かれているような視点を持つことは、従来の「解釈論」の中でも十分役立つと私は思います。

瀧川 ただ、先ほどの「ウシ」と「ウマ」で話すと、「ウシ」と「ウマ」を区別する、何かルールで区別する。その区別する趣旨は何だ。ここまでは「解釈論」でも考える。しかし、そこから更に、「ウシ」と「ウマ」を区別することは社会が追求すべき目的なのかを考えるところは「立法論」。「そもそも「ウシ」と「ウマ」という二分法をやめましょう」というところについては、「解釈論」というのはそこまで考えないので、限界がある。その意味では違いますよね。

早川 確かに。その意味では、本書においても第四章の中に「解釈論」と「立法論」の違いについての説明を置いています。

法学の分析は「雑」?――「雑」ではいけないのか

早川 ところで、「経済学」でやっているようなことを法学の「利益衡量」では雑にやっているだけという森田さんの指摘ですが、私も全く同じ印象を持っています。なぜ雑なのかというと、1つは方法論としてきっちりと確立していないという点、もう1つは、数式などの揺らぎのないものを使わないで、言語によってそれをやっているので、言語の抽象性によって揺らぎが当然出てきてしまうのです。同じような分析をしているのに違う結論に至ってしまっているのは、多分、その揺らぎを使って自分に都合のいい結論の方へ持っていっている面があるからだと思っています。

 しかし、ではなぜ「法学」ではそうなのかというと、多分、「裁判」においては、限られた期間内に決着を付けなければいけない。「経済学」の論文の執筆には無限に時間をかけてもかまわないかもしれないが、「裁判」では、2年間あるいは1年間で結論に達しなければいけないということがある。そのときに、真実に完全に合っているかどうかは自信はないが、大きくは間違えてはいないところまでみんなで何とかやって、その期間内にはちゃんと答えを出すことができる、ある種の大きな装置として「法学」は存在してきたように思えます。その雑さは、もともと「法学」というものが持っている運命みたいなものなのではないかと思います。

 でも、そういうのを自分の研究としてやっていると、すごく歯がゆくて、正直、これ以上、こんな雑な形での分析はできないなと思っています。しかし他方で、1年目の学生たちが最初にやらなければいけないのは、そんなにギリギリしたものでなくても構わないのではないか。雑な形でも、いろいろなシミュレーションをしたりするのは、すごく勉強になると思います。社会の中の現象への対応にはみんな期限があるので、その期限内において、100パーセント正しいかは分かりませんが、そんなに間違えていない結論をみんなで出すための教育システムとしては、すごく役に立つものではないかと思っています。

 今の学生たちのニーズにマッチするような「法学教育」を提供できないかというところから執筆しましたが、その結果、従来の「法学」との対比においていろいろな所が逸脱している本であるというように思えてきました。その逸脱が、「法学」に対する懐疑性として瀧川さんからは見えるし、逸脱し切っている人から見ると(笑)、まだ足りない、全然足りないと見えるのかなと思っています。

森田 法学の意義の1つに能力に制約のある裁判官に思考経済のツールを与えることがあるのは、その通りだと思います。

過渡期の『法学入門』

瀧川 今の早川さんの話の最後で、今までの「法学」を少し越えていくという話があったのですが、私は本書を読んでいて、過渡期のものとして出されているような感じがしました。新しいこれからの時代に合った「法学」というものを学生に伝えたいという思いが一方でありつつ、他方で、今までの「法学」にかなり引きずられている面があるように思えます。

 例えば、第5章で「法学の分野」という話が出てくるのですが、これは法的思考力を鍛えようという話からすると、正直、要らないですよね。

早川 先ほど言おうと思ったのですが、「法的知識」の方に従来の法学が偏りすぎがちなので、「これには限界があって、『法的思考力』というのは大事ですよ」とあえて言っている面があります。しかし他方で、「六法を引こう」というコーナーもあって、実際に事例を見ながら、例えば、民法95条と電子消費者契約法2条の関係を考えさせるみたいなこともやっているのです。その意味では「ぬえ」的なところがあって、「法的知識」も所々に顔を出すのです。その意味で、第五章の「法学の分野」は、「法学入門」で求められていることの1つに、これから学生が専門科目を選んでいく過程での導線としての役割があると考えていたので、これを設けました。

