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書斎の窓

連載・対談

社会学はどこからきて、どこへ行くのか?

第2回 社会調査と社会学の変貌

東京大学大学院情報学環教授 北田暁大〔Kitada Akihiro〕

龍谷大学社会学部准教授 岸政彦〔Kishi Masahiko〕

 こないだ僕の大阪の研究会に北田さんが来てくれて、こんな話になりました。たとえば「社会意識」っていうときに、ものすごく全然違う2つのものを一緒に社会意識って呼んでて、1つは見田宗介の『まなざしの地獄』とかが代表です。あれは極端な例から、同時代の集合的な「社会意識」というもののあり方を抽出して、で、こうなる! みたいな。それが社会意識論って言われていた。

 でも、じつは社会意識論って、同じ言葉で同じ授業で、ほとんどの大学でされているのは、社会心理学者がゴリゴリの計量でやってるやつだったりします。それも社会意識論って言われていて、たとえば、ケガレ意識が強い人ほど部落差別をする人が多い、みたいな感じのクロス集計、回帰分析をひたすらやっている。じつは量からいえば、そっちのほうがメジャーな社会意識論だったと思うんですよ。

 けっきょくのところ、1990年代の社会学というのは――さっきの『嗤う日本の「ナショナリズム」』でいう社会分析ってどういう意味ですかって聞いた意図はここにあるんですが――90年代に僕らが一生懸命に読んでいた社会学、しかも一般の出版社とか読者からニーズのある社会学っていうのは、けっきょくのところ社会調査をまったく経ない、要するに社会分析というか時代診断だった。たとえば10年くらいごとに時代を区切って、1980年代は「○○の時代」、90年代は「××の時代」みたいな感じで。そんな10年くらいで簡単に変わるかよ、とかって思うんですけども。まあ、でも一般的にそういうことをやるのが社会学だと思われてきた。そのニーズはいまだにあって、何人か若手の方でもそんなようなことをやっている。ただ、僕自身おもしろいと思って読んでた読者なんで、北田さんが調査史の研究を始めたのは、純粋にこう「不思議やな」と。それぐらいの気持ちでおります。北田さんが社会調査っていうのがすごい不思議。

北田 これからオリジナルな社会調査自体をかっちりやるというのは、力量的にも年齢的にも難しいところはありますし、だいたい一朝一夕でできることではない。僕ができることというのは、歴史社会学的・知識社会学的な観点から見たときに、社会調査の歴史を異なる形で描いていくことだと思うんです。なかなかに大きな風呂敷ですよ。で、ちょっと話に戻りたいと思うんですけど最近『日本において都市社会学はどう形成されてきたか――社会調査史で読み解く学問の誕生』(松尾浩一郎、ミネルヴァ書房、2015年)という本が出ましたよね。あの本で扱われている奥井復太郎とか磯村英一とか、メディア研究なら小山栄三とか竹内郁郎とか、そういういまの若い人だと知らないような人たちの調査を、歴史的に再構成していくと「理論史」とは異なる日本社会学史、つまり社会学という学問と行政と大学制度と地域社会、地域住民との関連なども見えてきて、まったく違う学史が描けると思うんです。お金の動きも重要です。人件費を除いて研究費ベースで集計してみたら社会学の中心点はもしかしたら都立大とか大阪市大とか東北大にあったかもしれません。社会史としての社会学史をみていくには調査という社会的実践に焦点を当てると、高田保馬から富永健一、吉田民人までといった学説史とは違う社会学の魅力が見えてくるんじゃないか。

