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書斎の窓

自著を語る

『企業の経済学 ――構造と成長』の刊行に寄せて

東京大学社会科学研究所教授 中林真幸〔Nakabayashi Masaki〕

大阪大学大学院経済学研究科教授 石黒真吾〔Ishiguro Shingo〕

中林真幸,石黒真吾/編
A5判,388頁,
本体3,800円+税

1 ひとつながりの企業像

 経済学部において教えられている世界は、ざっくり分けると、およそ、市場の経済学と、組織の経済学から成っている。入学して先ず習う入門的なミクロ経済学やマクロ経済学においては、市場がどのように資源配分の機能を果たすかを学ぶ。この世界において、企業は消費者とともに、市場参加者として現れ、財やサービスを供給する。

 学年が上がるとともに、この線の上級科目を学ぶようになる。市場は完全に競争的な場合もあれば、不完全に競争的な場合、たとえば、寡占の場合もある。と同時に、市場に代わって資源配分を行う仕組みとして、企業の内側を腑分けしようとする科目も学ぶことになる。

 保険会社が新規契約者の獲得を代理店に委ねるならば、保険会社と代理店の取引は市場取引であり、手数料は市場価格として定まり、営業に必要な人的資源の配分もこの市場価格によって決まる。しかし、保険会社が、新規契約者の獲得を、自社が雇用契約を結んだ労働者によって構成される営業部隊に任せるならば、彼、彼女たちに支払われる努力の対価は賃金となり、これは、社内の給与規程に従って支払われる。人的努力の配分は、市場競争によって分権的に決まるのではなく、企業の経営者によって集権的に計画される。そして、計画された努力配分に近づけるために、市場価格ではなく、経営者が決めた給与体系が労働者に提示される。この給与体系が示す通りに活動した場合の期待利得が、逸脱した場合のそれを上回っていれば、労働者はその通りに活動し、経営者が求める成果が、概ね、達成される。こうして、個々人が価格に追従する分権的な市場ではなく、経営者による計画が、分権的な取引によって定まる市場価格ではなく、経営者が設計する誘因を通じて、資源配分を担うことになる。

 こうした代替的な資源配分の仕組みは、契約理論、組織の経済学、あるいは企業の経済学と呼ばれる科目において学ぶ。合わせて、経済史や日本経済論など、実際の経験を学ぶ科目においても、内部労働市場の形成など、企業の内側に焦点を当てた話題が語られる。

 一方、ゲーム理論や契約理論においては、市場の代わりに企業が資源配分を行う方が望ましい場合がありうる、その背景を学ぶ。取引当事者にとって重要な情報が非対称的であるとき、それが契約の前であれば、たとえば取引対象物の性質を偽ることによるアドバース・セレクションを惹起するかもしれないし、契約の後であるならば、たとえば、働く振りをして怠けるといったモラル・ハザードを引き起こすかもしれない。これを防ぐための方法のひとつが、取引を市場から組織内部に引き上げること、つまり、代替的な資源配分の仕組みとしての企業を作ることである。このとき、人々の関わり方は、市場における、互いの顔が見えていない匿名的なそれから、互いに顔の見えている、戦略的なそれへと移行する。ゲーム理論においては、非対称情報下において重要な意味を持つ、戦略的な人間関係を学ぶ。安定的な人間関係は、それが上手く行っている場合もそうでない場合も、すべてナッシュ均衡としての性質を満たしており、そして、企業形態や企業間関係の多様性も、異なる種類のナッシュ均衡に基礎付けられていることを知ることになる。

 このように、現代人の経済生活において大きな位置を占めている企業は、経済学を学ぶ4年間に、様々な科目において、異なる切断面を分析されている。それらを総合すると、卒業後、学生諸君が起きている時間の過半もしくは大半を過ごすことになる企業の全貌が浮かび上がってくる、はずである。

 しかし、実際に、そうした企業像が経済学部に学ぶ学生諸君に届いているかとなると、相当に疑わしい。怠惰な学生だけでなく、勤勉な学生にとってすらも、つかみにくい絵かもしれない。日本の大学は、良くも悪くも、狭く深く学ぶことを尊しとする傾向がある。日本人が間違えやすい英語表現のひとつに、I’m majoring XXXがある。Department of Economicsに学ぶならば、What’s your major?の答えはEconなのだが、つい、Game theoryとかGrowthとかEcon history等と応えてしまう。実際の学び方においても、ゲーム理論を極めると決めたらば、定評ある教科書をぼろぼろになるまで学習し、体得しようとしたり、あるいは、より専門的な論文を読んだりする一方、その理解を市場の経済学や組織の経済学とつなげて、何か具体的な対象を、たとえば、企業を、総合的に理解しようとする努力は、ともすれば、素人的なそれとして軽視したりする。