 ただ、結構面白いのは、学生はここをすごく真剣に聞いています。1年目の学生には、将来どうしようかと漠然と考えている人が多いのですが、民法・刑法まではさすがにイメージが湧きます。しかし、その先だと全然イメージが湧かないので、「最近こういうニュースがありましたね」みたいな話と絡めて、「独占禁止法とか経済法というのはね」と説明すると、みんな結構目をキラキラさせて聞いています。おっしゃるとおり、そのために方針が統一されていない感があるかもしれませんが、『法学入門』という本における「入門」という要素としては、必要な情報ではあるかなと思います。

 それから、先ほどの「法的思考力」、「法的コミュニケーション能力」という言葉がしっかり定義されていないという点については、そうした批判を他の人からも言われたことがあります。そもそも「法的」と付ける必要があるのかという批判ですが、そこがこの教科書の限界で、何だかんだ言って「法学」をディフェンドしているのです。「法学」はいいですよって(笑)。

森田 そこは楽観を入れ過ぎ(笑)。

早川 もしかしたら「論理的」という言葉と言い換えられるかもしれませんが、そう言わないで「法的」と言うところで、ある種、学生をちょっと騙しているのかもしれませんね(笑)。もう少し勉強してみると「これって法学だけじゃねえじゃん」ということに気が付くかもしれませんね(笑)。

学生のニーズと法学教育

早川 ただ、「法学部」できちんと学ぶと、この種の「思考力」が鍛えられるのは確かです。演習とか授業の中で、ぐちゃぐちゃな事実関係の判例を読んで、自分なりに分析したり分類したりする。そういう力はやらないと身に付かない。

 「コミュニケーション能力」については、10年以上前からこの言葉を使っていましたが、もしかしたら「法学」で初めてこの言葉を使ったのかもしれません。当時、他の人から、「コミュニケーションなんて誰でもできるのだから、能力も何もないだろう」と言われたものです(笑)。でも、最近「コミュ力」という言葉が流行り出したではありませんか。そのため自分の言葉のセンスを自画自賛しているのですが(笑)、コミュニケーションというのは本当は難しいですね。しかも、それを論理立てて行うことは。ディベートとかディスカッション、プレゼンテーションをするためにも重要な能力だと思います。

 ある種の要件みたいなものが与えられている際、複雑な事実関係をそれとの関係で自分で整理した上で、ポイントを絞って話すというのは、やはり訓練しないとできないことだと思います。そのための素材として、「法学部」で扱っているマテリアルは、まさに格好のものだと思うのです。だから、学生には「君たちはちゃんとやれば、ものすごく力が付くのだ。それは社会に出てから、どこへ行っても役に立つよ。ただし、真面目にやれば」と言っているのですが。それも限界がありますかね(笑)。

森田 「法学」以外の人に説明する際と、「法学」の中で説明する際では、様式が違うかもしれません。一般人に対して「法学」的な議論をすると、「法律家は悪しき隣人」と昔から言いますが、こいつは何を言っているのだというようになってしまいかねない。一般人に話すときは、先ほど言ったように「why」のほうが理解しやすい。私は妻に話すときは、必ず「why」から話すようにしているのですが、そうすると「分かった」と言ってくれることが多いのです。

早川 でも、私の言う「法学」には「why」も当然に入っているので、私の言う「法的コミュニケーション」にも「why」が入るから、そういう意味では実は違いはないわけです。