 大阪だと大阪市大の社会学教室と同和問題研究室(現:人権問題研究センター)ですね。戦前に大阪市社会局が関西のスラムや貧困地域の実態調査を精力的にやってますが、大阪市大の社会学教室がそのあとを継ぐ感じで、戦後に調査をたくさんやってます。10年ほど前にも、大規模なホームレスの実態調査をしています。私の友人や後輩も、多数関わっています。あるいは、同和対策事業が始まる前から、大阪市大の社会学者は、貧困地域でもあった被差別部落の調査を担ってきました。同和対策事業が始まってからは大阪市大に同和問題研究室が設立され、ここが調査と研究の拠点になりました。そこでの調査の手法や分析結果は、確かに予算や調査対象との連携という要素抜きには考えられないですね。どこでどのような調査がなされ、どのような結果が出たのかという視点から書かれた日本の社会学史って、確かにまだまだ少ないかもしれない。

北田 アメリカではラザースフェルドの薫陶を受けたオーバーシャル以降、そうした社会学史研究がものすごい勢いで出てきていて、出版件数だと学説史を凌駕しているようにみえます。コントの三段階論を暗記することから始める社会学史よりは、どんな社会的・制度的背景の中でル・プレが調査を始めたのかとか、シカゴ学派が同時代の社会調査運動とどういう関係にあったのか、それを可能にした理由空間や制度的背景はなにかとか、そういうところから始める社会学史の教科書のほうが「経験的」な学としての社会学にふさわしいのではないか、と思っています。あと論点別のギデンズの連字符社会学のアラカルトはどうにも僕には魅力的にはみえませんし。で、そうした観点から社会学を見ていくと、東京府や市、大阪市といった地域行政と国家との関係性や「統治」「改良」の重要な道具としての社会調査史をもとに学史を振り返る、ということになるでしょうか。さっきの松尾さんの本でいえば奥井はなぜあの時代にわざわざ鎌倉を調査地とし、何をどのように調べたのか、それはいかなる社会的行為であったのか、そういうことをみていくと、調査法と理論史を別個に考える必要はなくなる。調査の社会史は佐藤健二さんがすでに重厚な本を書かれていますが、僕としてはもうちょっとどうしようもない事情、つまり大学の制度や、行政との関係、財源の問題などに光を当てたものを考えたいんですね。学説史にでてくる人物が大きく変わりますよ。アメリカでいえば、オグバーンとかチェイピン、オダム、ラムル、バーナードといったたぶん日本語で読める学説史教科書に出てこない人物が重要性を帯びてきて、パーソンズやブルーマーの影は相対的に薄くなる。松尾さんのああいう本はけっこう僕にとってはどんぴしゃな感じでした。

 で、逆に言うと、そう考えるとあらためて見田宗介さんはやっぱり偉いんですよ。だって、調査系が主流だったはずなの。SSMとかだけではなくて全体的な配置として。あとはマルクス主義の流れとか、ウェーバーを中心とした学説史という人がドミナントななかで、ああいう「派手なこと」ができちゃった辺りは、天才ですよ。

 天才やな。なるほど。

北田 とりあえずアメリカ的な社会学や社会心理学の同時代的な理論を体系的に捉えた『価値意識の理論』とか、独自の物象化論を展開する『現代社会の存立構造』とかで、まず理論派をだまらせる。パーソンズ系とマルクス系の両方に物凄い筆力の理論書を投げる。そうしたうえで、実存的な側面を隠さない永山則夫の分析(『まなざしの地獄』)とか『気流の鳴る音』『近代日本の心情と歴史』で思想青年のアクチュアリティを求めるニーズに応える。そんなことは彼ぐらいにしかできない凄い芸当だったと思うんです。だから、見田さんは本当にすごい人だと思う。ただ、そのすごさが逆に、地と図を反転させてしまったところがメディア論壇的にはあったとも思う。脈々とあった調査の蓄積としての社会学というものがメディアに見えにくくなった。逆に言うと、見田さんのような人がいたからこそメディア、論壇が社会学という地味な学問に関心を示すことになった。たとえば、磯村栄一とか奥井復太郎とか、京大系でいけば、あんまり調査はしなかったかもしれないけど米田庄太郎とか、そういう人たちの名前を、今の社会学部修士M1のどれだけが知っているか。知らなくても生きていけるでしょ?

