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書斎の窓

自著を語る


『計画の創発

――サンシャイン計画と太陽光発電

一橋大学大学院商学研究科教授 島本実〔Shimamoto Minoru〕

島本実/著
A5判,420頁,
本体5,000円+税

1 本書の視座

 有斐閣から一昨年秋に刊行された著書『計画の創発――サンシャイン計画と太陽光発電』が、幸いなことに、このたび第58回日経・経済図書文化賞をいただくことができた。本書は、日本の再生可能エネルギー開発の国家プロジェクトの歴史を描いたものであり、同一の歴史が3つの異なる視点からのケーススタディとして描かれる。そのことによって、太陽光発電の技術研究開発が一次資料に基づいて詳細に記述されていくのと同時に、経営組織論や組織社会学の理論的フレームワークによって、いかに同じ現実が異なる様相で切り取られうるのかが明らかにされる。そこが本書がユニークと自負している点である。今回『書斎の窓』への執筆の機会をいただいたことを感謝しつつ、本書における研究の方法や筆者の主張を紹介したい。

 東日本大震災以後、政府は高い目標を掲げて再生エネルギーの導入普及に努めている。経済産業省は、2030年の日本のエネルギーミックスにおいて、再生エネルギーの電源比率22〜24%を目標に掲げている。そのためには太陽光発電、風力発電、地熱発電等において、現在と比較して約3倍程度の発電量の拡大が必要となる。その実現のためにはどういった方策が有効であろうか。もちろんそのためには、フィード・イン・タリフ制度等の適切なインセンティブを付与する政策が重要であることは言を俟たない。また同時に、さらに優れた性能を実現するための技術的イノベーションへの支援も不可欠である。しかしながら新技術の開発・実用化は、政府が予算を付与するだけで自動的に進むものではない。

 実は、今をさかのぼること約40年前の第一次石油危機の際に、すでに日本では再生エネルギー開発の壮大な国家プロジェクトが存在していた。それがサンシャイン計画である。本書は、太陽光発電の国家プロジェクトの歴史の検討を通じて、成果の上がるイノベーション政策や研究開発管理に対して知見を与えようとするものである。

2 国家プロジェクトを複眼で見る

 本書はこの国家プロジェクトの歴史と組織を、複眼的な視点から明らかにすることを目的としている。まず第1章で本研究の問題意識を明らかにし、第2章でサンシャイン計画の全体像を説明した後、具体的なケースの記述が始まる。

 第1のケース(第3章)では、サンシャイン計画の歴史が技術的合理性の観点から記述される。そこからは主に太陽光発電システムの技術開発の過程を題材に、行政官や企業人たちが有望な技術を選択し、共同でその技術開発に努めたプロセスが記述されていく。残念ながら1980年代中期に石油価格が低下してしまったので、結果的に再生エネルギーの導入目標は達成できなかったが、それでも太陽光発電は現在かなりの程度普及した。このケースはこうした美しい物語として描かれる。

 視点の転換Ⅰ(第4章)では、第1のケースが合理モデルという発想に準拠しており、政策担当者や企業関係者の合理的判断能力が過度に強調されていたことが指摘される。その視点ゆえに、技術開発の成功はその成果であり、また導入目標の未達成は想定外の外部要因の変化であると解釈されることになった。しかしながら、この視点ではうまく説明できない現象が計画には数多く存在していた。

 第2のケース(第5章)では、視点を転換して計画の歴史が組織的合法性の観点から記述されていく。組織や制度には慣性が働くので、ルーティンに沿って手続き通りに物事を進めることで計画を持続させようとして、多くの奇妙なことが起きたことがわかる。例えばサンシャイン計画で最も多くの予算が費やされたテーマは太陽ではなく石炭関係であった。技術開発の成功可能性というよりは、税制上の理由で予算的に確保しやすいテーマが選ばれたのである。結局、計画は導入目標を達成できないまま長期間存続し続けた。このケースでは、計画の不都合な裏面が暴かれる。

 視点の転換Ⅱ(第6章)では、第2のケースが自然体系モデルという発想に従っており、組織の存続に向けての合法性の確保が、技術的な合理性とは一致しない状況で計画を持続させたことが指摘される。技術開発が成功しそうにないテーマも長く存続し続けたことを考えれば、導入目標の未達成も必然の結果であるということになる。しかしながら、この視点ではなぜ計画の渦中の人々がそのような行動を採ったのかということが説明されない。

 第3のケース(第7章)では、再度、視点を転換して今度は計画の歴史が社会的合意のプロセスの観点から記述される。ここではインタビューや当時の一次資料に基づいて、計画に参画した個々人のその時々の意味の世界が明らかにされていく。そこには、政策を何とか成立させ、自分の技術に予算を得ようとして組織や社会にアピールする人々の生身の世界が見えてくる。自らの技術の将来性を信じて、危険な橋を渡ることをいとわない企業人や研究者の呉越同舟の相互作用が、ボトムアップ的に計画を作り上げてきたことが明らかにされていく。そうしたところにこそ、計画を創発させるアントレプレナーたちがいたのである。『計画の創発』という本書のタイトルは、そうした国家プロジェクトの歴史の実像を指している。