 これは経済学に限ったことではない。編者の一人、中林は文学部国史学専攻(昭和時代までの名残で、その頃、日本史学研究室は國史学研究室と呼ばれていた)の出身であるが、国史学専攻に進学した学生は古代史か中世史か近世史か近代史を「専攻」し、日本通史をまとまって学ぶことはない。そもそも国史学科の教員が提供する科目に通史は存在しない。「日本史」は高等学校で学んだのが最後で、大学の日本史学科で学ぶことはない。おそらく、「狭く深く」は日本の大学の学部教育を部局横断的に支配している文化ではないかと思われる。

 社会科学としての経済学が、現実に総合性を欠いているのであれば、狭く深く学ぶ勤勉な学生諸君の努力に水を差す必要はない。しかし、実際には、分析したい対象に応じて多様な断面を切り取ってくることができるように細分化されているに過ぎず、継ぎ合わせたときに統一性が保たれるよう、相互の互換性は確保されている。たとえば、企業を総合的に理解したいとすれば、組織の経済学も、市場の経済学も、互換性を持った道具として強力に役に立つ。それをひとつの本で示しみたいと考えた。それが、本書を編むにあたっての出発点であり、基本的な姿勢である。

2 本書の成り立ち

 石黒と中林は、2010年に『比較制度分析・入門』を友人たちとともに有斐閣から出版している。最小限のゲーム理論と契約理論を学び、それを用いて企業の内側を理解しようとする試みであった。中林は、慶應義塾大学商学部の「現代企業経営各論(企業制度)」という科目を、この『比較制度分析・入門』を教科書として担当しているが、「企業」という対象物の働きを理解するために経済学を学ぼうとする、目的志向的な姿勢を持つ学生諸君に、好意的に受け止められていると感じている。

 本書は、『比較制度分析・入門』における柱であったゲーム理論と契約理論を引き続き中心におきつつ、市場の経済学を強化し、かつ、各章の専門性を高めた、その意味で、続編であり、発展編としての性格を持っている。もちろん、編者を含む執筆者の思いとしては、という意味であって、作品としては、前著とは独立に、自己完結的に読めるように編集されているのだが、編者らの思いを察して下さった担当編集者の藤田裕子さんの取り計らいで、装丁をそれらしく仕上げていただいた。

 前著と同様、本書は、2006年から続けている制度と組織の経済学研究会(https://sites.google.com/site/theoeio/)の成果の一部である。学期中に大阪大学大学院経済学研究科にて月例会を、春夏の長期休業中に東京大学社会科学研究所にて小さな国際会議を催しているこの研究会は、ミクロおよびマクロ、理論および実証の混成で、それぞれの専門家が、自身の研究成果について、その内容を薄めることなく、異なる専門家の前で発表する場である。異なる視角から投げられる指摘は報告者にとって貴重な気付きの機会となるし、聞き手にとっては最先端の成果を希釈無しに耳学問できる得難い場となっている。会の後の酒席においても、たまに真面目な話をするのだが、そうした席において、偏狭な中林などは、石田潤一郎や清水崇がその広い視野を前提に発する手厳しい言葉にしばしば蒙を啓かれた。「チープトーク」という非常に専門性の高い研究に取り組んでいる清水が、他の研究、他の世界と高い互換性をその思考において保っていることは、そうした顔の見える議論によってより良く理解することができた。石田と清水が、「人間関係」のそもそもを論じ、そして「組織」、「市場」へと拡げながら企業を語る構成も、研究会やその後の談論のなかで自然と固まった。

3 読み方

 本書を編集するにあたって、執筆者には、最短距離で専門的な研究成果を理解できるように書くことを依頼した。具体的には、専門的な研究の、最も重要な結論は省かず、薄めないこと、同時に、自己完結的に読めるよう、数式展開や実証の手続きの途中経過を省くことなく書くこと、を求めた。これによって、入門的な科目を履修した学部上級生や大学院生には、手を動かしながら読めば、総合的な「企業」像を自分のものとして会得できるように仕上がっているはずである。序章によって概観をつかんだら、第1章以降は、じっくりと、特に理論の章は、手を動かしながら読んでいただければ幸いである。

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