 うん。

北田 だけど、アメリカで社会学やろうとしたら、パークの教え子がなにやったか知らないで生きていくことはちょっと難しい。少なくともシカゴ学派以降、ラザースフェルドらが制度化したアメリカ的な調査史の展開は、どこか現在の調査と通底している。だからたとえばロビンソンの原著論文を読んでなくても生態学的誤謬の話というのがシカゴ学派の生態学モデルを標的にしていたといわれれば、その概念の統計学的意味だけではなく、歴史的意味も理解することができる。ラザースフェルドのエラボレーションもそう。彼らが何をなんのために、どういう同時代的な技術の水準で調査をやっていて……という話がアメリカの場合はトレースしやすいと思うんですよ。だからこそ80年代以降のアメリカでの学史研究がどんどんそういう社会史的な方向性をとっているのだと思います。そういう場ではミードやパーソンズ、マートンのような教科書に太字で出てくる人たちのテクストも異なって見えてくるはずです。そういうのがない状態で、標準的な教科書が、大文字の偉人伝、「分析対象の性質」で区分けするギデンズの鈍器本だといわれるとちょっと首をかしげたくなるんです。お金と人材を要する調査という社会的実践から学史を見直すと、学史を学ぶこと自体が調査法を学ぶこと、理論を学ぶこと、社会史を学ぶことにもなる。そういう学史を読みたいというひとたちで集まってわいわいやろうというのが、酒井泰斗さんとやりはじめた日米社会学史茶話会の狙いです。

 とても面白いと思います。でね、東京のほうでは北田さんがそういうことをしてて、僕は大阪で、ほんまに地方で周りの社会学者だけ見ていったときに、別のルートから同じ結論に至ってるんです。

 たとえば、実は日本の社会学、特にマイノリティや差別といったものを対象とした社会学的研究は、この20年ぐらい、極端にいえばかなり停滞している部分があります。もちろん、障害学など、非常に先端的な研究を蓄積している分野もたくさんあるのですが、すくなくとも日本の調査系社会学の一部には、停滞していた部分があると言ってもいいと思います。

 いろんな要因があるんですが、ひとつは、戦後の「社会病理学」的な、逸脱やマイノリティの存在を社会の「病理」と捉えるような権威主義的な視線が、70年代以降の政治状況のなかで根底的に批判されていった結果、研究という実践が内在的に持つ「権力性」みたいなものが、社会学のなかで批判されていきます。それ自体は正しいことだったんですが、それによって、調査というものがそもそも暴力なんだ、ということまで言われてしまいます。時代的にも、カルチュラルスタディーズやポストコロニアリズムなどの議論が輸入されてて、サイードやフーコーのある種の解釈が流行して、研究すること自体が対象をカテゴリー化する権力だと言われるようになった結果として、ベタな実態調査が非常にやりにくい状況が続いていました。

 ただ、そのために、こんどは逆に社会学自体の説得力が失われていったのではないかと思っています。これはほんの一例ですが、僕は90年代から00年代にかけて、あの有名な(笑)「黒木掲示板」で遊んでいたんです。東北大学の数学者である黒木玄さんが主催するネットの掲示板で、分野を横断したさまざまな研究者やインテリが集まっていました。理系の人もたくさんいたんです。それで、そこで他の人と論戦をしていると負けるんですね。ポスコロとかポストモダンとかやと。ボコボコにされてしまう。私がボコボコにされたわけではないですが(笑)。そこに稲葉振一郎さんもいたんですけど、稲葉さんがいつも強調してたのは、けっきょくその愚直な事実の積み重ねがないと、ほかの領域の人への説得力がでない、と。なにか「調査という暴力」を批判して、「リアリティが構築されてるんだぞ」とか「常識破壊ゲームするんだ」っていうのは、社会学の狭いムラのなかでしか通用しなかったんですね。

