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書斎の窓

自著を語る

老書生交友鈔

『千曲川の岸辺――伊藤眞随想録』

日本大学大学院法務研究科客員教授 伊藤眞〔Ito Makoto〕

伊藤眞/著
四六版,298頁,
本体2,800円+税

 昨年(2014年)10月、『千曲川の岸辺――伊藤眞随想録』を上梓することができた。内容は、研究と教育の余滴に加え、最近8年間の体験を綴ったものであり、古稀を迎えたことを節目として、昭和20年(1945年)2月から始まる70年の人生に1つの区切りを付けられたように感じている。また、前半「折々の記」の中では、趣味などにも触れたためか、思わぬ関心を寄せていただいた向きもある。以下、頂戴したお手紙の中に記された印象などを軸として、若干の想いを誌してみたい。

1 千曲川

 河原での家族写真(拙著はしがき)は、昭和24年(1949年)頃の日常生活の雰囲気を感じていただければという気持ちで挿入したが、私より10歳ほど年少の方から、御自身が幼少の時代の風景を彷彿とさせるとの書簡をいただいた。1960年頃といえば、朝鮮戦争特需を経て、高度成長期前半にあたるが、首都圏や京阪神の大都市を除くと、地方の生活や風俗は、まだまだ戦後の面影を色濃く残していたのであろう。

 また、千曲川が、その流域に暮らす人々にとって親しみ深いのは当然であるが、島崎藤村の名詩によって、多くの方々に近しい情景であることを発見したのは、嬉しい驚きであった。

2 地域社会の創生と経済の活性化

 拙著20頁では、わが国の未来にとって、地域社会の維持・強化と、地域経済の活性化が最重要課題であることを述べた。昨年末に総選挙が行われたこともあり、いわゆる一票の較差に対する関心が高まっているが、この問題の背後にも、地方の人口減少があることを見逃してはならない。

 そのことは、最高裁平成23年3月23日大法廷判決(民集65巻2号755頁)における須藤正彦裁判官の補足意見中、「例えば人口の相対的に少ない県の中小都市等で、経済が活性化し雇用の場が豊富に確保されるなどして人口の流出や減少が生じないようにするために、有効適切な方策を講じて側面支援、環境整備をすることは、我が国にとって喫緊の重要課題であろう」との部分に端的に示されている。ご出身地にある足利銀行の再建など、弁護士として、地域経済について深い知見を有する、同裁判官(現 弁護士)ならではの説示である。加えて、地域社会経済の活性化のためには、若者に対する雇用の創出とともに、魅力的な文化交流の場が不可欠であるとの御指摘があり(法曹771号9頁〈2015年〉)、至言と感じている。

 そして、現政権の方針もあって、少子高齢化の趨勢の中、過疎化などの形でその影響が深刻なものとなっている地域経済をいかに活性化し、地域社会を生気あるものとするかについての関心が高まり、関係機関の取組が具体化している。私が社外監査役を務める株式会社 日本政策投資銀行(DBJ。拙著16頁)でも、「地域元気プログラム」として、全国各地域の特色ある分野や事業に対する融資、東日本大震災復興のための東北各県におけるファンドや観光産業を対象とした地域活性化ファンドの組成などを、地域金融機関と協力しながら展開し、子会社である価値総合研究所は、地域と大学の連携のあり方などについての調査と提言を行っている(同・Best Value 31号〈2014年〉参照)。

 また、社外取締役を務める株式会社 地域経済活性化支援機構(REVIC。本書18頁)でも、従来の事業再生に加えて、地域経済の活性化が新たな業務となり、同じく地域金融機関やDBJなどと共同で幾つかのファンドを立ち上げている(地域経済活性化支援機構『REVICによる地域の再生と活性化』88頁以下〈2015年〉参照)。群馬での地域医療関連産業の「ものづくり」に対する支援などは、今後のあるべき姿の1つを指し示すものであり、島根、鳥取では、各大学との連携により、研究成果を事業化し、地域経済の活性化につなげるという方向性が打ち出されており、上記の価値総合研究所の活動とあわせ、大学人としても喜ばしい。

〔閑話休題〕「ピアノを弾く哲学者」

 「折々の記」の中では、幾つかの趣味について触れ、その1つとして、古稀に至らんとする時期に始めたピアノ・レッスンのことを記した(拙著28頁)。しかし、牧山奈津子先生のあたたかく、かつ、忍耐溢れる御指導にもかかわらず、可愛らしいクラスメートの少女(8歳)との差は拡がるばかり、当初の目標、傘寿に達するまでにジョージ・ガーシュインを弾くことは(拙著29頁)、まさに夏の夜の夢に終わりつつある。