 もう1つ、「法的思考力や法的コミュニケーション能力は万能か」というコラムも設けているのですが、そこでは、夫婦喧嘩で「法的コミュニケーション」を使ってはいけないといっています(笑)。「悪しき隣人」にならないように(笑)。要は、TPOに合わせてコミュニケーションをとらなくてはいけない。夫婦喧嘩は極端な例ですが、そこまでいかなくても、整理された議論をする過程でも相手の分野によって作法があって、その作法のずれみたいなものに気が付かないで「法的」というところだけに執着してしまうと、逆に問題を抱えてしまうということですよね。

森田 私が高校生に対しては「why」、こういうルールを作ると社会が変わりますよみたいな話を先ほどしているのは、そちらのほうが高校生にはわかりやすくて受けるから、そのように話をしたりするのであって。

早川 でも、繰り返しになるのですが、「why」を入れている「法的コミュニケーション」ですよね。

森田 オーディエンスによってしゃべり方は違ってきますから。

早川 今の話はすごく面白くて、瀧川さんがおっしゃっていた、何で、回転寿司の回り方が「法学」なのかという話に戻るのですが、確かに「法学」と付けなくてもいいのかもしれません。ただ、そうした面白い素材は訓練のためにはすごく大事なもので、そのようにいろいろなレベルのものについて、いろいろな形で分析したり、理由を考えたり、議論したりしていくという過程で、ガチガチの要件・効果で考えるみたいな思考から「法学」の方を解き放せると思うのです。それは瀧川さんからすると、「法学」から逸脱していますよねという話になるのかもしれませんし、森田さんから言うと、当然のことをやっているけれども、それは「法学」と呼ぶかどうかはまた別の話ということになるのかもしれません。

 いずれにしても、目指したのは、今の学生にとってのニーズは何なのかということを考えた上で、あまり「法学」の語義は何かとかいうことにとらわれずに、実践的にいろいろなことをぶち込んで、みんなの頭を柔らかくしつつ、でも、「法学」のエッセンスはしっかり修得させるということでした。その過程で、「法的知識」もちょっとずつ教えて、この辺まで持っていけばいいかなというところで、先に送り出すという。その意味では「ぬえ」的ですが。

法的コミュニケーションに使えるもの・使ってはいけないもの

瀧川 その「法的コミュニケーション能力」について、論理的に思考を積み上げて、それを他者に対して示すとか、他者に対して説得するとか、は非常に重要な要素だとは思います。

 一方で、法的思考力は、私はどう生きればいいかという倫理的な問いを立てて自分で考えていくのとは違っている。他方で、紛争のように意見が対立しているときに、意見が違う人に対して説得するというのが「法」の課題ですが、それは単なる説得の術や「コミュニケーション能力」とも違う。

 この点はもう少し強調してもいいように思います。説得といっても、そのやり方にはいろいろある。例えば、データを見せるとか、理詰めでいくとか、あるいは泣き落としとかです。このうち、「法的コミュニケーション」では使っていけない手法があるはずです。そうだとすると、どのような説得やコミュニケーションの手法は使ってよいのか、なぜそれはよいのかということを突き詰めていくと、「法学」に固有のものを示すことができるように私には思えます。

早川 そこまで私が書けなかったのは、自分の中で突き詰められていないというのが1つ。そして、「法学」において本当にそのことを突き詰めることができるのかという疑問があったのがもう1つです。それらは同じことなのかもしれないのですが、「法学」ではいろいろな正当化手法を使いますよね。歴史、比較法、過去の先例、他に同じことを言っている人がいるとか、いろいろなことをやって。見方によれば、自分に都合のいいところだけを散りばめてやっていて、ある時には沿革をすごく重視する人が、別の論点だと「沿革はともかくドイツでは……」みたいなことを言ったりするので、どっちなんだとか思ったりすることが多々あるわけですよね。

 そうすると、結局はTPOに合わせて、一番相手を説得できそうなものを、うまく並べているだけなのではないかという疑念もわいてくるわけです。本当に「法学」が相手を説得する道具として確立したものを持っているのかなという疑念があります。

