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書斎の窓

自著を語る


民事訴訟法学への郷愁とささやかな希望

――『公共訴訟の救済法理』を執筆して

同志社大学法学部教授 川嶋四郎〔Kawashima Shiro〕

川嶋四郎/著
A5判,330頁,
本体7,000円+税

「一国の文化が繁栄するためには、その国民は統一されすぎてもまた分割されすぎてもいけないというのがこの試論においてわたくしが絶えず反復し来った論題でありました。」
T・S・エリオット『文化の定義のための覚書』より


1 「3つの民訴」時代への郷愁

 この春、『公共訴訟の救済法理』を有斐閣から上梓させていただいた。かつて日本の大規模な差止訴訟事件に関する「判決手続過程」と「強制執行過程」についてトータルに論じた『差止救済過程の近未来展望』を、2006年に日本評論社から開板させていただいたが、本書は、そこに至る知見とインスピレーションの多くを得た「アメリカ公共訴訟の救済過程」に関する様々な判例や学説等について、具体例を多数織り交ぜ手続過程に沿いながら詳しく論じ、日本法への展望をも示した学術書である。

 私の専門は民事訴訟法であるが、本書は、やや広い視野の下で筆者が取り組み続けてきた「新しい民事訴訟・執行過程の基本構造」(判断機関と執行機関の統合的連動的救済過程)の構築に関する試論を含んでいる。本書では、アメリカ法を素材として、私的な価値を起点とし公的価値の実現をも導く民事訴訟のもつ公的契機や、この種の集団的救済を志向する訴訟における当事者構造、および、多様な救済形成アプローチや救済実現アプローチについても詳しく論じている。

 今から40年近くも前になるだろうか。学問と教育の世界に憧れ、希望をもって上京したとき、精神的には自由であった。当時、まことしやかにある言説が囁かれていた。「日本には民事訴訟なるものが3つある」と。1つ目は、実定法である民事訴訟法典に描かれた民事訴訟であり、2つ目は、実際に裁判所で行われていた民事訴訟実務としての民事訴訟であり、3つ目は、民事訴訟法学者の世界で語られていた民事訴訟であった。たとえば、1つ目の民事訴訟は、活性化した口頭弁論での審理を手続の核心として準備し、2つ目の民事訴訟では、「三分間弁論の五月雨式審理」(口頭弁論は書面の交換を中心に3分ほどで終了し、間隔を開けた口頭弁論期日が繰り返される審理)に象徴されたように、口頭弁論は形骸化し、法規にない異形の手続である「和解兼弁論」(弁論兼和解:法廷外の小部屋で争点・証拠の整理をしながら和解的解決をも目指す非公開の手続)が繁用されていた。また、3つ目の民事訴訟法学の世界では、新訴訟物理論、争点効理論、そして証明責任論等が華やかに展開され、いわゆる「三期派」の議論(井上治典『民事手続論』29頁〔有斐閣、1993年〕参照)も展開されつつあった。

 「3つの民訴」なるものは、利用者疎外の象徴であり、学界批判をも含み、揶揄とも嘲笑とも自虐とも思われかねない表現ではあるものの、一学徒にとっては、むしろ研究や教育の可能性さえ感じられる言説であった。それは、「自由な研究」の展開に向けた想いを馳せることを許すものでもあった。今では郷愁を誘うが、「理想の民事訴訟とその規範の姿」を語り描く機会が開けていると考えられたからである。もちろん、法的救済を創出する動態的なプロセスこそ、民事紛争を抱える市民にとっての最後の最も公正な拠り所と考えたからでもある。

2 「アメリカ公共訴訟救済過程」のダイナミクス

 本書では、「公共訴訟の救済過程」に関する基本的な手続構造を解明し、新たな法的救済過程を提言することを目的とした。「公共訴訟」とは、当事者による訴訟活動のプロセスおよび結果が社会的な影響を及ぼす民事訴訟の形態をいい、その法的救済過程には、主として判決手続に相当する救済形成過程と執行手続に相当する救済実現過程が含まれる。公共訴訟事件は、その民事訴訟過程や判決・和解を通じて、法律上または事実上、社会的に広範な波及効を及ぼす可能性のある訴訟事件である。本書における公共訴訟事件の定義は、この程度の抽象的なレベルにとどめている。その訴訟過程とそこで考案され創造され実践されている様々な個別手続の姿こそ、知ってもらいたかったからである。

 この種の公共訴訟事件の訴訟物(訴訟対象)に着眼した場合には、損害賠償請求訴訟事件でもそのように呼べるものは存在する。ただ本書が主として念頭に置いて論じたのは、一定の作為不作為を求める大規模な差止訴訟事件であり、かつ、その主眼が、人格的利益等、究極的には「憲法価値」につながる人間存在の根源に関わるものの侵害からの法的救済を求める訴訟事件である。本書で示したかったのは、そのような最重要の個人の権利を具体的に保障するための様々な手続のアイデアと志なのである。利用者にとって望ましい選択肢の提示・説明とその自由な選択の保障こそが大切と考えるからである。

