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書斎の窓

書評

『社会学の歴史Ⅰ――社会という謎の系譜』

筑紫女学園大学学長 大村英昭〔Ohmura Eisho〕

奥村隆/著
四六判,296頁
本体1,900円+税

はじめに

 かつて一般教養科目としての「社会学」を――あえて「社会学入門」とはせずに――講義していた私は、これを、社会学史上の各論を満遍なく紹介する、いわゆる「概論」ないし「原論」にしてはならないと思い切っていた。自分が学生時代に受講した「概論」ないし「原論」が、(奥村さんの言い方で)「あたりまえ」だとしか思えない事象を、一見、難しげな言葉遣いで語られているだけの実に“つまらない”ものでしかなかったから、もし講義する側にまわったときには、自分自身が「面白い」と思えたところだけを、学生諸君にも、その面白さを分ってもらえる――つまり“ウケる”――ようにしようと心がけていた。ときに「今日の先生、学芸はともかく話芸はすごいですネ」と言われて吹き出すような仕儀にもなったのだが、要は、「あたりまえ」ではない意外性こそ社会学の真髄だと考えて講義していた結果であろう。おかげで、ずっとのち、すでに社会人になった人から、つまらない“般教ばんきょう”のなかで、大村先生の社会学だけは別、“アノミー”でしたよネ、すごく印象に残ってますョ」などと嬉しい話を聞くこともできたのだ。

本文

 という次第で、長年、社会学の面白さをどう伝えようかと腐心してきた小生にとって、今般「書評」するよう依頼された奥村隆さんの『社会学の歴史Ⅰ』は、ご自身講義する際のライブ感覚で書いた――各章ごとにまとめたうえで「皆さんはどう思いますか」式の言葉が添えてある――とおっしゃるだけに興味深く読ませてもらった。もっとも、講義調とはいえ、奥村さんの念頭にあるのは、「卒業論文を書く際にも役立ててほしい」とおっしゃる通り、一般教養科目ではなく、専門科目としての社会学であるに違いない。加えて、実のところ、中身は学説史上の重要人物を網羅した高度な内容の理論書になっている。それだけに、仮に大学院との共通専門科目を担当するとしても、本書をテキストとして使いこなす自信が私にはないといわざるを得ない。よって、ここではテキストとしての適否は問わず、むしろ社会学説の全体を扱った――このこと自体、近年、めったに見られない――すぐれた理論書として評価したい。ことに、市民革命の後の混乱期、「複数の意志の空間」が「謎」として浮かび上がり、それを各論者おのおのに、カッコ付きの「社会」――ないしデュルケームがいう意味での「社会的事実(fait social)」――として認識されていった過程が、そのまま社会学説史をなすという第1章「はじめに」のまとめ方、そして以下、この意味での「社会」の発見と、その「謎」の解明とを進めた学者たちを順次追っていかれる手際の良さには感服する。

 まずは章立てと各章に付されたタイトルとを掲げておこう。

 第1章 「社会学」のはじまり――社会という謎。第2章 カール・マルクス――資本という謎。第3章 エミール・デュルケーム――連帯という謎。第4章 マックス・ヴェーバー――行為という謎。第5章 ゲオルク・ジンメル――距離という謎。第6章 シカゴ学派とミード――アメリカという謎。第7章 パーソンズとマートン――秩序という謎。第8章 亡命者たちの社会学――ナチズムという謎。

 なお以下は続巻のⅡに予定されているものだが、すでに、かなりしっかりした見通しをもっておられることが分かるので掲げておきたい。第9章 シュッツと現象学派――意味という謎。第10章 ガーフィンケルとゴフマン――日常という謎。第11章 フーコーとハーバーマス――主体という謎。第12章 ジェンダーと社会学――性という謎。第13章 エスニシティと社会学――世界という謎。第14章 ブルデューとルーマン――根拠という謎。第15章 21世紀の社会学――「社会がない」という謎。補章 日本の社会学――日本という謎。

 通覧して、続巻Ⅱのほうに予定されている(補章を除く)最終章「21世紀の社会学」が「『社会がない』という謎」と説明されている点が正直、大いに気になる。もとより、今回の書評範囲を超えたところにある事柄だから、ここを問題にするのは、いわば越権行為だろう。だが、19世紀から20世紀へと各論者の社会学説を丁寧にたどられた末に、さて21世紀に入ってからの――という意味は――社会学の現状を著者はどう評価するのかが示唆されているはず、それを「『社会がない』という謎」と註解されているのだから、気にするなというほうが無理だろう。

 実際、これは著者も引用している(186頁)パーソンズの有名な言い条、「現在、誰が一体(ハーバート)スペンサーを読むだろうか?……スペンサーは死んでいる。しかし、誰がどのようにして殺したのか、これが問題である」のひそみにならって言えば、「いま、誰が一体パーソンズを読むだろうか?……」、いや、それどころか、「いま、誰が一体アメリカ社会学を読むだろうか?……」というのが、私の現状認識なのだ。発見すべき「社会」がない、という奥村さんの言い方から、あるいは私の現状認識に近いものがあるのかもしれないと思い、あえて記した次第、お許し願いたい。