 そんな気持ちの中、ある朝、フランソワ・ヌーデルマン(橘明美訳)『ピアノを弾く哲学者 サルトル、ニーチェ、バルト』(2014年、太田出版)なる書物の広告に接し、早速、取り寄せてみた。ここでいう哲学者は、ジャン・ポール・サルトル(1905〜1980)、フリードリッヒ・ニーチェ(1844〜1900)、ロラン・バルト(1915〜1980)の3人である。しかし、いずれも幼年期よりピアノのレッスンを始め、作曲活動まで展開したニーチェはともかく、
「彼の演奏にはリズムがない。一本の線として音符を追っていくような弾き方で、リズムは消えてしまう」(同書30頁)と評されたサルトルと比較しても、やはり無謀な挑戦であり、人生における挫折の数を増やしたに過ぎないことを自覚させられるこの頃である。

 もっとも、彼にとって生涯の伴侶であった、シモーヌ・ド・ボーヴォワール(1908〜1986)の『娘時代』(朝吹登水子訳。1961年、紀伊國屋書店)は、私の青春時代の愛読書の1つであるが、彼女が、どのような気持ちで、サルトルの奏でるショパンの旋律に耳を傾けたのかを想像できるようになっただけでも、意味があったかもしれない。

3 学界に対する実務家側からの懸念

 研究活動については、数人の実務家から、日本の法学者が自己の専門領域に閉じこもりがちであり、欧米においては、実定法の諸分野や基礎法学の領域に渉って、幅広く研究を展開していることと比較すると、独創性や創造性に欠けるのではないかとの指摘を頂戴した。

 ただ、民法学者の守備領域として意識されているのは、物権法、担保物権法、契約法、不法行為法、親族法、相続法などに及び、決して狭いとは云えない。商法学者についても、同様のことが云えよう。しかし、前記の御指摘は、単なる広狭にかかるものではなく、研究者の守備領域とされる対象が固定されがちであることに警鐘を鳴らし、ときには、他の領域、たとえば、民事訴訟法学者が独占禁止法や家族法の研究論文を世に問うことを求めているように思われる。法体系が有機的一体として機能している以上、立ち位置を変えて、異なった法分野の問題に取り組んでみることが、研究者としての発想の柔軟さと豊饒さにつながるのではないだろうか。

 わが国の法律学の特徴の1つとして、峻別論、たとえば、民事・刑事峻別論、公法・私法峻別論、実体法・手続法峻別論があり、これが研究者の姿勢にも影響していると思うのは、老書生の誤解であろうか。鋭利な峻別が光の部分であるとすれば、対象の固定化による自家中毒が影の面ともいえる。他分野、他領域に踏み込んだ論文を公表したとき、冷たく黙殺されるか、「花園を荒らすのは誰だ!」との叱声を浴びることすら覚悟しなければならないというのは、杞憂かもしれない。

〔閑話休題〕無線通信を愛好する法律家協会(無法協)

 私の趣味の1つとして、モールス通信の話を記した(拙著28頁)。もっとも、総合無線通信士という資格こそ生涯のものであるが、無線局の運用を停止してから20年、サイレント・キーとなりかけており、再開の日はないと思っていたところ、思わぬ反響があり、アマチュア無線の社団局(JQ1ZOR)として、無法協が設立された。最高齢の私が会長、現役の無線家である山内貴博弁護士が有能な事務局長、弁護士数名が構成員というささやかな世帯であるが、今後の発展を期している。定款に定める事業目的の1つとして、「電波法令の研究」を掲げ、入会資格の1つとして、華美な生活に憧れず、名利恒産に心を奪われていない旨を規定しているのが、本社団局の特徴といえようか(https://jq1zor.wordpress.com/)。少年少女時代、無線通信の御経験のある法律家の数は少なくないと思われる。CQ (Come Quick), CQのメッセージを送りたい。

4 法曹人口問題

 法曹養成をめぐる環境は、ますます厳しい。一方で、司法試験合格者の数は漸減傾向にあり、法科大学院の募集停止も相次いでいる。裁判官を退職後、地方の法科大学院の教員となった旧友より、募集停止に踏み切らざるをえなかったとの知らせを受け、実に索漠とした想いを抱いた昨今である。他方、司法修習を終えた方々の就職難の様子も、身辺でしばしば耳にする。

 法曹人口や法曹養成のあるべき姿についての愚見を拙著129頁以下で述べたところ、その内容については、積極的な評価も寄せられたが、弁護士会の会務を担っている中堅弁護士の方から、法律事務市場の厳しい現状を指摘の上で、「弱者の視点で、市民に寄り添う仕事ができる(社会正義を実現できる)のが弁護士ですが、自分の生計は、自分で稼ぐほかないのも弁護士です。いい面を見るのも大事ですが、
﹁金になる仕事を見つけて、受注して、初めて生きていける中小零細企業﹂がこれからの多くの弁護士の道です」との御教示をいただいた。この隘路を抜け出るにはどうしたらよいだろうか。名案があろうはずがない。

 しかし、いずれの職業にも共通することであろうが、法律事務に対する需要は、弁護士自身が開拓していくしかない。法曹資格は、その基礎となるべきものであるとすれば、司法試験法第一条第一項が、「司法試験は、裁判官、検察官又は弁護士となろうとする者に必要な学識及びその応用能力を有するかどうかを判定することを目的とする国家試験とする」と規定するように、資格試験としての途を外れてはならないと信じている。

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