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書斎の窓

連載

イタリア アカデミック・ツアー

大学をめぐる散策

第12回 アカデミック都市ミラノ(2)

東京大学大学院総合文化研究科教授 丹野義彦〔Tanno Yoshihiko〕

 アカデミック都市ミラノを地下鉄で回ろう(地図1)。今回はバロック期以降のミラノを歩く。外から見るとただの古い建物だが、一歩中に入ると、そこには想像を超えた知のテーマパークが待ち受けている。こうしたギャップがミラノの魅力である。

地図1 地下鉄で回るミラノ アカデミック・ツアー

ヴィスコンティ家とパヴィア大学

 地下鉄のドゥオーモ駅には巨大なミラノ大聖堂がある。大聖堂は1386年にヴィスコンティ家によって着工された。ヴィスコンティ家は、スフォルツァ家の前にミラノを支配した一族で、学者や芸術家を集め、後のミラノ・ルネサンスを準備した。その最大の学問的貢献はパヴィア大学の創設である。ヴィスコンティ家全盛期のガレアッツォ2世は、1361年にパヴィア大学を創設した。『ミラノ――ヴィスコンティ家の物語』(ベロンチ)によると、大学創設を進言したのはペトラルカだという。ガレアッツォ2世は、ミラノ公国の住民がパヴィア大学以外で勉強することを禁止した。こうしてフィレンツェとピサ大学(連載第5回)、ヴェネツィアとパドヴァ大学(連載第8回)の関係が、ミラノとパヴィア大学にも作られた。ミラノに1924年まで大学がなかったのはこのためである。

 なお、大聖堂から東に延びるヴィットリオ・エマヌエーレ通りにはサンカルロ書店がある。『ミラノ霧の風景』や『コルシア書店の仲間たち』で描かれたように、須賀敦子が夫ペッピーノと出会い、そして先立たれた場所である。

写真1 アンブロジアーナ図書館の内部

バロック期の総合学術施設:アンブロジアーナ図書館

 大聖堂の南西に有名なアンブロジアーナ図書館がある。ミラノ大司教のフェデリーコ・ボッロメオ(1564〜1631年)によって作られた。当時は、ルターの宗教改革に対して、カトリックは対抗宗教改革の動きを起こした。聖職者の教育に重点がおかれ、ヨーロッパ各地に神学校が作られた。ボッロメオも私財を投じて神学の学術教育機関を作った。ここは単なる図書館ではなく、美術館、古典語の教育機関、出版・印刷機関、美術アカデミー、学者の顧問団などからなる総合的な学術機関であった。図書館の蔵書にはレオナルド・ダ・ヴィンチの『アトランティコ手稿』がある。ミラノを占領したナポレオンはこの手稿をフランスに持ち去ってしまう。その後返還されたが、一部は返却されず、フランス学士院に『パリ手稿』として残された。

 絵画館の順路の最後に図書館がある。3階分が吹き抜けになっている大きな部屋で、一見の価値がある(写真1)。『アトランティコ手稿』の一部も展示してある。

カトリックに引きつけるためのバロック美術

 絵画館は、ボッロメオが集めた絵画を図書館で公開したのが始まりである。ボッロメオは建物内に美術学校を作り、ここからバロックのミラノ派と呼ばれる画家が育った。バロック美術とは、対抗宗教改革運動において、民衆の関心をカトリックに引きつける布教手段であった。だから、バロック美術を定着させることはボッロメオの宗教的な使命の一部であった。アンブロジアーナ絵画館では、ダ・ヴィンチの『音楽家の肖像』や、ボッティチェリの『天蓋の聖母子』、ラファエロの『アテネの学堂』の下書きなどを見ることができる。1枚1枚の絵をていねいにライトアップしてあり、色彩が光っている。

図1 ブレラ宮の1階の位置関係
1階は美術アカデミーが使用 廊下は省略してある
は吹き抜けの中

ブレラ宮 知のテーマパーク

 地下鉄モンテナポレオーネ駅から5分ほどのところにブレラ宮がある。外は何の変哲もない古い建物だが、その中は知のテーマパークである。ぜひ中を歩いてみよう(図1)。ブレラ通りにある入口を入ると、大きな中庭があり、真ん中にナポレオン像が立っている。その回りに文化人6名の像が立つ。建物の1階は美術アカデミー(美術学校)が使っており、研究室や教授室などが並ぶ。美術アカデミーは学位(ディプロマ)を授与する研究教育機関であり、海外からの学生を含め3000名が学んでいる。

 2階には有名なブレラ絵画館と国立ブライデンセ図書館がある。絵画館には、ティチアーノ、ティントレット、カルパッチョといったヴェネツィア派の巨匠やカラバッジオの絵が展示されている。また、ミラノ大学の天文学博物館と植物園がある(入場無料)。

ミラノの歴史とともに歩んだブレラ宮

 ブレラ宮の歴史はミラノの政治史・文化史そのものである。13世紀に修道院として建てられ、1572年にはイエズス会のブレラ神学校が作られた。イエズス会は、対抗宗教改革の流れの中で、イグナチオ・デ・ロヨラらが作ったカトリックの団体で、海外布教に力を入れた。ザビエルや天正遣欧少年使節など、当時の日本とイタリアの関係を媒介したのはイエズス会である。高等教育にも力を入れ、ヨーロッパ各地に神学校(コレジオ)を作った。この神学校は、実質的に「大学」と呼べるものであり、大学のないミラノにおいて、ブレラ神学校は高等教育機関として栄えた。