 アメリカでは、公民権運動の高揚期に、基本権の保障のために、裁判所が重要な役割を果たしてきた。その時期においては、単に、実体法の側面における実効的な基本権保障の拡大だけではなく、その保護の実現のために、まさに手続法の役割とその可能性の討究が極限まで押し進められた。それは、いわば手続法を総動員した法的救済活動であり、その時代、アメリカ法において、法的救済を志向した手続法は光彩を放っていた。裁判所が、人間の尊厳に関わる権利利益の保護実現のために大きな役割を果たし、新たな手続を考案したのであり、様々な規定、先例、そしてエクイティ権限を駆使して、個別事件の具体的な状況に即応する法的救済を創造し、それを強制的に実現していたのである。手続創造の賜物である。しかも、その個別手続は、原告、被告、訴訟参加人および裁判所のいわば協働的な合作ともいえる作品でもあり、未来に花開く法の果実でもあった。

3 「法のなかのエクイティなるもの」への憧憬

 このような法的救済過程の新たな展開は、実体法と手続法の汽水域をもカバーする「救済法」(Remedial Law)の爆発的な発展をもたらした(川嶋四郎『民事救済過程の展望的指針』1頁〔弘文堂、2006年〕参照)。それは、実体法の領域だけではなく、手続法の領域でも、民事訴訟法の可能性を極限にまで追い求める実践例の宝庫ともなった。ともすれば、実体法の領域の問題に収斂させて考察されかねない救済の問題は、仔細に見れば豊かな手続を生み出す源泉でもあった。そのような救済志向のダイナミックなプロセスの展開は、法体系が異なる海の向こうの別世界の出来事のように見られ、憲法や英米法の領域では紹介されてきたものの、日本民事訴訟法における救済過程へのトータルな示唆と具体的な解釈や制度の提言は、必ずしも十分になされてこなかった。しかし、このような問題意識と救済思考から、本書では、「法のなかのエクイティなるもの」(藤倉皓一郎「アメリカにおける裁判所の現代型訴訟への対応」石井紫郎=樋口範雄編『外から見た日本法』327頁〔東京大学出版会、1995年〕参照)の認識とその展開可能性の探究を行った。個別の憲法価値だけではなく、かけがえのないより基層的な「人格的価値」の保護プロセスともなり得る新たな「公共訴訟の救済法理」を構築すべきと考えたからである。

 そこで、アメリカにおける「救済志向の手続創造」とその「展開的な活用実践」に示唆を得て、日本における具体的な解釈論等を展開するために、本書では、アメリカ公共訴訟手続法を分析し評価することに努めた。当事者・訴訟参加人の要請や裁判官による大胆な手続創造等も織り交ぜた。それらは、日本における憲法上の基本権を中核とする公的利益を実効的に保障するための具体的な手続創造に示唆を与えるだけではなく、日本における多数当事者訴訟過程の手続構造への示唆にもつながると考えたからである。とりわけ、「将来志向の現実的救済」を探究し、その貫徹をサポートする受容可能な受け皿(プロセス)の提示である。金銭的救済がその中心を占める民事訴訟事件の処理過程で、近未来における差止救済の創造と実現を通じて、「かけがえのないもの」に目を向けた「現実的救済」を具体化する新たな法的救済過程を提言することを眼目としたのである。法律学の世界における「平等」と「公正」の探究と実践は、現在の日本においても喫緊の課題と考えたからである。現在では、たとえば、差別もハラスメントなるものも、ひいては被害あるいは権利侵害さえも、より隠微化・陰湿化しているからである。なお、本書では、訴訟上の和解についても、その和解消極論(反和解論)にも共感を覚えつつ、詳しく論じた。

4 「希望の民事訴訟法学」へ

 さて、2001年の『司法制度改革審議会意見書』は、現代日本司法に、大きな変革をもたらす契機となった。その数年前に大改正が加えられた民事訴訟法でさえ改正の洗礼を受けることを免れなかった。民事手続法の領域でも、それを契機として様々な新法が制定されまた法改正もなされたが、その意見書には、法科大学院における教育目的のキーワードとして「理論と実務の架橋」が挙げられていた。

