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書斎の窓

連載


新世代法学部教育の実践

――今、日本の法学教育に求められるもの

第2回 大教室双方向授業

武蔵野大学法学部教授・法学部長 池田真朗〔Ikeda Masao〕

1 プロローグ――教壇を降りて学生の中へ

 教育は実践の中にある。いくら高邁な理想を説いても、新奇なプランを掲げても、その教育を実際に受ける人たちが育たなければ価値がないのである。法律学の教育も、そのような意味での、受講者を意識した「教育生産性」を考えるところから再考すべきではなかろうか。

 教壇を降りて学生たちの中へ入ろう、というのが、本稿の最初の発想である。権威の衣(もしそういう意識を持っている法学部教員がいるならば、だが)を捨てて学生の中へ、と表現してもよい。実際、伝統のある国立大学法学部の大教室では、新設私学などと比べると、ずいぶん教壇が高いところが多い。数段もの階段を上って行くのである。講義中にそこから降りることには、物理的な困難もあろうし、心理的に抵抗を覚える向きもあるかもしれない。しかしこの「教壇を降りて学生と同じ目線に立つ」ことが非常に大事なことなのである。

2 時代遅れの法律学教授法

 そもそも、大学における法律学の教授法は、おそらく人文・社会科学のすべての学問の中で、最も遅れている部類に入るのではなかろうか。

 ゼミなどの少人数教育はもちろんあるが、法律学では一番の基本は大教室の講義である。そしてそこでは、パワーポイントも使わず、もっぱら講義を聞かせ、必要に応じて板書をしてノートを取らせる、という昔ながらの講義法がまだ相当にまかり通っている。テキストを使用したり、レジュメを配布したりということはもちろんあるが、教室の風景としては、おそらく一番退屈なものではないだろうか(ただしパワーポイント授業にも弊害があるがそれは別の機会に)。しかも憲法、民法、刑法などという肝心の法律基幹科目に、このような授業が多いように思われる。

 この傾向は、学会報告をみても明らかである。いまだに法律の学会では、スクリーンも用意されずただ配布されたレジュメに沿って話し続けるだけの報告が多い。これは、理系の学者から見ると非常に奇異に映る光景であろう。

 もちろん、少人数のゼミナールでは、法律学科でも、班別に事例問題を予習して、各班のレポーターが報告し、それをもとにディスカッションが行われるというのが通例ではある。また、法科大学院では、やはり20名から50名くらいまでの教室で、ソクラテスメソッドといって、あらかじめ出された課題について学生たちが予習をしてきて、教員が学生を次々に指名して質問し、解答を導き出していくというやり方が一般になっている。

3 大教室双方向授業の導入

 大教室講義の欠点を少人数の演習授業などで補うというのは、ヨーロッパの大学でもかなり以前から行われている(例えばフランスでは、1つの大教室講義に対していくつかのクラス分けをした若い講師による指導[travaux dirigés]が組み合わされるやり方が、私の留学した1970年代末にはもう広く行われていた)。しかし、学部ではやはり大教室講義の形態が基本になるのであれば、根本的な解決は、その大教室講義そのものを改善することにあろう。

 そこで私が案出し実践しているのが、自ら名づけた「大教室双方向授業」なのである。これは、言ってみれば簡単なことなのだが、講義時間中、ワイヤレスマイクを2本持って、教壇から降りて、広い教室中を歩き回り、受講者の学生たちに質問をしながら講義を進めていくのである。

 しかしこれは、言うは易く行うは難しで、そう簡単にできるものではない。また実は細かいいくつものテクニックがある。さらには、後述する体力の問題もかかわってくる。ただ、これをしっかりやれば、400人、500人という規模の受講生がいる大教室でも、私語ひとつない授業が当然に展開できることは実証できている。

 私がこの「大教室双方向授業」を自分なりにほぼ完成させたと思ったのは、今から5、6年前、大教室での講義を始めて30年以上経った、還暦の頃である。実際その頃から私は毎週の大教室講義が非常に楽しく、待ち遠しくなった。受講する学生のほうも興味を持ってくれたようで、当時の慶應義塾大学法律学科3・4年生配当の民法債権総論では、そのころから履修者が目立って増え、出席率も受験率も良くなった。現在ではこれを武蔵野大学法律学科2年生配当の債権各論・債権総論などで実施している。

