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書斎の窓

連載

残照の中に

第3回 鵜島

東北大学名誉教授・元最高裁判所判事 藤田宙靖〔Fujita Tokiyasu〕

 しまなみ海道は、尾道から順に、向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島の6つの島を繋いで、四国の今治に到る。生口島までが広島県であり、その先は、愛媛県である。

 伯方島と大島に抱かれるようにして、鵜島という、周囲4.4キロメートルの小さな島がある。人口はたったの25人だが、伯方島の尾浦港と大島の宮窪港とを日に7回行き来する、それは小さなフェリーが、途中この鵜島に立ち寄る。大島と鵜島の間の狭い海峡は、潮の干満に伴う急流が有名で、宮窪港から観潮船が出て観光客を集めている。この地は元々村上水軍の本拠地であって、彼等は、この急流の中に立つ、鯛崎島と能島という、鵜島よりも更に小さな双子島の上に居城を設け、この地政学上の利を活かして、一帯を支配した。宮窪には「村上水軍博物館」があって、先の観潮船と並び、しまなみ海道の1つの呼び物となっているが、右の鯛崎島・能島の他に、鵜島にも村上水軍所縁の地が様々に残されている。


 9年前から、私達夫婦は、毎夏8月の初旬に鵜島を訪れ、数日を滞在するようになった。蔵王のスキー場で偶々知り合ったM氏という「大人物」が、丁度その頃彼が鵜島に建てた「瀬戸内和船工房舟宿・鄙」という、なんとも雅な名前を持った(実質上の)別荘に、招待してくれたのである。M氏は、福島県二本松市の出身であるが、その昔、東京のさる私立大学で全共闘議長を務め、「右と左と警察に追われて」(本人談)日本国内に居場所が無くなり、カナダへ逃げ出して8年間を放浪。その時の体験記を出版したところ、当時この手の出版は珍しかったため大変に売れて、その印税で、IT関係の会社を設立した。その間、国務大臣を何度も務めた自民党の大物議員の私設秘書になったり、さる宮様のIT指南役を務めたり、他方で、若い頃からの無二の親友であるK元首相の御意見番の役を果たす等々、一生の殆どを国家公務員として過ごして来た私などとは180度異なる経歴を持つ、文字通りの「快(怪?)男児」なのである。

 「舟宿・鄙」は、鵜島港(といっても、要するに船着き場)から小さな峠を1つ越え、瀬戸を挟んで宮窪と向き合う小浜という地区にあり、実質この館のプライベート・ビーチとなっている小さな砂浜の一隅、村上水軍造船所の跡地に建っている。小浜には、数軒の家屋があるが、現存の住民は、M氏の他は高齢の御婦人唯一人のみ。鵜島は、19世紀中頃の最盛期には、人口330人を越えたこともあるというが、今では、文字通り過疎を絵に描いた島の1つなのである。飲用水は伯方島・大島からフェリーで運び、物を売る店は1軒もないから、自給自足の他は、日用品もフェリーか自家用船でいずれかの島に行って調達するしかない。

 M氏はここに住み着き、本業のIT事業の傍ら、和船を建造して商船大学の学生達に操船を教え、海運会社の経営者である地元出身のF氏と共に、「鵜島自然農園」を設立し、世に珍しい無農薬レモンを栽培することによる島興しを考えた。ところが、東日本大震災に伴う福島原発事故の勃発は、氏のこのような人生設計を大きく狂わせた。氏の郷里安達太良山麓の、酪農を中心とした農家(多くはM氏の幼馴染)は、牧草地が放射性物質で汚染されたことから生業が成り立たなくなり、氏は、その救済に、おっとり刀で駆け付けた。牧草地にソーラーを設置して発電事業を起こすことを考え、その実現に向けて奔走をするために、鵜島への定着が困難になって来た。無農薬レモンの栽培も、現在では全てF氏の仕事となっている。

 鵜島には、代々織田おりた福羅ふくらの2つの姓しかない。織田は、織田信長の子孫であり、福羅は、因島の村上水軍の末裔である。天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国征伐によって能島城が落城した後、村上一族は離散。因島の村上家は、伯方島近くの佐島に隠れ棲み、その居住した福羅の地名に因んで福羅と改姓したが、後に明暦元年(1655年)、能島城落城後70年間無人の地であった鵜島に、同じく佐島に居た織田氏に誘われて、共に入植した。上記のF氏は、この福羅氏の現存の子孫なのである(以上、後述資料による)。


 海峡を流れる潮は、「舟宿・鄙」のサンテラスに座っていても見える帯となって、干満に合わせ、北へ南へと奔る。鵜島と能島の間の、その幅僅か50メートルの「荒神瀬戸」では、大潮の時など、ほとんど1メートルもの落差を持った滝となり、最大9ノットのスピードで突っ走る。M氏は、「恐怖の急流体験」などと言って、私達を小型のボートに乗せてこの激流に漕ぎ出すが、時折、エンストしたまま再起動しなくなる。まさに絶望的な、恐怖の漂流であるが、本人は、6時間すれば潮は戻り始めるから、などと言い、てんで意に介さない。因みに、K元首相も、こうしたM氏との漂流を体験させられた1人であるが、その際恐怖に凍りついたのは、K氏自身よりもむしろ、陸に残されていたSPであったという。

