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書斎の窓

自著を語る

『はじめての流通』の刊行に寄せて

同志社大学商学部教授 崔 容熏〔Choi Yonghoon〕

崔容熏,原頼利,東伸一/著
A5判,272頁,
本体1,900円+税

 本書の帯に記されている「複雑な流通もこれならわかる」というキャッチコピーに象徴されているように、本書の企画は有斐閣編集部から提示された「大学新入生向けの分かりやすい教科書を作る」という極めて明確なコンセプトのもとでスタートした。

 流通の役割は生産と消費の架橋にある。誰がどこでどのような商品を作っており、どこの誰が何をどのように求めているのかを知り、両者を結び付けることによって商品の社会的移転を実現することに流通の本質がある。

 教科書というジャンルの書物の使命はまさに流通のそれに似ている。先学によって蓄積された豊富な知の宝庫と、初学者の旺盛な知的好奇心を繋ぎ合わせることによって、知の供給側とその需要側を架橋する。教科書の最大の美徳はここにあると思う。

 しかし、それは決して簡単なことではない。そもそも知識の生産側に対する的確かつ体系的な情報を著者らが渉猟しているかと言えば、とんでもない話になる。流通がカバーする事象はあまりにも幅広いが故に、流通の研究は多様なバックグラウンドを持つ研究者によって行われている。

 経済学者は生産と消費を情報的に結びつけ、取引を成立させる市場の担い手としての流通を分析するかもしれない。組織論やマーケティング・商業論の観点からであれば、商品流通に関与する各主体の組織編成、行動、意図、もしくは、それら主体間の関係性に注目するであろう。そのためには社会学や心理学を含む行動科学という、さらに基礎学問の知見を借用しなければならないかも知れない。また、流通システムの在り方が社会に与える厚生的なインパクトを分析するには法学や行政学の知識を不可避に必要とする。これは著者らの能力の限界を大きく超えることであった。

 需要サイドに関しても状況は変わらなかった。流通を学ぶうえで初学者が何を知りたがっているのかを体系的にリサーチしたこともなければ、リサーチをしたからと言って、文字通り初学者であれば自分たちのニーズが何かさえ分かっていないのが普通だと考えるべきである。しかも、著者らは長年の教育経験を持ち、学生たちが求めていることを底から把握しているベテランでもない。しかも、著者たちが想定している学生たちが、平均的な知的能力を持った標本であるかと言えばその保証もない。

 このような状況で必要なのは、出来ないことは出来ないという思い切った諦めと、自分らに出来そうなことを最大限頑張ろうという開き直りだと考えた。自らの至らなさを重々承知したうえで、気合だけで出発した本書であるが、次のいくつかの点に関しては譲ってはいけないという思いがあった。

 

 まずは、単純に新しい現象や概念を羅列したり、紹介したりするだけにとどまらず、商品流通の仕組みや流通に関わる諸主体の意図がどのような背景から生まれ、どのような結果につながっていくのかというプロセスについて、これから流通を学ぶ若い方々自らが考え、頭の体操を試みるきっかけを与えようとした。そのために、出来るだけ最新の研究成果までを誠実に踏まえつつ、流通の基本的性質や仕組みに関する知識体系を初学者に伝えようと努力した。

 本書は明治大学商学部教授の原頼利先生と青山学院大学経営学部准教授の東伸一先生との共著である。私たち3人はマーケティング・流通分野に研究の軸足を置きつつも、幸い、各自が取り組んでいる研究テーマは異なっている。イノベーション研究では、組織が有する知識に多様性があるほどイノベーションが活性化されることが分かっている。まさにその通りだと感じた。研究テーマの微妙に異なる3人でのコラボレーションであったからこそ、1人では到底カバーできなかったはずの内容を取り入れることが出来、本書の内容を一層充実したものにできたと確信している。議論するたびに啓発され、勉強させられた。共著者お2人も筆者と同じ気持ちであったことを願う。

 しかしながら、本書の中で取り上げられている小売店舗形態(業態)、プライベート・ブランド、サービスの流通、情報技術、小売国際化などは、今現在も国内外で最新の研究成果が続々と発表されているトピックであるために、未だにその成果が反映されていないというご批判が一部ではあるかも知れない。その点に関しては、教科書の性質上、アカデミズムの世界で合意が形成されていない現在進行中の議論や一部の大胆な主張は避けるべきだという方針が著者たちにあったので、寛大なご理解を賜る以外ない。

 

 本書が譲れないと決めたもう1つの、しかもより重要な点は、初学者にとって最後まですらすら読めると思わせる教科書にしたかったことである。それは編集方針を忠実に守ることでもあった。研究と教育の仕事を生業としつつも、心のどこかには、研究と教育は別物だという思いがあったかも知れない。