「法服」も法的コミュニケーションの道具なのか

早川 加えて、今日、私と瀧川さんはスーツを着てネクタイをしていますが、他方で、森田さんは経済学者っぽい格好で、カジュアルシャツにスニーカーでジーパンという感じなのですが、これにはすごく前から不思議に思っていて、「法学」の学会というのはみんなきちっとした格好をしてくるのに、「経済学」だとTシャツ率のほうが多い。そっちのほうが格好いいみたいな感じがあって。

森田 一番ひどいのは数学とかです。

早川 そうですね。あれは、「法学」というのは、エスタブリッシュメントとしての自分たちの服装、法服などで代表されるものだと思うのですが、そういうものも含めて説得の材料に使っているのではないかというような感じもあるのです。そうすると、服装も、先ほど瀧川さんがおっしゃったような道具のようなものなのではないか。「法学」も、実はそのダイナミズムを精察すると、すごく卑俗なものを相手への説得の道具として使っているようにも思えて、ここを掘り出すと実はものすごく危険な領域に行ってしまうのではないかという心配があるのですが、どうですか。

瀧川 まさに「リアリズム法学」ですね。それはルールについて非常に懐疑的な立場です。理解できなくはないですが、現状の「法的」ルールというのはそのようなものなのか、たまたま恣意的に決めたものでしかないのか……

早川 恣意的なものだとまでは言っていないのです。「そんなに間違えていない結論」に至ったけれども、「そんなに間違えていない結論」にも必ず誰か反対する人はいて、そういう人も一応、黙らせないと秩序は回っていかないので、その人を黙らせるためにはいろいろな道具を使っていて、その道具の中には権威立てしている鬘だとか、法衣だとか、あるいは裁判所のおごそかな雰囲気だとか、いろいろなものを総動員して使っているなと思っているのです。ですので、どこまでをピュアに評価に値する「法学」固有の方法論として位置付けていいのか、私には全然分析する自信がなくて、むしろ「法学」のダークな部分をあぶり出してしまうのではないか。だから、「リアリズム法学」ですよね。そんな気分すらしていたのです。だから、「法学」を更に外側から見ると、ものすごくドロドロしたものもあるのではないかと思っています。それを「法学」固有なものは何かと突き詰めていくと、本当に真面目に分析していったら無視できなくなってしまうというような意識があるのです。それはとても『法学入門』としては書けなかったです(笑)。

法学部の目指すもの

瀧川 そうすると、結局、「法学入門」では何を教えたらいいというメッセージを送るのですか。

早川 私はやはり、「法的知識」についてぎりぎり詰めても、将来になかなか繋がっていかないから、どちらかというと、議論の作法とか、分析の作法とか、プレゼンテーションの作法とか、そういったことを「法」というマテリアルを通じて高めてもらったほうが、今現在の学部生についてはいいのではないかと思っています。

 現在、立教でも文系学部の中で「法学部」より入試の偏差値が高いところが次々に出てきています。「異文化コミュニケーション」とか、英語での授業が中心の「国際経営」とかです。時代がもう「法学部」を追い越していっているので、そういったグローバル化に対応するための要素もどんどん入れなくてはいけない。そうすると、ますます「狭い意味での法学」、「法的知識」の修得は、時間的な制約との関係で、あるいはエネルギーの限界との関係で、小さくならざるを得ません。そうすると、どうしても我々がもうここだけは是非教えたい、10年経っても大きくは変わらないから、ここはしっかり学んでほしいというところは「法的知識」として教えるとしても、それ以外は、むしろ法律とか判例とかを1つのマテリアルとして、私の言うところの「法的思考力」とか、「法的コミュニケーション能力」を高めるようなものをやってほしい。

 その意味で、興味、関心を持ってもらうことが大事だから、各科目についてのダイジェスト的な紹介みたいなところも用意しているわけです。また、どの分野にいっても必要な基本的な知識みたいなことは、最低限伝える。だから、ホップ、ステップ、ジャンプのホップのところをやっているが、ステップ、ジャンプまで行ってほしいところはどこなのかというと、そこは多分、この本で目指している「法学」は、旧来の「法学」が目指しているところを逸脱していると思うのです。「why」を問うということが重要だということも含めて。