 それで自分なりに調査を少しずつやっていくんですけれども、ちょうど時代的に社会調査士の課程が始まっていくんです。僕はその第一世代で、ちょうどCOEの制度も始まって、わりとその辺のところで仕事貰って博論書いたりってのをしてたんです。関学大とかで最初の社会調査士が始まるときに、たとえば僕が「質的調査」の非常勤で入っていたりとかしてたんですね。間近で見てたんですよ。こんなの成功するのかと、本当にいけるのかなと思っていたら、あっという間に全国に広がって、かなりガッチリした組織になった。資格の知名度とか実効性としてはまだまだこれからだと思うんですけど、わりと学生にとってはわかりやすい目標になっている。社会調査を中心としたカリキュラムがあっという間に全国の大学で整備されて、日本中の大学の社会学のカリキュラムが、わずか10年くらいの間に激変したんです。とにかくものすごい変わって。

 それより前っていうのは、ふた昔前の、それこそコントから始まってパーソンズいうてマートンいうてルーマンいうて、みたいな話。社会学偉人伝みたいな(笑)。それが一挙に変わったんですね。ちゃんと調べたわけではないですが、調査系のポストも増えたような気がします。

 これはいろいろなところで言ってるんですけど、文科省で大学院重点化の政策が始まって、みんながすごいボロカスにいうんですけども、僕は「すごいええな」と思ってて、あれで若手が博士号とるようになって博論の出版点数がすごく増えたんですね。そうすると、それがほとんど調査の本なんですよ。なんらかの調査をしている本がすごく増えた。だから、これで社会学がすごく「世俗化」されたと考えてるんです、この10〜15年の間に。僕らよりも上の世代からすると「社会学の現実を批判する刃が削がれた」みたいな感じでいう人も多いと思うんですけども、僕はすごくいいことだと思ってる。あんまりロマンチックな想いを持っていないので、社会学に。たんなるツールでいいんです。世俗化されて、ふつうの社会問題をふつうに研究するふつうの学問にこれでやっとなれるな、と。そんなふうに思っていたところに、それまでわりと派手なことをしていた北田さんが社会調査の歴史を掘り起こす作業を始めた、みたいな感じなので。



 以下はウェブ版のみに掲載しています。


北田 いや本当に僕は日本社会学史に無知で昔『社会学評論』のフィールドレビュー書くために学説史読んでいても苦痛で仕方がなかった。でも、川野英二さんとかのSNSとかを眺めつつ昔の調査を軸に日本社会学史を読みなおしてみたら無茶苦茶面白かったんです。ああ、日本の社会学者とか全然知らなかったけど、ちゃんと現在にいたるつながりがあったんだなあ、と。川野さんってスーパー社会学者じゃないですか。量的調査も質的調査も理論も学説史も、日本語・英語・フランス語を時代をまたいで全部やってる。質問すると優しく教えてくれるし(笑)。ああいうスーパー社会学者と知り合いになれたことも自分の頭のなかの社会学像の大きな転換点になりました。

 それで自分の相対的に知ってる分野だとマス・コミュニケーション研究になるというわけでまずはラザースフェルド、となったけれどもどうも彼は単なるマスコミ研究者ではなく、アメリカ社会学自体を制度的に作り上げた人だと分かってびびったわけです。日本の社会学の教科書にほとんど出てこない人なのに! これを日本で考えると、さっきちょっと話に出てきましたが、日本独自の社会意識論をそのうち取り上げてみたい。これ、さほどの根拠なく思いつきで言ってることですけど、日本で当然のように使われる「社会意識」という言葉、かなり特殊な言葉だと思うんです。学会の部会になったりするわけですが、英語圏でsocial consciousnessを社会学の下位分野として捉える思考はないんじゃないか。20世紀頭の文献みてると少しだけみかけるのですが、それは欧語の一般的なニュアンス、つまり「社会的な意識・自覚」、政治的コミットメントについての自覚的態度のことを指しています。翻って日本では「社会意識論」はほとんど「文化論」と同じように「上部構造」の話なんですね。どこら辺に基があるんだろうと今調べている最中ですけど、おそらく城戸浩太郎とか見田宗介とかが若い頃に論争をかましていた頃。その頃に、マルクス主義の上部構造論、イデオロギー論との距離関係のなかで前景化してきたのではないか、と睨んでます。

 ルカーチとか?

