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コラム

中国からの手紙

 

京都大学名誉教授 前田達明〔Maeda Tatsuaki〕

第1 羅先生からの手紙

 手紙の送り主は、中国における環境法の第一人者でいらっしゃる羅 麗先生(1)である。その内容は、こうである。

 中華人民共和国権利侵害責任法(2009年。日本の「不法行為」に匹敵。以下「法」という)「第八章 環境汚染責任」第65条に〝環境汚染により損害が生じたとき、汚染者は権利侵害責任を負わなければならない〟と定め、同第66条に〝環境汚染により損害が生じたとき、汚染者は、法律上の免責事由あるいは法律上の減責事由もしくは汚染者の汚染行為と損害の間に因果関係が存在しないことについて挙証責任(2)を負う〟と定めている。ところが、中国の最高人民法院は、法第66条の「司法解釈(3)」として〝汚染物と損害の間に関連性があるという証明材料を提出しなければならない〟と表明した。この両者の関係(以下、本件という)については、中国でも種々の見解があるが、前田先生は、どのように考えるか、というものであった。そこで、私は、次のように答えた(以下、拙見を前田説とする)。

第2 解答の内容

1、法第66条は証明責任を定めたものであって、〝因果関係が存在する〟という原告(被害者)の主張が、当事者と裁判所の努力によっても(4)、訴訟の最終段階において(5)、「真」であるか「偽」であるか「不明」の場合、すなわち「真偽不明(ノン・リケット)」の場合に、〝被告(汚染者=加害者)が証明責任を負う〟すなわち、右の主張が「真」であると認定される、ということである。他方、「司法解釈」は「(主観的)証明責任(6)」を定めたものであって、〝因果関係が存在する〟と原告が主張するとき、それを証明する証拠を提出する義務を負う(「真実義務」)というのである。これは、最高人民法院としては、〝あやふやな〟理由で訴訟を提起し濫訴となって、司法制度に混乱が生じるのを防止しようとしたものである。したがって、両者は別々のことを規定し、矛盾(衝突)するものではない、と答えた。

 しかし、実は、これでは、(日本の通説からは)〝真の問題解決〟になっていない。それは、こうである。

第3 真の問題解決

1、たしかに、通説の立場でも、本件において、因果関係不存在の証明責任は被告(汚染者)が負い、因果関係存在の証拠提出責任は原告(被害者)が負う(反証)のだから、問題は解決する、というかもしれない(中野ほか・前掲書371頁、伊藤・前掲書358頁、三木ほか・前掲書266頁)。しかし、反証となる証拠を提出するか否かは当事者の「自由」であり、それを、何故に、何条にもとづいて「(行為)責任」すなわち「義務」(「司法解釈の立場」)といえるのか説明がない。この点、通説によれば、各当事者は自己に有利な裁判を受けるためには、真偽不明になれば自己に不利に判断される要件事実(証明責任を負う事実。本件では因果関係)について、訴訟に勝つためには、これを証明し裁判官に「確信」を抱かさなければならない立場に立たされる、他方、証明責任を負わない当事者は、その要件事実の不存在(本件では存在)について裁判官に「確信」を抱かせる必要はないが、裁判官の確信を動揺させて「真偽不明」に追い込むために「反証」として証拠提出〝責任〟を負うとする(中野ほか・前掲書371頁、三木ほか・前掲書266頁)。ということは、通説によれば、証拠提出責任の根拠は(「本証」は証明責任から派生する。三木ほか・前掲書266頁)、当事者の〝訴訟に勝ちたい〟という功利主義に求めており、それは、「司法解釈」のいうような「責任」とか「(行為)義務」とか云うべきものではない。

2、しかし、本件においては、この証拠提出責任(特に「反証」の証拠提出責任)を「義務」とすべきことが要請されている。それに対する答えは、この証拠提出責任は民事訴訟法第2条を法的証拠とする「真実義務」であるということになる(本誌636号33頁、35頁注(11))。すなわち、弁論主義は(職権主義も)、当事者に自己の認識に反して虚偽の事実を主張したり証拠を提出する「自由」まで認めているわけではない、言い換えれば「当事者は自己が真実に反すると知りながら、事実を主張したり証拠を申し出ることは許されない」、このような当事者の訴訟上の「義務」を「真実義務」というのである(中野ほか・前掲書206頁、伊藤・前掲書297頁)。これは洋の古今東西を問わず最大の徳目の1つである〝嘘をついてはいけない〟ということの民事訴訟手続き上の現れである。

第4 結びに代えて

1、以前、奥田昌道京都大学名誉教授・元最高裁判事が前田説に対して御意見を述べてくださったが(本誌634号30頁)、その根底は〝嘘をついてはいけない〟ということである。それは、正に人類の〝叡知〟にもとづく最大の徳目である(例えば「論語」述而第7、172)。そして、はからずも、中国の最高人民法院も、同様のことを「司法解釈」において示した。誠に、卓抜な訴訟実務経験と高邁な道徳観にもとづく「叡智」からの発言と受け止めるべきである。