瀧川 話を聞いていると、今までの「法学部」での教え方でうまくいくのかという疑問が湧いてきます。今までの「法学部」のマスプロ授業は、「法的知識」を効率的に伝達する方法としては非常にうまくいっていました。少ないコストで多くの学生を教育できるという点では効率的ですが、逆に学生から見ると全然手間暇をかけてもらっていなくて、自分に何が身についたかよく分からない。その結果として、人気が落ちているところがあります。

早川 そうですね。

瀧川 「コミュニケーション能力」というのは、やはりコミュニケーションを実際にしていないとその力が身に付かないので、今までのような大人数講義中心のやり方は、すごく問題があることになりそうです。

早川 冒頭のところで森田さんがおっしゃいましたが、地頭が全てで、「法学教育」のやり方自体はあまり関係がないのではないかという意見については、そこまで悲観的ではなくて、やはり小人数教育をしていくとか、学生が自分で発言する機会とか、考える機会とかをどうやって与えていくかが重要だと思っています。

大講義での試みと学生の反応

早川 私は300人くらいを相手に、「法学入門」というのをやっているのですが、300人を相手にマイクを回して、大体1回につき30人くらい当てていくのです。そのマイクもいろいろな角度で、直線でやったり、斜めに当てたりとか、工夫をして、いつ当たるか分からないような状況にもっていくのです。その代わりに、アメリカのロースクールみたいに、絶対に貶さないで、何を言っても褒める。けど、最後には私にやり込められるみたいな感じで、次の人に行く。この本の中で学生とのやり取りの描写がありますけど、あれはまさに再現しているのです。ですので、このように、多少は人数が多くても議論ができるような感じにしたいと思っているのです。

 そうした授業でアンケート調査を取ると、面白いのは、授業のいい点としてみんな「当ててくれるところが良い」と書いています。最初は戸惑ったけど、自分以外の人が何を考えているのかを聞くのが楽しいというのです。また、何回もやっているうちに、自分ならどう答えるかを考えるようになると。だから、この手法はある程度機能しているのだなとは思うのです。でも、これをやると、「法的知識」を大量に注ぎ込むことはできないのです。だから、何を捨てて、何が必要なのかというメリハリをちゃんとしなければいけない。私は、レベルを落とさないでわかりやすく教えるにはどうするかということを常に考えているのですが、結局、口がモゴモゴしているとか、話し方が非常に遅いとか、逆に早いとかという人を除くと、やはり何が一番重要で、その次に重要なのは何で、その次は何でという、自分の専攻分野の中のヒエラルキーみたいなものがしっかりとわかっていて、どこまで教えればいいかというのを時間配分とかいろいろな関係で、ちゃんとできるかどうかですね。そこの目利きがないと、全部教えようとするから、学生は消化不良になるし、アップアップになってしまうと思っているのですよ。

 だから、本当に教えるべきものは何で、何を犠牲にしてもいいのかというところは、すごく気にしています。自分の専門の国際私法の授業をやるときも、私の教科書は、できるだけ要らない情報をそぎ落として作ったのですが、それでも、授業では情報としては更にその3分の1しか教えていないです。それ以上に欲しければロースクールで勉強してくれといっているわけです。

 ある他大学の先生が、こうした私の意見に全面的に賛成なのだけど、その場合、法科大学院の2年制コースに行きたい一部の学部生をどうするかが問題になる。それに、そっちのほうにターゲットを合わせたほうが教え方としてはやりやすい。だから、結局、そういうやり方を続けているのだけれども、これでいいとは思っていない、というふうなことを言っています。なかなかそこは悩ましいですよね。