北田 そうそう。あとフランクフルト学派などの西欧マルクス主義の系譜。とてつもなくマルクス主義の力が強かった日本の知的環境のなかでアメリカ的価値論、態度論、そして調査方法を繋げていく、という課題のなかで「社会意識」という不思議な概念が重要性を与えられたのではないか、と。「マルクス主義 meets アメリカ」の場としての『思想の科学』あたりはそういう観点から考え直してもいい。城戸、見田、南博から飽戸弘、佐藤毅まで、アメリカ的計量分析にふれつつ、理論的にはマルクス主義も継承している世代の社会学、社会心理学の動向は面白い。社会心理学が完全に計量シフトをとる前の世代ですね。あのあたりから社会心理学と社会学の方向的分岐が本格化するわけだけど、「社会意識」っていう言葉自体が、日本に馴染んでいたマルクス主義と、アメリカ型の計量的な社会学とが調査という実践を再考するなかで表に出てきたんじゃないか。こういうの1つとって見ても、城戸浩太郎なんかむっちゃ早く死んじゃって、たぶん30歳くらいで死んじゃったでしょう? むちゃくちゃ天才だったって吉川徹先生の本(『現代日本の「社会の心」』有斐閣、2014年)にも書いてあったし、三浦展さんとかもSNSで「むっちゃすごかった、キラキラしてた」とかって書いてたけど、あの人が夭逝していなければぜんぜん社会学会が変わっていたかもしれないですね。見田さんは、いわゆる計量からは撤退しちゃうんだけど、城戸さんが存在し続けていたら、異なる社会学の展開、あるいは異なる見田宗介があったかもしれない。そしてそれは、戦前以来の調査の歴史を引き継ぐ大きな山を形成していたかもしれない。

 なるほど。

北田 ただ、それはなかったわけです。あくまで「イフ」。でも、こういうのを掘り起こしていくだけでも、一体感というか、連綿とした流れのなかにちゃんと自分がいて、何をすべきかということが考えられるっていうのは、一応、社会学をやっているものとしてはですね。

 自分探し?

北田 うん。でも自分探しっていうよりも……。だってさ、ウェーバーとかコントとか、そういうところから始められてもリアリティがないわけじゃん、ふつうは。それがリアリティをもって感じられるためには、この人たちはなんのためにこんなところ調査してんだろう、ということを理解しなくちゃいけない。だけどそれは歴史的教養が必要で結構ハードル高い。なので、日本であれば近くの大学で行われた調査をとりあげて、じゃあ歴史的背景と当時の大学のあり方を調べたうえで現地の史料館に行ってみようか、とかいうのは社会学の導入にとってもいいと思うんですね。いま学生のリアリティをつかもうとすると僕の場合SNSとかサブカルの話になっちゃう。全然サブカル好きじゃなくてもそういう学部生向けの講義をしている人も少なくないと思う。でも岸さんとか川野さんはリアリティにあわせるんじゃなくてリアリティを持たせることができるわけで、そういうほうに自分の関心が移ってきたという感じ。残念ながらサブカル話の「きただせんせい」の講義はもうしないんじゃないかな。

 岸さんが言ったように専門調査士が制度化されていったのはとてもよいと思うんです。またいろんなところが統計セミナーを開催している。学内での科目も充実していく。そういったなかで、歴史と理論と方法の習得が「調査」を媒介に、ある程度標準化されていくというのは、要するに共通言語が増えていくということでとてもいいと思う。名人芸の競い合いではなくて共同作業、まさしく社会的行為としての調査。自分の研究の方向性とは別に、「そういうふうになっていくのは好ましいな」と思うんで、岸さんがいう「ふつうの学問」になっていくのには大賛成。僕は、そういうふつうの社会学を作りえた国がアメリカなんだと思うんだけど、でもそれは、別にアメリカ的精神がどうこうというよりはいろんな偶然が重なった所産でもある。そのあたりを考えたいというところかな。