2、さらに、この中国からの手紙は、そもそも証明責任とは何かを反省させられるものであった。

というのは、こうである。例えば、日本の大気汚染防止法第25条に〝汚染物質を大気中に排出することによって、人の生命身体を害したときは、汚染者は、これによって生じた損害を賠償しなければならない〟と定めている。そこで、仮に、加えて〝因果関係の証明責任は汚染者が負う〟という規定を設けたとする(実は、立法時には、そのような案=証明責任の転換(7)が検討されたが実現しなかった)。さて、通説の基礎ともいうべきローゼンベルク「証明責任論(8)」によれば、法規を適用し得るのは、要件事実の存在について「積極的心証をいだいたときに限るのだから、逆に不存在の心証をいだいたときばかりでなく、要件が存在するかどうか疑いが残ったときにも、法規の適用は行われない」、そこで「証明責任」とは「一定の法規の適用なしには勝訴し得ない当事者は、その法規の要件事実が実際に生起したことにつき証明責任を負う」すなわち「適用さるべき法規の要件事実につき証明責任を負う(9)(10)」としている。しかし、これでは、右の大気汚染防止法の設例を説明できない。それでは、どのように考えればよいのか。それは、こうである。〝裁判官が要件事実の存在もしくは不存在の確信が得られないとき(11)、その事実を不存在もしくは存在を認定することによって、一定の法規が不適用もしくは適用されるという当事者の負担(不利益)〟とすれば、右設例の場合も説明がつく(ということは、法規不適用のみならず法規適用もあり得る。本誌640号8頁)。だが、果たして、このような考えが妥当であろうか。それは、そもそも、証明責任という法律用語が何故に必要か、ということに帰着する。ローゼンベルクは云う。「事実問題が確定し難いからといって法律問題を判断不能(ノン・リケット)とする」「余地はない」「裁判官は」「請求を認容するか」「請求を棄却するか、どちらかの判決をせねばならぬ。判決の内容として、右の両者以外のものはありえないのである(12)」。すなわち〝請求棄却のみならず請求認容でもよい〟というのである。しかし、ローゼンベルクは、何故に請求認容あるいは請求棄却の判決をしなければならないのかの理由を説明していない。この点、現在の日本では憲法第32条が国民に裁判を受ける権利を保障しているから、裁判官は右のような判決をして事件の決着をつけなければいけないのだ、と説明されている(本誌632号45頁)。

 とすれば、ここで提案した証明責任の定義は妥当なものであることになる。

 以上から明らかなように、証明責任は「責任」とか「義務」とかいうべきものでなく「負担(Last)」であり、それに対して、証拠提出責任は「責任」であり「義務」であり、また、主張責任(13)も、訴える者は主張すべきであり、反論する者も主張すべきであるから(事実主張せずして請求棄却を求めることはできない)、「責任」であり「義務」である。

 さて、読者諸賢、特に民事訴訟法学者諸賢はどのようにお考えであろうか。


(注)

(1)羅 麗先生は、北京理工大学法学院教授・環境法研究所所長でいらっしゃり、中国環境科学会環境法研究会副会長を務められ、「土壌汚染防止法」草案提案稿起草専門家組のメンバー、現在は「土壌汚染防止法」起草諮問専門家、さらに環境保護部法律企画局の法律諮問専門家として活躍しておられる。

(2)「挙証責任」という用語はドイツ語の“Beweislast〟の訳であり、日本でも、かつては、この用語を用いていたが、後に「立証責任」、そして現在は「証明責任」という訳を用いているので、本稿では、以下、「証明責任」という用語を用いる。

(3)最高人民法院の「司法解釈」とは、具体的事件の上告審として判決理由中に示した解釈ではなく、一般論として、ある法律の条文の解釈を示すものである。そして、それは〝法律と同様の効力を持ち〟全ての司法機関は、これに従わなければならないものである。その法的根拠は1981年6月10日の全国人民代表大会常務委員会(立法機関)を通過した「法律解釈作業を強化する決定」である。

(4)伊藤眞『民事訴訟法 第4版補訂版』(2014年。有斐閣)356頁、三木浩ほか『民事訴訟法 第2版』(2015年。有斐閣)263頁。

(5)中野貞一郎ほか『新民事訴訟法講義 第2版補訂版』(2006年。有斐閣)357頁。

(6)主観的証明責任という用語よりも、近時は、「証拠提出責任」という用語が有力であり(本誌640号15頁)、この方が〝名は体を表す〟で適切であるので、本稿では、以下、この用語を用いる。

(7)〝証明責任の転換〟については、通説も、立法による場合は認めている。中野ほか・前掲書367頁、伊藤・前掲書361頁、三木ほか・前掲書270頁。

(8)ローゼンベルク(倉田卓次訳)『証明責任論 全訂版』(1987年。判例タイムズ社)に依拠する。

(9)ローゼンベルク(倉田卓次訳)前掲書21頁。

(10)日本の通説も同様である。伊藤・前掲書356頁、三木ほか263頁。

(11)すなわち、「真偽不明(ノン・リケット)」とは、裁判官の「確信(高度の蓋然性)」が「8割がた確かであるとの判断」(中野ほか・前掲書351頁)という表現に従うならば、ある要件事実の存在あるいは不存在について「真」(あるいは「偽」)という心証度が79%以下で21%以上である場合、ということになる。

(12)ローゼンベルク(倉田卓次訳)前掲書8頁。

(13)主張責任においては、立法者が一定の法律要件該当事実(A)が存在するときは一定の法律効果(B)が発生すると規定している場合に、Bの発生を求める当事者は当然にAの存在を主張しなければならず(憲法第76条第3項の実体法的意義)、また、当事者は事実主張をすればよいだけであって、証明責任と違って、当事者にとって可能なことであるから、行為「責任」あるいは行為「義務」といえる。

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