 これは、民事訴訟法に即していえば、実務に根差し得る民事訴訟法学の構築を刺激する指針を示すだけではなく、学理の世界にも様々な影響を与える。日本的な風土では、ともすれば、研究者に委縮効果を生じさせ、実務の枠組に研究精神の自由を閉じ込めかねないとも考えられる。それは、実務の知見が学理に優先する傾向さえ生み出しかねない懸念でもある。「架橋」とは、S&G(サイモンとガーファンクル)の名曲を想起させるような美しい表現であるものの、「3つの民訴」の存在を許さない言明のようにみえる。とりわけ1つ目と2つ目の民訴の符合は市民にとって不可欠ではあるものの、3つ目の民事訴訟の探究可能性にも影響を与えかねないと思われるのである。確かに独善は許されないものの、ともすれば、自由な民事訴訟法学の気風が失われ、志をもった研究者を一定の閉塞空間に誘導しかねないのではないかという漠然とした危惧である。

 現在、先に述べた1つ目の民事訴訟と2つ目のそれは、「陳述書」(当事者や証人等の陳述を記載して裁判所に提出される書証)や「控訴審(特に、高等裁判所)の事後審的運営」(続審制の下での事後審的な実務運営)の実務(川嶋四郎『民事訴訟法』535頁と897頁〔日本評論社、2013年〕参照)を除きほぼ一致しており、3つ目の民事訴訟も、前二者に「回収」されつつあるようにも思われる。それは、利用者にとっての分かりやすさの視点からは望ましいことであると考えられるが、法的救済制度としての民事訴訟法の領域では、理論も実務も変わり続けなければならないと考える立場からはある種の桎梏ともなりかねないように思われる。枠内に収まる小ぢんまりとした思索の殻を破ることができるかという課題である。市民の視点からは、制度目的のより一層の実現に向けた継続的な変革は不可避であり、あるべき実務の構想を導く理想の理論の探究は、不断に続けられねばならないと考えるからである。上記意見書でさえも、21世紀の日本の司法を、国民の期待に応える制度とするため、「司法制度をより利用しやすく、分かりやすく、頼りがいのあるものとする」ことを標榜していた。この「より」という表現は、手続法の創造的展開を不断に期待する表現であろう。

 ともかく、教育・研究生活を始めて以来、私は、人々や社会のために多少とも役立ちつつ、研究者や学生たちと共に考えながら、ディーセンシー(decency)(佐藤義夫『オーウェル研究』〔彩流社、2003年〕参照)に満ちた世界で、できれば安らかな学びの生活を送ることができればと願っていた。学究生活は厳しかったが、試練は、「公共訴訟」についても同様である。それでも、「捨てる神あれば拾う神あり」は至言だと思う。アメリカ・ノースカロライナ大学での研究生活も忘れ難い。改めて日本やアメリカの多くの人々に心から感謝申し上げたい。

 そしてこのような状況でも、私は、若い学生・院生たちに自由な日本民事訴訟法学の価値を語り続けたいと心に期している。条文・原理原則・判例・通説を押さえつつも、それら自体の批判や再構築に、荒削りであれ大胆に切り込む批判精神を涵養することこそが、未来に向けた法的救済過程(私たちの手続過程)を再構築するために不可欠と考えるからである。研究者を目指す院生には、自由と平等を旨とし、比較法研究の重要性も伝えている。外国法は「出羽の守」にさえならなければ、知的刺激の源泉だからである。この「出羽の守」とは、上から目線で、たとえば「ドイツ法では」などと外国法を金科玉条の如く操る者をいい、それは、「豊前の守」のように、外国法など憮然として受け付けない者の対極に位置する。いずれも極端であり、私の水平的な救済観によれば、比喩的にはさしずめ「伊予の守」ならぬ「伊予の民」あたりが妥当であろうか。この外国法の研究はいいよと、学究仲間の一市民として同じ目線で語り合いたいからである。ともあれ、大学でも、自由な学風の維持に努めているが、学徒たちには、「小さな完成よりも、あなたの孕んでいる未完成の方が、はるかに大きなものがあることを、忘れてはならないと思う」という石坂洋次郎の言葉(『若い人』より)を贈りたい。

 なお、最初に挙げた詩人エリオットの言葉を借りれば、一国の民事訴訟・民事訴訟法学が繁栄するためには、民事訴訟法学は統一されすぎてもまた分割されすぎてもいけないと思う。多様な議論の共生およびそれを可能とするプロセスが保障されて「はじめて単に一種の闘争、嫉視、恐怖のみが他のすべてを支配するという危険から脱却することが可能となる」(T・S・エリオット『エリオット全集5』290頁〔中央公論社、1971年〕)からである。時間はかかったが、本書を通じて紡ぐことができた民事訴訟法についての「未来の物語」(ニュアンスは逆であるが、S・アレクシエービッチ『チェルノブイリの祈り』〔岩波書店、2011年〕による)を、これからの「民事訴訟法学へのささやかな希望」につなげて行ければと願っている。

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