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書斎の窓

自著を語る

『私たちと公共経済』(有斐閣ストゥディア)

いきなり読み始められるテキストを目指して

慶應義塾大学経済学部教授 寺井公子〔Terai Kimiko〕

高知工科大学経済・マネジメント学群教授 肥前洋一〔Hizen Yoichi〕

寺井公子・肥前洋一/著
A5判,292頁,
本体2,000円+税

 経済学の応用分野のテキストの多くは、ミクロ経済学の基礎を修得していることを前提として書かれています。確かに、まずはミクロ経済学の少なくとも基礎を修得してから、各応用分野へ進むのが理想的な順番です。

 しかし、多くの学生にとってミクロ経済学は難しく感じられるため、そこで挫折して、応用分野までたどり着かないケースを多く見かけます。応用分野こそ現実と強く結びついており、直接的に役立つ知見が得られることが多いのに、もったいないことです。とくに公共経済学は、政治家や公務員を目指す学生にはもちろんのこと、有権者として政府の活動を見る目を養うために多くの学生に(さらには一般の方々にも)学んでほしい分野です。

 そこで考えられる方策は2つあります。1つは、やさしく感じられて実際に理解しやすいミクロ経済学のテキストを出版することです。これは、私たちが学生だった頃に比べるとかなり進みました。ただし、それでも(応用分野を学びたい気持ちをおさえて)ミクロ経済学のテキストを1冊クリアしなければならないことに高いハードルを感じる学生がいます。経済学部生であれば、そのくらいのハードルは越えてほしいところですが、教養として学ぼうとする他学部生や一般の方々、および公共政策大学院で初めて経済学に直面する大学院生たちにとっては、やはり高いハードルであると言えます。

 もう1つは、ミクロ経済学のテキストをスキップしていきなり読み始めることができる応用分野のテキストを出版することです。そして、読み進める中で「もっと理解を深めるにはミクロ経済学が必要だ」と感じたら、ミクロ経済学のテキストにさかのぼることも苦にはならないでしょう。そのような学ぶ順番が開拓されれば、経済学を学ぼうとする人の数を増やすことができると思います。これまでは、一般向けの新書がそのような役割を担ってきたと考えられます。

 本書は、いきなり読み始めることができる公共経済学の(新書でなく)テキストを目指して執筆しました。そのため、経済学の考え方から話を始めて、徐々に公共経済学に入っていくという構成にしました。経済学の考え方を明確にするため、心理学や政治学との着眼点の違いにも触れています。本書において、ページ数がやや多いこと、理論的に高度なトピックが省略されていることは、そのような「いきなり読み始められる」テキストを目指した結果です。公共経済学の授業を担当すると、説明の途中で受講生のかなりの割合がミクロ経済学を十分に理解していないことに気づき、ミクロ経済学にさかのぼって説明をしなければならなくなることがあります。本書は、それを読み込んで、はじめからミクロ経済学にさかのぼって説明を始めていると言えます。

 有斐閣の担当編集者である尾崎さんと渡部さんから本書の執筆のお話をいただいたとき、「数学が得意でない学生にもわかりやすい表現」というようなご示唆をいただいたと記憶しています。偶然、著者2人ともが、経済学部ではない学部に所属し、できるだけ数式を使わないように工夫しながら授業を行った経験を持っており、この提案に大いに興味をひかれました。また、社会人に対して経済学の講義を行った経験もあります。じっくりと考える意欲と力を持っている学生が、経済学を学ぶときに、どこでつまずきやすいかについて、考える機会を得ていました。そのような2人の経験を、今回のテキストの表現や構成に生かそうと、知恵を絞り合いました。正直に言って、丁寧に言葉で言い尽くさなくても、数式で表せば数行ですむのに、と思うこともありました。刊行された後で改めて読み返してみると、もう少し表現を工夫できた、とちょっと悔しく思う部分もあります。しかし、概ね当初の志を貫くことができたのは、著者である私たちが、過去と現在の受講生から学んだことを、何とかこの本に生かしたいという強い気持ちがあったからだと、ふりかえって思います。

 以前、著者の1人が、経済学部ではない学部に所属していたころ、次のような経験をしたことがあります。授業で、社会保障制度の維持と消費税増税との関連について説明をしたときのことです。数学が受験の必須科目ではないため、学生全員が数式を理解することに慣れているわけではない、ということは十分に承知しており、現在の年金制度が抱える問題について、理論モデルに基づいて数式を使って解説することに、どうしても及び腰でした。その結果、講義の内容は、社会保障制度の概要について書かれた一般的な教科書を1人で読んでも十分修得できるような、当たり障りのないものであったように思います。

