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書評

『数理法務概論
 ―― Analytical Methods for Lawyers』

東京大学大学院経済学研究科・経済学部教授 柳川範之〔Yanagawa Noriyuki〕

ハウェル・ジャクソン,ルイ・キャプロー,スティーブン・シャベル,キップ・ビスクシィ,デビッド・コープ/著
神田秀樹,草野耕一/訳
A5判,548頁,本体5,500円+税

 本書はハーバード大学の法科大学院で、長年使われてきた著名な教科書の翻訳である。2010年に書かれた原著第2版のまえがきでも記されているように、2010年時点で7年間教科書として本書が使われている授業は毎年100人から200人の学生が履修するような人気講義になっている。そのような教科書の翻訳が我が国で出版されたということは法学を学ぶ読者にとっても、あるいは経済学やファイナンスを学んでいる読者にとっても、大きな福音であろう。

 訳者あとがきでも、「伝統的な法学教育だけでは現代社会の需要に応え得る法律家を育成することはできない。現代の法律家が均しく必要とするもの、それはファイナンス理論や統計学等に代表される数理的知識である。」と書かれており、訳者たちも「私たちはこの見解に強く賛同する」としている。本書を学ぶ意義を一言で言い表すとすれば、この数理的知識、数理的分析能力を身につけることにある。

 とはいうものの、本書の記述は極めて平易であり、難しい数式は出てこない。法律に関する具体的な記述や例示が随所にちりばめられており、法学を主として勉強してきた人たちが、経済学や統計学、あるいはファイナンス理論や会計学の基本的な部分を理解するのに最適なテキストになっている。その一方で、それぞれの理論や分析手法のポイントは的確に押さえられており、法学関係者だけではなく、ビジネスマンや経済学学習者にとっても、とても有用なテキストであろう。

 また本書の特徴は、単純な翻訳とはいえないくらいに、日本語版の内容が充実していることである。数理的な分析に関するテキストとはいえ、法的な問題についての議論が行われているため、アメリカでの議論が直ちに日本に当てはまらない場合もある。その点、本書では実に細かい対応がなされている。まず、かなり詳細な訳者注がついている。日米の違いについて原著の記述を補足しているだけでなく、原著の記述をより分かりやすくするための補足も訳者注を通じて行われている。

 また、文献紹介では、原著で紹介されている文献だけではなく、日本語の文献も紹介されており、さらに深く勉強したいと思う読者にとっては、大いに役立つ情報が提供されている。さらには、会計を説明する章の章末で、楽天株式会社の有価証券報告書が資料として加えられているなど、単なる翻訳を超えた、記述の追加がなされている。訳者によるこのような手厚い対応によって、本書は単なる翻訳を超えた著作物となっている。

 本書の内容を簡単に紹介しておこう。本書は9章からなる構成になっている。第1章では決定分析、第2章ゲームと情報、第3章契約、第4章会計、第5章ファイナンス、第6章ミクロ経済学、第7章法の経済分析、第8章統計分析、第9章多変数統計と幅広い分野がカバーされている。

 第1章の、決定分析では、意思決定のあり方についての科学的分析手法が分りやすく説明されている。冒頭では、法的な問題に関するいくつかの事例が紹介されており、抽象的にならず、なぜこのような理論を学ぶ必要があるかが、丁寧に解説されている。「これらの基礎知識がなければいかなる法律家もクライアントに有効な助言を与えることはできない。」と原著初版のまえがきで説明されているのは、その通りであろう。また、この第1章は、第2章で説明されるゲーム理論の良い導入部にもなっている。

 第2章ではゲーム理論と情報の経済学について、極めてコンパクトに、分りやすい解説がなされている。ゲーム理論については、内外で多くのテキストが書かれている。しかし、それらの多くがかなり数学的な記述で解説が行われていて、その分野を専門としようとする人々以外には、なかなかハードルが高いのも事実である。そのような中で、この第2章は、必要なポイントをほとんど数学的な記述を使わずに簡潔に説明していて分かりやすい。また、モラル・ハザードや逆選択といった情報の経済学に関する説明も簡単ではあるが、要点を押さえた記述がなされている。

 第3章は、ゲーム理論や情報の経済学の応用例でもある、契約の問題が議論されている。なぜならば、契約を結ぼうとする当事者同士は、十分な情報がない中で、相互に影響を与え合うゲーム理論的状況にあるからである。また、契約書の作成は、法律家にとって重要な業務であり、なぜ契約が締結されるのか、という根本的な問いかけから始まり、契約紛争の解決方法まで、幅広い現実的な問題について議論がされている。

 この章については、経済学における契約理論に基づいた解説が基本的には行われている。しかしながら、契約理論が扱っている内容や用語と、現実の契約問題あるいは契約法が扱っている内容や用語は微妙に異なる。この点、多くの初学者が陥りがちな混乱や間違いが生じないように、本書では丁寧な解説が、訳者注も含めてなされている点が心強い。