 『理不尽な進化』(朝日出版社、2014年)を書かれた吉川浩満さんとも話していたんだけど、すごく偶然が大きかったと思うので。決してあれはアメリカが頭がよかったから、とかではなくて、すごい偶然があった。「黒人解放がなされて北部に黒人が移動してなければ」「第二次移民たちの移動が知能検査の開発時期と重なっていなければ」「独特の大学院重点化を実現したジョンス・ホプキンスやシカゴ大学が誕生していなければ」「そのシカゴ大学のある地域があれほどまでに移民が押し寄せる都市でなかったら」「一次大戦がなければ」「ニューディールがなければ」「ラジオというメディアがこの時代に誕生していなければ」「ドイツ圏から亡命知識人たちが着ていなかったら」「二次大戦がなければ」。こういう異様なまでの偶然事がアメリカで起こり、ほぼ同時に制度的に誕生したアメリカ社会学がこうした偶然事がもたらしたニーズによって財源と人員を得ていった。本当に理不尽な僥倖により、ドイツとフランスで停滞を余儀なくされた時期に社会学はアメリカで「社会調査専門家」の職能団体として成長した。理不尽に絶滅じゃなくて、理不尽に成功したわけです。この理不尽さが僕にとっては謎で、いくつかの「他でありえた」可能性を棄却して成立した経緯を見ていきたいんです。

 日本に手を着けるのは当分先のことになると思いますが、日本は全然異なる知的風土にあったわけで、全然異なる歴史観が必要でしょう。しかし、現在の日本で社会学をやるということの意味を考えて次世代に伝えていくには、そうした作業を自分のできる範囲内でやっていきたい。中堅世代になってあらためてそう感じています。あともうひとつ。これは意外に勘違いしている人が多いんだけど、日本の社会学って先進国のなかでは例外的ともいえる感じで規模を維持しえているんです。アメリカとかイギリスでも、もう制度としての社会学は絶滅に向かっているともいえる。

 それこそ理不尽な絶滅(笑)。

北田 理不尽もいいところ。本当に隕石が落ちてきたかのような感じで。アメリカ型社会学はグローバルになっているけど、アメリカ国内の制度としての社会学には、もはや過去の栄華の欠片も見えない。

 ほう。

北田 イギリスは社会調査について別系統が強かったから社会学の制度化の出発時点自体が遅れがあったところ、やっとこ立ち上がってきたころにはサッチャーにおとり潰しされていく。アメリカでも70年代以降アメリカ社会学会員は減少の一途をたどっているし、社会科学における社会学のプレゼンスはラザースフェルドたちの時代とはくらべものにならないぐらい落ちている。アメリカ型社会学は世界中に広がってますが、アメリカの大学社会学そのものはかつての栄華のかけらもみえない。ドイツにしてもそうで、日本ではウェーバーからハーバーマス、ルーマンに至るまで翻訳や研究がおそろしいぐらい出ているし、実際にズーアカンプでもかれらの本は売られまくっているから、「やっぱり本場は違うな」といいたいところですが、財源的・人員的には弱体化の一途をたどっている。日本のほうが例外といえる。フランスは知らないけれど、米独ではそんな感じ。

 でも、それはお金が入ってきてて、社会調査をやってきてたんでしょう?実績はあるわけでしょ?それでも消えた?

北田 消えつつある。

 なぜ?

 

第3回 必要とされる社会学と調査史

 

※本連載は新収録の内容を加えて単行本化されました。ぜひご覧ください!  

『社会学はどこから来てどこへ行くのか』

 

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