3 合理・自然体系・社会構築

 本書の結論部分(第8章)では、以上のような3つのケースがそれぞれ、合理モデル、自然体系モデル、社会構築モデルに基づくという全体像が示される。ここでの試論は、それらがそれぞれ物理現象の合理的因果関係、有機的システムの機能的再生産、社会現象の意味世界に対応しており、それらが段階的に複雑化するシステムの階層の一部として位置づけられるということにある。これまでの経営学・社会科学においては、できるかぎり単純なレベルで社会現象を説明することこそ、社会現象の予測や制御という点で実用的であるとされてきた。例えば、経営組織に関して、その成員たちの意味世界を全く考えなくても物理現象のように作動を予測し、理想的な目的に向けて制御できる術が発見されるならば、それは実用的なマネジリアル・インプリケーションをもつということになる。そうなればプロジェクトマネジメントにおいても工学的発想の延長で組織を扱うことができるだろう。しかしながら、そうした研究はどこかで暗黙のうちに、人間や社会の意味世界に対する理解を不要だと考えることを促す傾向をもっている。組織論における人間関係論やエスノグラフィーの発展は、それへの反旗であったはずである。

 そこで歴史上1回だけ生起した現象に対しても、あえて複数の理論的分析枠組みから説明を与えようとすることによって、見えてくる視野は広がる。自らで複数の対立仮説を構築し、それらを競わせることは、あたかも複数の方向から光を当てて物体を観察するがごとき試みである。実はそのことこそが、歴史研究と理論研究を架橋する有効な方策となる。本書はそれを試みたものである。

4 技術開発をめぐる官僚制と民主主義

 察しの良い読者はすでにお気づきの通り、本書で用いられている分析の手法は政治学の古典であるG・アリソンの『決定の本質︱︱キューバ・ミサイル危機の分析』(中央公論社、1977年)に大きなヒントを得ている。その点ではこの研究は、若き日にアリソンに出会った衝撃から始まったと言ってもよい。アリソンは、同作品においてキューバ危機を古典モデル、組織モデル、官僚政治モデルという3つの視点から分類した。しかしながらアリソンのキューバ危機の分析は、よく読めばわかるとおり厳密に言えば全てがケーススタディなのではなく、モデルによっては推察された要因が並べられているに過ぎない。また3モデル相互の関係に対しても明らかにされていない。そこで3モデルというアイデアはアリソンから借り受けつつも、モデルの解像度の違い(マクロ、メソ、ミクロ)を設定して、マクロからミクロの方向に分析を進めていくことを試みた。顕微鏡で解像度を変えれば、同じ物質でも異なる像を見せるがごとく、解像度が変わることによって、同じ社会現象も異なるリアリティーを見せることになる。

 第1ケースでは最もマクロな立場から、合理的、合目的的な技術開発のマネジメントの様子が記述される。ここでは優れた計画担当者が最善を尽くして計画を策定し、遂行したという公式史に近い記述が行われる。

 第2ケースは、それよりは一段と解像度を上げ、組織の自律的動きや制度存続のレジティマシーが計画を規定する様子が記述される。ここでは新制度派組織論や社会システム論が想定されている。人々は自らの行為の意味を常に反省的に意識に上らせていない。行為の意味は、どのような行為がそれに連鎖するかによって後から決定される。計画を存続させるための当然の手順の遂行が、ときに、皮肉にも計画の公式の目的を妨害する。

 第3ケースでは、さらに解像度を上げ、計画に参画した個人のミクロレベルでの意味創出のポリティクスが描写される。そこではより積極的に自らの信じる意味を他者に示し、討議によって他者を説得しようとする人々の営みが存在していた。実際の大規模組織における意思決定に際しては、討議のための十全な時間や機会は用意されていないかもしれないが、それでもしばしばボトムアップ的なビジョンの提示と共有が組織的意思決定の岐路で大きな役割を果たす。

 この問題の背後には、社会計画の成功をめぐって、技術論(第1ケース)、官僚制(第2ケース)、民主主義(第3ケース)が不可分なかたちで存在しており、現在に生きる私たちはこれらの問題を単独の問題として片付けることができないという認識がある。とくに官僚制と民主主義については、ハバーマスとルーマンの論争(『批判理論と社会システム理論』木鐸社、1984年)を座右に置きつつ書き進めた。この背後には、現代の大規模な技術開発プロジェクトにおける官僚制と民主主義のせめぎあいの中で、アントレプレナーシップあるいはステーツマンシップがいかに可能かという問いが控えている。ここにはまだ汲み尽くせぬアイデアの泉がある。

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