 第4章では会計についての基本的なポイントが分かりやすく説明されている。企業活動に関する法的諸問題あるいは金融や証券に関する法的諸問題を理解するうえでは会計の基礎知識は不可欠であろう。ただし、会計学や簿記論も直接勉強しようとするとハードルが高く、また法的問題との関連を理解することがなかなか難しい。それに対して、本書は単なる会計学の概説にとどまらず、それが法的な問題とどう関連しているかが、簡潔に解説されており、会計と法律との関連が良く分かるようになっている。

 また、会計については、会計制度が国によって微妙に異なるため、外国の書籍を読むと、それがどこまで日本にあてはまる点なのか戸惑うことがしばしばある。その点についても本書では、とても丁寧な訳者注によって、アメリカと日本の会計制度の異なる点や、原著の記述が日本と異なる点についての理解が得られるように工夫されている。そして資料として楽天株式会社の有価証券報告書が添付されており、実際の我が国における有価証券取引書がどのようなものかも分かる記述になっている。

 第5章ではファイナンス理論についての解説がなされている。ファイナンス理論も現代の金融市場の動きやコーポレートガバナンスや企業行動等、企業法務関連を理解するうえでは不可欠な学問になっている。しかし、この分野も多くのテキストが出版されてはいるものの、その基本的要点を理解することは容易ではない。その点本書は、ポイントを極めて分りやすく解説しており、また、法的問題と絡めて解説をしている点で、法律を主に勉強をしている、あるいは関心をもってファイナンスの知識を得ようと考えている人たちにとってはとても良い入門書になっている。

 ここでも原著にはない、HOYAとペンタックスの事例が資料として挿入されており、いかにファイナンス理論を理解することが重要かが具体的事例で解説されている。

 第6章はミクロ経済学に関する解説がなされている。今までの第1章から第5章までも、ミクロ経済学がカバーしている分野ではあるが、この章では、ミクロ経済学の主要ポイントである市場メカニズムに関する説明を中心に行われている。数式をほとんど使わず、グラフを用いての説明は、ミクロ経済学のポイントを平易に理解するのにとても役立つ。

 第7章では、法の経済分析ということで、法律の諸問題について、経済学的分析を用いて、不法行為法や損害賠償の問題、民事訴訟や刑法の問題にいたるまで、幅広く分析がされている。また、法律問題を経済分析を用いて検討することに対する反論についても解説が行われている。

 第8章と第9章は統計分析、実証分析に関する解説が行われている。近年、我が国の裁判の場においても、統計的分析や実証分析が議論の際に用いられることが増えてきている。現実に生じた事柄を客観的に評価する上では、統計的分析手法に関する理解が欠かせない。その点でも、本書は大きな意義を持っている。

 一般的には、我が国の特に法学分野では、本書で記述されているような意思決定理論やゲーム理論、経済分析に対しては、その有用性に疑問が投げかけられる場合が、比較的多い。これらの数理分析に関する批判のひとつは合理的意思決定モデルに関するものであろう。現実の人間の行動は、数学モデルで表されるような合理的なものとは限らない。数理的な分析は非現実的であり、そのような分析に基づいた判断は有用とは言えない、という批判は、評者もしばしば耳にする。

 確かに現実の判断が合理的とは限らず、合理的意思決定モデルを前提にしたゲーム理論や経済学から出てくる帰結が直ちに現実的な判断を導くとは限らない。しかし、だからと言って、本書で説明されているような理論や分析手法を学ぶことの意義を否定するのは的外れであろう。ここにはとても重要な情報や含意がある。現実の経済現象特に、企業活動等経済の動きと密接に関連した事業については、その動きの基本的なメカニズムを理解するうえでは、人々の意思決定や行動に関するシステマティックな理解が欠かせない。そのためには、本書で語られているような数理的分析は多いに有効である。

 また、本書で説明されている数理的な分析には、規範的な意義もある。どのような判断をすることが合理的か、どうすれば合理的意思決定ができるかを学ぶことは、我々の意思決定をより意味のあるものにするのに役立つ。法律家特に弁護士は、出来るだけそのような意思決定が出来るよう良い助言をすることが求められており、そのためには合理的意思決定のあり方を学ぶ必要がある。この点は本書の帯につけられている「よき助言者を目指して」という文句が象徴している役割であろう。

 また、後半で語られている統計的手法や実証分析の基本的な考え方は、合理的判断を人々がするかどうか、経済学的な分析手法をとるか否かという議論を超えて、社会科学において何らかの分析を行おうとするうえでは、今後必須となってくる分析ツールであろう。そのエッセンスが極めてコンパクトに分かりやすく説明されていることは、多くの読者にとってとても有益なことだろう。

 法学分野の学生、研究者のみならず、広く多くの人々に読んで欲しい1冊である。

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