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書評

『法哲学』

新世代の専門的標準型教科書

近畿大学法学部准教授 松尾陽〔Matsuo Yo〕

瀧川裕英・宇佐美誠・大屋雄裕/著
A5判,416頁
本体2,800円+税

0 はじめに

 批評とは、批評する対象との距離を確認することを通じて己の姿を見定めることである。法哲学を研究し、法哲学を講ずる評者が他の研究者の手による『法哲学』という教科書を評するときにも、ことは同じである。相手を評する言葉は同時に自らの反省を迫る。本書評を通じて、自らの反省を含めて法哲学教育の在り方を考え直してみたい。

 書評対象の『法哲学』(以下、本書)の執筆者は、三人とも昭和40年代生まれという気鋭の法哲学者である。本書の特徴を一言でまとめれば、英米系の法哲学を主な素材として、法学部生を対象とした専門的で標準的な教科書である。これよりも大体10歳上の三人によって執筆され、有斐閣アルマシリーズの1冊として刊行された平野仁彦・亀本洋・服部高宏『法哲学』の次世代となる教科書である。

1 さまざまな教育的配慮

 法哲学の教科書には、標準型と個性型の2種類がある。個性型の教科書の場合には、論点の説明の際に、一人の著者の問題関心が色濃く反映され、標準的な説明を批判しながら議論が展開されている。個性型の教科書は、読み物としては非常に面白い部分があるが、しかし、標準的な説明を知らない初心者を置いてきぼりにし、また、教員側からしても、その問題関心に相当習熟していないと使い難い。本書は、三人の共著であり、しかも、テーマだけで割り振ってあとは各自の裁量に任せるタイプの教科書ではなく、各自の研究関心は相当抑制されている。問題の捉え方からして一致をみることが少ない法哲学者が三人も集まって、自己の研究関心を抑えて標準的な説明を追求すべく4年も会議を継続するというのは、想像を絶する作業である。

 また、各チャプターの扉に具体的な事例を提示し、また、説明の途中にも、いくつか具体例を提示することを通じて、学生に具体的なイメージを伝えることへの十分な配慮が本書には施されている。また、重要なキーワードは、太字にするなど、学習者がどのコンセプトを中心に勉強をすればよいのかに対する配慮もある。

 しかし、取り上げられる論点の取捨選択は標準的ではないところもある。本書は、〈法とは何か〉という法概念論(第Ⅱ部法概念論)と、〈法は何であるべきか〉という正義論(第Ⅰ部正義論)という2つの問いのもとに体系的に整理されているが、特に第Ⅱ部に関わる。この点は3で触れる。

2 公共政策と正義論――第Ⅰ部正義論について

 第Ⅰ部「正義論」は、(第Ⅱ部のハートほどではないが)1971年に登場したロールズの『正義論』が一応の軸となっている。ロールズが正義論を構築するにあたって主要な批判対象とした功利主義から始まり、そのうえでロールズの正義論(Ch.2)、自由(Ch.3)、平等(Ch.4)、権利(Ch.5)、正義論の最前線(Ch.6)の順に説明されている。

 ロールズの正義論の説明については、その課題である「社会の基礎構造」の意義をもう少し説明してもよかったのではないかと思われる。というのも、経験上、かなり多くの学生が、正義論に関して、人殺しは悪い、盗みは悪いというような「個々の行為の正しさ」を扱うイメージを抱いており、「社会の基礎構造の正しさ」を追求するロールズの企図はなかなか理解してくれないからである(1)。むしろ自由(Ch.3)における、ミルの危害原理やパターナリズムの議論の方が「個々の行為の正しさ」の問題になじみやすい。

 このことに関連して、本書の第Ⅰ部には、広がりを持った内容があることを指摘しておきたい。まず、正義論自体は、政治哲学や哲学の一分野として語られることもあるので、必ずしも法的議論と結び付くわけではない。たとえば、平等(Ch.4)では、積極的差別是正措置などの問題ではなく、貧困や格差の問題がとりあげられる。貧困や格差の問題には、権利義務を直接左右する法的な問題というよりも政策的な問題が多く含まれている。

 政策的な問題だから法哲学の教科書で取り上げるなという話ではない。法学部の多くには、政治学を専門とする教員が所属し、法哲学と関連の深い「公共政策」という科目が設置され、また、その少なからぬ卒業生は、中央であれ地方であれ、政策形成に携わる。そうした法学部の実質に鑑みれば、正義論を積極的に公共政策との関係で位置づけることも必要ではないかと思うし、また、本書は、平等(Ch.4)のみならず正義論の最前線(Ch.6)も含めて、公共政策的な内容を多く含んでいる(さらにいえば、三人の著者は公共政策にも造詣が深い)。

3 分析法理学の意義と限界――第Ⅱ部法概念論

 本書第Ⅱ部の「法概念論」では、基本的には、第二次世界大戦後の英米流の法哲学が説明されている。その中心には、H・L・A・ハート著『法の概念』が存在し、第Ⅱ部の大半を俯瞰する、ハートを中心にした、他の論者との関係を示す相関図が提示されている(本書193頁)。ハートの法実証主義の概略(Ch.7)、自然法論の歴史の概略と、ハートと現代的自然法論者らとの関係(Ch.8)、ドゥオーキンも含めた現代法実証主義論争(Ch.9)、ドゥオーキン自身の法概念論(解釈主義)(Ch.10)、批判法学とその後の展開(Ch.11)が説明されている。遵法義務論を説明するChapter12は、第Ⅰ部における正義論と第Ⅱ部における法概念論とを架橋する役割を担っている。ドゥオーキンの議論を、ルールに対する原理論、規約理論に対する解釈主義の2つに分けて整理されている点は、非常にわかりやすい。