4 NHK型と民放型

 故星野英一博士は、東京大学での大教室講義において、自発的に質問に答える役を志願する学生ボランティア数名をあらかじめ募り、これらの学生との質疑応答を交えて授業を進められたと聞く。大村敦志教授もその一人であったと書いておられる(大村敦志『戦後一法学者の横顔――素描・星野英一先生』[私家版]51頁)。彼らは、先生から当てられてマイクを持って発言することもあったとのことである(『星野英一先生の思い出』[有斐閣]106頁の後藤博「星野先生と法人制度研究会」参照)。

 そうすると、学生を当ててマイクを持たせて発言させる、という点では、私の大教室双方向授業は、星野先生のおやりになったことと同じではないか、と読者は思われるかもしれない。しかし、そこには決定的な違いがある。

 私の場合は、あらかじめ募ったボランティアではなく、教室中の誰かにアットランダムにマイクを向ける。したがって、星野先生の場合は、学生は予習をしてきて、ほとんどが望ましい「正解」を答えたはずであるが、私の場合は、とんでもない間違ったことを答える学生も、口ごもって何も答えられない学生もいるのである。しかも私は、そういう場面をわざと作り出そうとすることもある。

 つまりそれは、エリート学生との予定(ないしは予想)された対話ではなく、教室の標準的な学生や、さらには落ちこぼれのような学生との、出合い頭の対話なのである。

5 教育生産性とアクティブ・ラーニング

 これには明確な狙いがある。私は、大教室では、一部の優秀な学生だけを育てるのではなく、その教室全体のレベルを引き上げることを常に考えてきた、というのが1つ。そしてもう1つは、私なりの授業への引きつけ方、教育生産性の向上の試みということである。

 後者については、わかりやすいたとえを挙げよう。私は、もう四半世紀も昔の話になるが、テレビのスポーツバラエティ番組のコメンテーターをしていたことがある。その時に知ったのだが、当時NHKではバラエティ番組でもしっかりリハーサルをするのに対し、民放ではわざと細かいリハーサルをしないで本番に臨んだ。そのほうが質問を振られたコメンテーターがどぎまぎしたりする、その臨場感が視聴者に伝わるのでよいというのである。

 つまり、星野先生の東大における大教室授業が(このようなたとえも失礼ではあるが)おそらくは予定調和を重んじるNHK型なら、私が慶應で開発したのは、予定調和をあえて避ける民放型の大教室双方向授業だったのである。

 後ろのほうで集中力を欠いている学生がいたら、そこに飛んで行ってマイクを向ける。案の定答えられない。そこで教室の中央くらいまで戻りながら、君はわかるよね、と言って同じ質問をする。そこでいい答えが出れば、大いに褒めて(これは大事)、授業後に名簿に記録する(これは期末試験で1点か2点の加点にする。ほとんど価値はないのだが、大教室でほめられたという事実のほうが当人にとって重要なのである)。そして、何人かに聞いて、今一ついい答えが出ないときは、最前列まで戻って、顔見知りの勉強家の学生や私のゼミの学生を当てて望ましい答えを引き出すのだが、場合によるとそこでも外す(見当違いの答えを言う)学生が出てくる。これが非常に受けるのである。

 つまり、こういうやりとりの中で、教室中の学生が、質問されたポイントについて、印象的に理解をする、そのことが最も重要と私は考えているのである。これは今日風に言えば、いわゆるアクティブ・ラーニングの実践である。IR(Institutional Research)の専門家である大阪大学の川嶋多津夫教授は、アクティブ・ラーニングとはActive Engagement in Learningなのであって、何も教室外の実習などばかりを指すものではなく、教室の講義形式でもありうると述べていたが、わが意を得たりと思った次第である(川嶋[講演]「教育における評価検証機能の充実に向けて――IRの活用」2015年6月29日於武蔵野大学)。

6 教えていないことを聞く

 さらに私は、質問の仕方や質問する事項にも工夫をした。まず、知識を聞くのではなく、考え方を聞くのである。教えたことではなく、まだ教えていないことについて思ったことを答えさせる場合も多い。このやり方は、間違った答えをしても恥ずかしくないというだけでなく、「知りません、わかりません」と言って逃れようとする学生が解放されないという、教育上のメリットもある。

 たとえば、これから教えようとする項目に関する事例を出して、問答をする。「これ、どう解決したらいいかな、君どう思う?」「わかりません」「わからないかどうかではなく、君はどう思うか、と訊いているんだから、何か思ったことを答えてよ」「でもそんなの、どういう規定があるかも全然知りません」「そうだよ、まだ教えてないもの」