 1764年には天文台が作られた。創設者のボスコヴィッチは天文学・気象学・幾何学など70冊の著書を残したパヴィア大学の数学教授であり、イエズス会の司祭でもあった。火星と木星の間の小惑星「ボスコヴィッチ」は彼にちなんでつけられたものである。

 16〜17世紀の大学史において、イエズス会の神学校は重要な位置を占めているが、ヨーロッパ中に作られた神学校は今では残っていない。というのは、イエズス会は1773年に解散させられたからである。各国がナショナリズムを強めるにつれて、国境を越えて自由に活躍するイエズス会は邪魔になり、ローマ教皇はついにイエズス会を禁止したのである。ブレラ神学校も解体された。ちなみに、イエズス会の神学校の名残を留めるのが、チェコのプラハにあるクレメンティヌムである。

啓蒙専制君主による文化改革

 神学校が解体された当時のミラノは、オーストリアのハプスブルク家に支配されていた。マリア・テレジアとその息子フェルディナンドのもとで、官吏たちは社会改革を進めた。啓蒙専制君主による改革と呼ばれる。これによってミラノに義務教育の学校が作られ、教員養成学校も作られた。マリア・テレジアの官僚たちは、ブレラ神学校を宗教色をなくした世俗的な高等文化施設に作りかえた。神学校の図書室をブライデンセ図書館に作りかえ、また、神学校の天文台や薬草園は、本格的な天文台や植物園(医学の教育用植物園)にグレードアップさせた。美術学校(美術アカデミー)も作られた。こうしてブレラ宮は一大啓蒙文化施設となった。

ナポレオンへのアンビヴァレンス

 1796年に北イタリアはナポレオン軍によって支配された。フランスに近いミラノは、イタリア侵攻の前進基地となった。ナポレオンは、イタリア各地から美術品を集め、征服を誇示するために、ブレラ宮の絵画館に展示した。ブレラ絵画館にイタリア中の名画があるのはこのためである。

 ブレラ宮にはナポレオン像が立ち、宮内にはナポレオンの部屋(大講堂)も作られている。このようにナポレオン人気は根強いものがある(マリア・テレジアの像はない)。しかし、ナポレオン軍がミラノに残した傷も大きい。ダ・ヴィンチの手稿やイタリア絵画をフランスに持ち去り、ダ・ヴィンチの壁画「最後の晩餐」を傷つけたりした。

 1860年代にイタリアが統一されると、ブレラ宮の絵画館や図書館は国立の施設となった。美術アカデミーの建築学校はミラノ工科大学に移管された。後にミラノ大学が作られて、天文台や植物園は大学の機関となった。

 この時期長くブレラ天文台長をつとめたのはスキアパレッリである。彼は、火星を観測し、表面の筋模様について1877年に発表した。彼はこの模様をイタリア語の「溝」という単語で表したが、これが英語では「運河」と翻訳されたために、運河を作る火星人がいるという説として広まった。

 このように、ブレラ宮は対抗宗教改革期、ハプスブルグ家支配期、ナポレオン侵略期、イタリア統一期と、歴史の節目において変化してきた。

戦死した息子を悼んで作ったボッコーニ大学

 地下鉄2号線のピオラ駅は「学園都市」と呼ばれる。レオナルド・ダ・ヴィンチ広場の東側にミラノ工科大学がある。1863年創立であり、ミラノ大学よりも古い歴史を持つ。大学のホームページによると、イタリアの建築家の22%、デザイナーの44%、エンジニアの14%がこの大学の出身である。本部ビルの前に初代と2代の学長の像が立つ。初代のブリオシは、パヴィア大学の数学教授だったが、議員に選ばれ教育大臣となりこの大学を創設した。2代目のコロンボは「イタリア工学の父」と呼ばれた。工科大学の南にミラノ大学の理系キャンパスがある。

 地下鉄のポルタ・ロマーナ駅から路面電車に乗り換えるとルイジ・ボッコーニ大学に着く。百貨店業で財をなした商人フェルディナンド・ボッコーニの寄附によって1902年に創設された。当時イタリアはエチオピアに進出し戦争が起こるが、息子のルイジ・ボッコーニがそこで戦死した。フェルディナンドはその死を悼み、息子の名前をつけた商業大学を作ったのである。

カトリック大学の男子禁制の庭

 地下鉄2号線のサンタンブロージョ駅で降りるとカトリック大学がある。1921年にジェメッリ神父によって設立された。外壁は人を寄せ付けない感じだが、一歩中に入ると美しい中庭がある(写真2)。2つの中庭があり、上から見ると漢字の「日」の形をしている。この建物は8世紀に修道院として建てられ、15世紀に、スフォルツァ家がルネサンス期を代表する建築家ブラマンテに命じて改修した。ブラマンテははじめ、4つの中庭がある「田」の字のプランをたてたが、実際には半分の「日」の字に留まった。『人生で少なくとも一度はミラノでしておきたい101の事柄』(ベルトラミーニ)によると、キャンパス内には聖カタリナ庭園という処女の庭があり男子禁制となっている。

 次回は首都ローマとヴァチカンを回ろう。

写真2 カトリック大学の中庭
(ブラマンテが設計した聖アンブロージョの回廊)

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