 勝手なことを書かせてもらった。いそぎ本論に戻して、次に強調したいのは、各論者――誰しも「距離化した観察者」(detached observers)であると同時に「巻き込まれた参加者」(involved participants)でもあるのだから――の学説を、その論者の具体的な生活環境にも関連づけて把握しようとされた著者の姿勢である。そして興味深いことに、ご自身についても、研究者であると同時に立教大学――執筆中に社会学部長を務められたらしい――の教員でもあるという社会的位置どりを十分に自覚されていることが、「はじめに」に記された本書執筆にいたる事情説明などからもとてもよく分かるのである。たとえば、普通なら先輩ないし同僚研究者の名を挙げてお礼の言葉を記されるところに、むしろ有斐閣編集部の方々の名前を挙げられ、さらには大学事務局の人の名前まで明記して謝辞を述べたりしておられる。実際、現在の厳しい出版事情のもと、加えて一昔前に比べてはるかに多忙になっている大学教員としての務め、その渦中で、これだけ集中力を要する力作――それも予定を超えた大部なもの――を出版できるのは、家庭はもとより、出版社並びに大学事務局の、よほどの理解がなければ不可能であったろう。

 正直、日本の大学教員はたいてい――一昔前までのことか?!――いわゆるテニュア(終身雇用の教員)だから、他のどんな職業に就くより、時間的にも経済的にも恵まれているとは思う。その点の自覚に基づいて、とり上げられる各論者の場合はどうだったのか。ことに、時々の常識ないし「あたりまえ」に逆らって警世の言辞を吐くなら迫害される覚悟すら必要であったろう。運良く大学という一種のシェルターに身をひそめ、かつテニュアまで確保できた人とそうでない人とでは、雲泥の差があったに違いない。しかも著者の眼力は、にもかかわらずと言うべきだろう、以上の意味での生活環境の異同とは裏腹に、時々の「分からない」をカッコ付きの「社会」として発見し解明していく社会学者に固有の、ある一貫した分析視角があることを見抜いていくのである。

 ことに、最初にカール・マルクスを置いておられる点に敬意を表したい。もちろん、編年式に順序立てて当然のことだと思われるだろうが、それだけではないのだ。先に示唆した現在のアメリカ社会学の凋落ちょうらくぶりは、マルクスについての勉強の足りなさに由来すると私は思っているからだが、現に本来的な意味での社会学の誕生は、マルクスとの、いい意味での格闘によってこそ画されているのだ。この点を著者は、デュルケームとマックス・ヴェーバーへと論を展開することで適格に述べておられる。加えて、第6章「シカゴ学派とミード」のところを「アメリカという謎」と銘打たれ、いわばマルクス知らずの難点が、具体的に「構造分析」の不在となって表れたことをも明快に指摘されているのである。

 もうひとつ、マルクスが「資本という謎」を発見し、かつ見事に解明した経緯を説明された後、ではなぜ資本主義体制は崩壊するという、彼の予言が(いまのところ)外れているのかと問いかけ、その理由を現実の資本主義は「不純」だからだと表現されたことに瞠目どうもくする。実際、現実の社会体制は純粋な資本主義からは説明できない様々な要因から成っており、特に「戦争――福祉国家」(Warfare-Welfare State)の戦略に由来するイデオロギー操作や宗教教団の趨勢すうせいなどを計算に入れる必要があるのだろう。特に第8章「亡命者たちの社会学」の最後に、著者はカール・マンハイムの「イデオロギー」論とノルベルト・エリアスの『文明化の過程』(1939年)に触れ、二人の置かれた生活環境にも言及しつつ、いずれも、現実の社会がマルクスの描いた「純粋資本主義」からは大きく疎隔していく様子を解明していると評定されるのである。

 私の勝手な想いが過ぎた書評になってしまっただろうか。要は評価する以前に、かえって学ばせてもらったことのほうが多いぐらいだと言いたかったのだが、第5章「ゲオルク・ジンメル――距離という謎」は特にそうだったから、最後にこの点に触れて終わっておきたい。

 またも、私個人の事情になって恐縮なのだが、ようやく50歳を過ぎた頃から――とくに「臨床社会学」を標榜するようになって以来――筆者は、それまでのロバート・K・マートンを棄て、アーヴィン・ゴフマンの所論に重点を移動させた。その折、ゴフマンがときにジンメルの、例えば「社交」論に言及するのに出会でくわすことはあった。だが、従来の「形式社会学」に対する勝手な思い込みも手伝って、なおジンメルその人の所論に注目しようとはしなかった。しかるに今回、「書評」の機会を与えられたおかげで、奥村さんの「距離という謎」と銘打たれたジンメルへの解説を熟読し、ことに「社交と自由」→「差異の個人主義」と小見出しされた最後部分に至って、なぜゴフマンがジンメルに言及するのかの理由も含めて、よくよく分からせてもらえた。私にしてこんな有り様だから、学生というより、むしろ大学教員になっている方々に広く本書をお奨めしたいと申して筆を擱く。

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