 こういう問答は慣れてくると大変楽しい。そして、学生のほうもそういうやりとりを見物するのが面白いのか、出席率もよくなるのである。

7 ソクラテスメソッドの隠れた欠点

 それだけではない。教えていないことを聞くというのは、より深いレベルで非常に重要なのである。それは、法科大学院のソクラテスメソッドの限界を指摘することにもなる。つまり、ソクラテスメソッドは、通常事前に問題を与えて予習をさせて、それを教室で学生を当てて答えさせるのであるが、私が慶應義塾大学の法科大学院生と学生食堂で食事をしていたとき(これも大事である。学食で一緒に食事をしていると彼らの本音が聴けるので、私は週の半分は学生と食事する)、「ソクラテスも、かわし方がわかった」と言う学生がいた。つまり、一定レベルの予習をしておけば、ほぼ最初の質問は答えられる。そして更に突っ込んだことを聞かれてそこが答えられなくても、平常点が特に悪くなることはない。だからある程度のレベルの予習をしてきて、後の質問は適当にかわせればよい、というのである。

 これは、私に言わせると、ソクラテスメソッドが、職能教育としての法科大学院教育に本来必要な、想像力と創造力の涵養ということが全くできない教育手法になってしまっているという、大きな欠点を露呈しているのである。

 教えていないことを聞いて、その場で考えさせ、想像させる。法律学では、受講者の能力を将来に向けて伸ばすためには、これが非常に大事なことなのである。

8 エージシュート

 もっとも、この大教室双方向授業は、経験の浅い教員にやってもらうのはかなり困難である。つまり、マイクを2本持って教壇を離れて、その場で偶然に選んだ学生を当てていくのであるから、どんな答えが返ってくるかは全くわからない。的外れや勘違いも含めて、様々な答えを想定して対処しなければならないのである。教師のほうが大教室の真ん中で立ち往生してしまっては格好がつかない。当該科目の指導に関して、一定以上の知識と経験を持っていないとできないのである。また、学生と会話している時間は授業が進まないので、講義の進度と会話の時間のバランスを取れる技量も必要である。

 加えて、右のことと全く相反するのだが、これは体力のある元気なうちしかできない授業なのである。教室の雰囲気をつかんで、まずはさっと最後列のほうまで行って学生にマイクを向ける。そして歩きながら講義を続けて中央あたりの学生に質問し、最後は前列の学生に、とフットワークよく動かないと、教室の注目をひきつけられない(しかもあまり長い間後方にいると、前方の学生は教員の声しか聞こえないので集中度が落ちてくる)。90分の授業でこれを続けると、いい運動どころか相当の体力を消耗する。

 ゴルフにエージシュートというものがある。たとえて言えば理屈はあれと一緒である。1ラウンドを自分の年齢以下の打数で回ることをエージシュートというのだが、18ホール・パー72のコースであれば、72以下で回らなければ達成できない。ということは、年齢が60台後半にならなければプロでもまず達成は無理だが、高齢になればなるほど今度は体力が落ちてくる。というわけで、それとある意味類似するこの大教室双方向授業は、経験の蓄積の一方で健康維持との困難な闘いでもあるのである。

武蔵野大学法学部での実践例

9 大教室双方向授業実践のノウハウ

 実は大教室双方向授業の実践にはまだかなりのノウハウがあるのだが、そろそろ紙幅が尽きるのと、パテントのない世界でしばらくはこれをわが武蔵野大学新設法学部のセールスポイントにしたいので(私は専任教員対象にこの大教室双方向授業の講習会を開いた。今では免許皆伝の教員もいる)、今回はこのあたりで留めておこう。ただ最後に重要なポイントを1つ挙げておく。文字通り「双方向」と称するためには、大教室でも受講者の名前を一人でも多く覚えて、名前を呼びながらマイクを向ける必要がある。ただし、それで早めに名前を覚えた学生ばかりを当てると、他の学生が不満を持つので注意しなければならない。もっとも、「当ててほしくない」と思う学生が減って「当てられたいのに不公平だ」と思ってくれる学生が増えるというのは、まさに教育生産性が向上した証左といえよう。

 そこが現代の大学教育の第一歩なのである。今回の連載で、カリキュラムや教材の話より前に、大教室双方向授業の紹介をした所以である。

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