 夕闇迫る頃、対岸の宮窪の漁港から、1隻、また1隻と、無灯火の漁船が姿を現し、凄まじい爆音を立てて、フルスピードで海峡を北へ疾走して行く。その数は、10艘から時には20艘近く、優に1つの船団である。これらは、大抵明け方に帰港するが、時には、走り去ってから間もなく、一斉に戻って来ることがある。後者のケースでは、海上保安庁の監視船に遭遇したのだ、とM氏やF氏は言う。両氏から聞くところでは、この謎の船団の正体については、次のような背景があるらしい。しまなみ海道が建設された本四架橋の際、漁協組合員に補償金が支払われるというので、組合員達は、都会に出ていた息子達を呼び戻した。豪勢に補償金を使い果たし、しかし今や過剰に膨れ上がった漁協組合員の一部は、1人、続いて2人3人と、獲物を求めて、遠くは九州方面までも、瀬戸内一帯を目指して出撃することになった。問題は、その獲物の入手方法なのであるが、その詳細をここで公言することは憚られる。いわば、現代の村上水軍であるが、取り締まり当局は、彼らの違法「漁業」の実態を知っており、また本気で取り締まろうと思えば取り締まれるのであるが、彼らが正常な漁業だけでは生活して行けないことも理解しているので、いわば阿吽の呼吸で、手心を加えているのだという。私達が鵜島を訪問し始めた9年前には、この船団の出撃は、毎夕の刺激的なショーであったが、数年ほど前から、年々船団出没の度合いが減って行き、昨年は僅かに1度。今年は遂に4泊5日の滞在中に1度も出逢うことがなかった。これは、海保による取り締まりの強化のせいだ、とM氏はいう。船団を構成するのは、漁協の統制も効かない若者達であるが、当局は、ここに来て、彼等を締め上げ糧道を断つことによって、自衛隊への入団希望者を増やそうとしているのだ、というのである。この辺りは、M氏一流の解釈であってF氏などは必ずしも賛成しないのだが、あるいはそんなこともあるのかと思わせられるところが、恐ろしい。


 海峡を挟んで向き合っているにも関わらず、宮窪と違い、鵜島には代々、漁業を営む者が居ない。士族の末裔である織田氏・福羅氏には、それなりの矜持があってのことか、海で生きて行くにしても、地元の漁師としてではなく、海運業・造船業でといった傾向が強いのだそうである。F氏はその典型例で、今は、鵜島に住まいながら、日々フェリーで、伯方島の事務所に通っている。かつては今治に事務所を持ち、週末毎に鵜島の自宅に戻って、鵜島再興のため汗を流していたのであるが、衰退して行く故郷を見るにつけ、鵜島に常住する以外にはないと考えるようになった。鵜島再興の可能性の1つは、村上水軍関係の史跡巡りを中心とした観光の推進であるが、F氏は歴史を掘り起こし、それを資料に残し(福羅逸巳編『鵜島 歴史と文化』平成19年、同『清和源氏流村上源氏 福羅氏一族』平成26年、福羅逸巳監修・鵜島歴史民俗研究会編『鵜島風土記』平成27年。いずれも私家版)、史跡の整備(道やサイクリングロード、そして休憩所の整備、案内図や標識の設置、等々)を、ほとんど1人で行った。鵜島港に「海あひる」を放し飼い、フェリーの待合所であった小屋を、「鵜島カフェ」として衣替えし、週末には、地元のおばあちゃん達が、ここで飲み物やランチを提供するようになった。いずれは、最近鳥獣捕獲(わな)の免許を取ったF氏が仕留める、畑荒らしのにっくきイノシシが「猪なべ」として提供される予定である。こうした観光スポットとしての鵜島の現況は、地元紙によっても写真入りで紹介され(愛媛新聞2015年6月20日朝刊)、折しも小説『村上海賊の娘』がヒットしたことなどもあって、鵜島を訪れる観光客の数も、ここのところ、かなりの増加を見た。

 しかし、F氏のこのような奮闘にも拘らず、鵜島の将来は、必ずしも容易には見えてこない。私共が初めて訪れた9年前に36人であった人口は、今年20戸計25人にまで減った。言うまでもなく、この数字は、所帯のほとんどが高齢者の独り住まいであることを物語る。常住する住民の中の最年少者は、今年66歳のF氏であるが、F氏自身にも、10年先の島の行く末は見えていない。しかし、そうだからこそ、今、忘れられていた文化を発掘し、残しておかなければならない、と氏は言うのである。

 尤も、島の住民は、失われて行くばかりではない。O氏は、織田家の一族であるが、現在は海上保安庁に勤めているものの、2年後に定年退官したら鵜島に戻るという。O氏にはO氏なりの、人口の少ない鵜島でしか実現できない、未来の鵜島についての夢がある。それでもしかし、少々酔いの回った私が、軽薄にも口に出した「万物は滅びるが、滅びるまでの過程がどうあるかが重要なのではないでしょうか」という言葉には、F氏もまたO氏も、黙って大きく頷いたのであった。


 私達に、恐らく、来年の鵜島の夏はない。真の自由人であり行動人であるM氏が、若き日の思い出の地カナダに戻って大農園を開き、福島の被災農民の移住を受け入れるという、壮大な計画を立てたからである。「舟宿・鄙」は、とりあえずこの夏で閉鎖されることになった。このような文章を書く他に能のない私は、鵜島の残照の中に、ただ立ち尽くすのみである。

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