 それでは、そろそろ時間ですので、最後に一言いただいて終了したいと思いますが、いかがでしょうか。

「法学部」教育の方向性は見えているか

森田 やはり、法曹に進まない人に「法学」がこれから何を教えていくべきなのか悩ましい問題だというのが、今日の座談会でよりはっきりしたなと。

瀧川 そうですね。人気が低下していると言われる中で、それでは「法学部」はどうしたらいいのかということについて、方向性は、多分、全然見えていない。

早川 本書でそれなりには示したのですが、山は険しいし、その方向性がいいかどうかも、当然、反論はあると思うのです。

瀧川 でも、1つの方向性であることは間違いないと思います。そうすると、今までの「法学教育」のやり方を、かなりドラスティックに、いろいろいじらないといけないということにはなりますよね。

早川 この方向性自身が、僕はいいと思っていますが、本当に100パーセントいいかどうかはよくわからない。ただ、そういう石を投げないと、永遠に変わらない。なので、やはり石を投げることは重要かなとは思いました。だから、この本を、実は、学生のために出したとはあまり思っていない。学生のためには、どちらかというと、この内容をテキスト無しでやっていたので、テキストがあってもなくても、実はあまり変わらないのです。

森田 テキストがあると、学生が答えを分かってしまう。話す内容を変えないと駄目ですね。

早川 本書に載せなかった、いろいろな別の問題があるのです。「ちゃんこ鍋と寄せ鍋の違い」とか、「自分で国語の試験問題を解いてみて自分たちで採点してみよう」とか。

 「自分で国語の試験問題を解いてみて自分たちで採点してみよう」では、採点の際に、みんな無意識に「要件化」を始めるのです。どの要素があると何点とか、字数制限をオーバーしていたらどうなるか、ゼロなのか、それとも減点なのかとか。句点はどういう扱いかとか、統一基準を作っていかないといけない。そういうことをやってみると、「要件」というのはなぜ重要なのかとか、それを体感させることができて、それが重要かなと思っているのです。そうすると次にいけるのです。単に頭の中だけで、「要件」とはこういうものです、終わり、はい、次にいきますというと、全然内面化されないままになっているような。

瀧川 それは確かにとても重要で、私が1年生を教えるときには、「つなげる」ということを重視しています。今まで知っていたものと未知のものがつながったときに初めて、「わかった」という感覚が生まれます。ですから、「わかる」という経験をしてもらうためには、知っていることと知らないことの接触ということが重要で、それを重視しています。

 「わかった」という感覚は、もう1つ、何かぐちゃぐちゃしていたものがきれいにスパッと「分かれる」ときにも感じられます。ですが、1年生は、そこまで知識が蓄積されていなくてそのレベルにはまだ達していないので、むしろ今まで知っていたものとつなげるほうが大切です。そのための素材として、本書で出てくる道路交通法などは、身近で適切な素材ですね。

早川 今ので面白いと思ったのは、問題を出しても、すぐに答えられない人が多いわけですよね。いっぱいヒントを出してあげると、ヒントを手掛かりにつなぐ人がいる。そのときに、絶対自分で発見させるようにするわけです。いっぱいヒントを出してもね。そして褒めると、その成功体験で、次も自分で探して考えようとする。人によっては幾らヒントを出しても全然たどり着けない人がいるのだけれども、そういうときにも、その人だけで10分ぐらい使って、何とか導いたり、どうしようもないときは、「じゃあ、この次の段落を読んでもらおうかな」とかと言う形で、何かポジティブな感じでコミットした体験を持たせて、次の機会にまた、という感じにしています。それでディスカレッジされることだけは絶対やめようと思っているのです。

 それと、スパッと分かれる「わかった」も、全くおっしゃるとおりで、1人で分析するのは難しい新聞記事なども、「君はどういう意見ですか。その意見に近い人は記事の中にいますか」というような感じでやっていく、つまり、全員で思考実験をやらせる。そうすると、自分自身も加担しながら、靄がクリアに分かれていくみたいなところを体験できる。動機付けなのでしょうけれども、それはすごく大事な教育手法ということになると思うのです。話すと、またどんどん違う話が出てきますね。これで打ち切らないと瀧川さんが次の予定に遅刻するので、この辺にしましょう(笑)。どうもありがとうございました。

(2016年4月29日収録)

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