 第Ⅱ部は、ハートを中心に据えている点から、英米流の法哲学の中でも、イギリスの分析法理学の伝統に多く依拠しているといえよう。このことは、第Ⅱ部の表題を法概念論としていることと関連し、本書の議論を深めると同時に狭めている。まず、ドゥオーキンの議論は法概念論ではなく裁定理論であると位置づける見解があるけれども、本書ではあくまで法概念論の枠組みから彼の議論を位置付けている。次に、法概念論を中心とするゆえに、事実認定の在り方なども含めた、(主にドイツで発展している)法律学方法論はとりあげられない。邦語文献では、田中成明『法理学講義』(有斐閣)、青井秀夫『法理学概説』(有斐閣)で補うしかないが、英米の裁定理論でもいろいろな発展があるところである(2)。さらに、機能主義的な議論が、ほとんど見られない。この点については、イギリスでも、社会–法学的研究の教科書(3)が存在するところである。このように法概念論関係の論点は深められているものの、こぼれ落ちる議論も多い。ロースクール用の教科書として使用するには、法律学方法論がある方が望ましい。

 あまりない物ねだりをしても仕方がないので、発展的な方向性を示しておこう。本書でも説明されるように、ハートの法実証主義は、法とは何かという問題と法に服従するべきか否かという問題を区分するという実践的理由に支えられている(219頁)。この点を踏まえて、マコーミックは、ハートの法実証主義を補完するのは、「現に在る法は常に批判や改革に開かれた状態になければならない」という批判的な道徳哲学なのであり、「リベラルな社会民主主義の代弁者」としてハートを位置付けている(4)。これは、ハートの法概念の機能ともいえる。

 また、このことに関して、2つの方向で本書を発展させることが可能である。1つは、このような批判的な道徳哲学に依拠する法概念それ自体は、すべての地域や国に妥当しうるものではなく、特殊なものである可能性がある。たとえば、批判理論(Ch.11)でとりあげられる開発法学の話とからめて、法多元主義の紹介があってもよい。もう1つは、「批判や改革に開かれた状態」の具体的なあり方として、民主政の話をもう少ししてもよかったのではないかということである(ウォルドロンらの議論がエピローグに少し登場するのみである)。もっとも、これらの点は、講義担当者が補えばよい。

4 方法論の後退

 本書全体についていえば、エピローグのところで、メタ倫理学などの論点はとりあげられているものの、方法論が遠景に退いている感は否めない。このことは、現在の法哲学(実定法学も含む)の議論状況を反映している。マルクス主義の科学観や歴史観と対峙することが求められた時代に登場したのが、メタ倫理学や定義の方法を詳細に説明した碧海純一著『法哲学概論』(弘文堂、1959年初版刊行)であろうし、また、来栖三郎による法解釈学の主観性、川島武宜における科学志向に対峙する形で、実践理性の復権の観点から法的思考の役割を再定位した田中成明著『法理学講義』(有斐閣、1994年刊行)であろう。

 これらの問題意識は執筆者のおよそ2世代上の研究者に観られたものである。代わりに登場する、本書のエピローグにおける方法論的議論は、第Ⅰ部や第Ⅱ部が前提にしていた方法を明らかにし、第Ⅱ部の議論を俯瞰するために叙述されている。いままでの議論を復習するための方法論にもなっており、学生に対して親切な教育的配慮がなされている。

5 結びに代えて――専門と教養

 最後に本書が「専門的」であることの意味に触れておきたい。ここで「専門」というのは、内容が高度だという意味ではなく、「教養」と対比的な意味合いである。本書が「専門的」であるというのは、公共政策論のような広がりを持つにせよ、基本的には、法哲学というジャンルの枠内にとどまるということである。

 「教養的」な法哲学の意義は、正義や法の外に立って、正義や法の役割を(一度)相対化することにある。法学部にどっぷり染まることの悪弊は、法的に物事を見すぎることにある。人間は法のみによって生きるにあらず。人間の生活には、生物的欲求、宗教、道徳、技術、文化という多様な局面がある。多様な局面の中に法を位置付けることが「教養的」法哲学である。たとえば、長尾龍一『法哲学入門』(講談社学術文庫)がその一例であり、そこでは動物行動学の知見を利用しつつ、人と動物の秩序の違いが説明されている。

 これに対して、本書は、法とは何かを内在的に考察しようとする点で専門的なのである。本書の読者は、法学部で法律の勉強を熱心にし、その延長でその基礎を考えたい学生であろう。評者は、本務校の大学で、法学部で法律の勉強に興味が持てない学生に興味を持ってもらうことに主眼を置いて、教養的法哲学を講じてきたが、反面、専門性を犠牲にし、意欲のある法学部生の気力をそいできたかもしれない。本書は、そのような学生に参照を求めることができるステップアップ先となるだろう。

 

(1)また、現代正義論の中心は分配的正義にあるが、しかし、たとえば、私法の基礎にどのように関わるのかも1つの論点である、cf. William Lucy, Philosophy of Private Law (Oxford U.P., 2007),327-9.

(2)たとえば、Frederick Schauer, Playing by the Rules(Oxford U.P., 1991),Cass Sunstein,Legal Reasonig and Political Conflict (Oxford U.P, 1998),マコーミック著(亀本洋他訳)『判決理由の法理論』(成文堂、2009)がある。

(3)たとえば、Galligan, Law in Modern Society (Oxford U.P., 2007)である。

(4)N.マコーミック(角田猛之編訳)『ハート法理学の全体像』(晃洋書房、1996)、83頁参照。

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