 学会や学術雑誌で発表する自分の研究内容を授業中に学生に伝え、理解させることは困難だと考えたこともあれば、学術世界での議論を聞く側が理解できようが出来まいが、加工なしで一方的に伝えたこともあろう。それには理由があると考えられる。現実に役立たない研究をしていたか、それとも、知の生産物を需要家が消費しやすいように伝える術を持っていないか、否、その両方かも知れない。

 しかし、それでは知の生産側と需要側を架橋したことにならない。学生が本を読まなくなったといわれて久しいが、それをインターネットやデジタル・コンテンツの氾濫といった外部環境だけのせいにしてしまってはならない気がした。授業の内容を学生に紹介する目的のシラバスでさえ、学生ではなく、同僚にどう読まれるかを意識して書かれているとしか思えないものが少なくない。

 生産現場で生み出される新鮮かつ有用な知識を、需要側が手に取りやすい形で伝える。その結果、需要側の知的好奇心が触発され、やがてそれが新たな知識生産の起爆剤になり、研究と教育は好循環を作り出すことになるだろう。それは市場経済における流通のミッションでもある。

 

 本書は、少しでもその目的を達成するために行ったいくつかの協働作業の産物である。著者3人は、予め担当章を分担して執筆作業を進行してはいたが、互いの原稿を自分の担当箇所以上に読み込んでいる。読み進める過程で少しでも不明なところがあれば、徹底的に問い直し、修正を求め合った。打ち合わせの回数は10回以上にのぼる。そのために、本書は各章ごとに執筆担当者がいるとは言え、3人の化学反応によって出来上がったものである。

 「初学者が読みやすい流通の教科書」に少しでも近づけるためには、敏腕の編集者と明敏な学生という強力な助人も不可欠であった。書籍編集2部の柴田守氏は、議論が錯綜し、方向性を見失いそうになると、欠かさず的確なご判断で助け舟を出してくれた。著者3人の学生たちは、途中原稿に何度も目を通し、率直すぎるほどの感想を述べてくれたことによって、読みやすい教科書作りに貢献してくれた。この誌面を借りて改めて心からの感謝を申し上げたいと思う。

 自著を用いた授業を始めてすでにセメスターの半分以上が過ぎようとしている。1つ嬉しいことがあった。授業の終わりに受講学生の1人が、本書の中で見つけた細かいミスを指摘してくれたのだ。それも筆者が所属する商学部ではなく、他(法)学部の学生なうえ、しかも、その時点では授業時間に取り上げてもいなかった後半部の章で見つけたミスであった。有難いことに読んでくれていたのである。

 献本をさせて頂いた同僚や研究仲間からも多くの意見を寄せて頂いている。「興味深い」、「最新の議論まで盛り込んでいる」と褒めて頂くこともある。もちろんその大半はリップサービスだと自覚している。それくらいの自意識は自分にあると思う。ただし言われて素直に嬉しかったコメントがあった。それは「読みやすい」、「わかりやすい」である。本書を世に出す前に最も聞きたかった反応だったからである。

 

 流通には常に激変とか激動という修飾語がついているという印象がある。流通とは、膨大な数の生産者が生み出す数えきれない商品が、膨大な数の消費者と出会うまでの仕組みに他ならないので、その仕組みの動態には多種多様で複雑な諸要因とそれらの相互作用が絡むことになる。

 とりわけ近年における流通システムの動きには目まぐるしいものがある。インターネットに代表される情報技術の発展は、間違いなく商品流通の仕組みを大きく揺るがしている一因である。また、消費者のライフスタイルや消費様式に見られる変化も大きい。それによって商品流通を担う各主体の行動様式にも従来とは異なる動きが観察される。さらに、流通に関わる各主体間の伝統的な分業関係も大きな転換点を迎え、もはや生産(者)、流通(業者)、消費(者)というステレオタイプの概念では規定できない事象が数多く出現している。

 このように激動する流通の現実を常に体系的に理解し、科学的に分析する、また、それを通じて実践に役立つ知見を得るためには、いずれ新しい理論枠組みや分析ツールが求められることになるだろう。一方、そのような知的生産活動の活性化のためには、需要側からの刺激が大いに役立つ。厳しい消費者が優れた生産者を育てるのである。1人でも多くの読者に、流通の仕組みを論理的に考え、科学的に分析することに興味を持ち、次なる問題意識を抱き、創造的な問題提起をしてくれる、厳しい消費者になってもらいたい。一層のこと、流通研究に魅せられ、知識の生産者側に転じてくれたら大歓迎である。初学者を流通の世界に案内する道のりで、本書が少しでも架橋の役割を果たせるのであれば、溢れる流通の教科書の山にまた1冊を付け加えることのささやかな言い訳になるかも知れない。

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