 それに加えて、増税問題について自分がどう考えているのかを、授業で明確に打ち出すことに躊躇がありました。個人差はありますが、多くの学生は素直なので、教員が「こうするべき」と断定すると、自分の中で十分な検討を行わないまま、「自分もこうするべきだと思う」と従ってしまうことを危惧したからです。

 ところがあるとき、何かの弾みで、「私自身は増税は必要だと思っています」と一人称で語ってしまいました。すると、朝一番の講義に出席し、まじめにノートをとっていた学生のまなざしが、途端に生き生きとしたものに変わりました。そのとき、学生は、現実の政策の評価に使える明確な視座を求めて、授業に出席しているのだ、ということに気がつきました。

 もちろん、授業で、一人称で特定の政策についての感想を語ることには、慎重でなければならない、と今でも思っています。特に、経済学の理論分析が当然踏むステップのように、結論は仮定に依存することを明確に示さないまま、感情に訴えることだけは避けたい、という思いが強くあります。結局、講義をしている本人が、自分の教え方に十分に納得できず、かといってどう改善したらよいのか、腑に落ちるような具体策を思いつかないまま、その大学での講義を終えてしまいました。

 本書の執筆のお話があり、前述のように「数学が得意でない学生にもわかりやすい表現」という提案をいただいたとき、率直に、おもしろそうだなあ、と思いました。そのようなテキストを作ることができたら、政策に関心を持ちながら、数学が苦手なゆえに、これまでの標準的な公共経済学の教科書を読み進めることができなかった学生にも、まずは公共経済学の持つおもしろさを伝えることができるかもしれない。また、実は理論モデルに基づき、理論モデルを応用しながら授業を行いたいのだけれども、学生がついてこられるかどうか不安に思っている、かつての自分たちのような教員のお役に立つことができるかもしれない。そもそも、明快な結論、前提となる仮定の注意深い検討、導出の過程の明示、という作業こそが、理論モデル分析がお得意とすることではないのだろうか。このように考えると、本書が目指すべき方向が自然と見えてきたように思います。

 初学者を対象としていますので、論理の展開をシンプルにするよう心がけました。その1つが、「社会的余剰が最大になっているか否かによって政策の良し悪しを評価する」とした点です。もちろん、社会的厚生関数の議論のように、他にも評価基準が考えられますが、さまざまな基準を提示すると、「経済学はいろいろな考え方をする学問である」としか理解されないおそれがあります。応用分野の多くの学術論文の“welfare analysis”が余剰最大化を基準として非効率性を指摘したり政策的提言を行ったりしていますので、本書でも余剰最大化を軸としました。それでも、公共財の自発的供給の議論では、より緩い基準であるパレート効率性を紹介しています。また、投票のルールの議論では、パレート効率性ではほとんどの投票結果が望ましいと評価されてしまいますし、逆に余剰最大化ではどの投票のルールでも望ましくない投票結果が容易に実現しえますので、「コンドルセ勝者が存在するならその選択肢が選ばれること」という基準を導入しています。

 初学者を対象としたものの、けっこう読み応えのある内容になった(なってしまった)と感じています。というのも、上述のとおり、各トピックについて(新書でなくテキストを目指したため)お話にとどめずに、図表を用いたモデルに基づいて議論を進めているからです。複雑な現実をモデルとしてシンプルに表現し、モデルの中で何がどのような要因によって起こるのかを理解したうえで、それを現実に戻して政策的提言を行うという議論の進め方は、経済学の特徴の1つです。たとえそれが数式による表現であろうと、図を用いた解説であろうと、議論の筋道のたてかたは同じです。読者の方々には、読み進めるうちにモデルを用いた議論に慣れていただくとともに、シンプルなモデルから含蓄のあるインプリケーションが得られる知的なおもしろさを感じていただけたらと思っています。

 このように、『私たちと公共経済』は、著者が、これまで教壇のうえで試行錯誤を繰り返し、少しずつ「これでよいかな」と手ごたえを得てきた、自分たちの授業の内容を含んでいます。刷り上がった本を読み返すと、書き手としてまだまだ未熟であることを痛感せざるを得ませんが、経済学の理論に沿って政策を解釈するおもしろさ、確かさを知ってほしい、という私たちの思いが、文章やイラストから、少しでも多くの読者に伝わったらよいな、と願っています。

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