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書斎の窓

コラム

『早慶合同ゼミナール』の終了にあたって

――早稲田大学鎌田薫総長との「交遊抄」

慶應義塾大学法学部教授 池田真朗〔Ikeda Masao〕

 早稲田大学法学部の鎌田薫教授(現早稲田大学総長)と私が、それぞれのゼミ生を率いて、1986年から28回にわたって続けてきた、早慶合同ゼミナールが終わりを迎えた。最終回は、2013年11月27日に、三田キャンパスで、道垣内弘人東京大学教授を出題・講評者に迎えて開催された。

 話は1978年まで遡る。私は、その年の2月、慶應義塾大学法学部の助手から専任講師に昇任する直前の時期に、福澤基金と名付けられた大学の資金を得て、2年間のパリ第Ⅰ大学留学に出発した。

 その同じ時期に鎌田教授もパリに留学されたのである。正確には、私はパリ第Ⅰ大学、鎌田教授はパリ第Ⅱ大学だったが、この2つはもともとパリ法科大学だったものを分けたもので、大学院はいずれも、カルチエ・ラタンにある昔からの同じパンテオン(ソルボンヌの隣)の校舎を使っていた。

 私を鎌田さんに引き合わせてくださったのは、先に留学されていた、早稲田大学の奥島孝康元総長である。パリのシャルル・ドゴール空港で、私が、ドイツでの刑法学会に出席される慶應義塾大学の刑法の宮澤浩一教授を出迎えた折、同じ学会に出られる早稲田大学の西原春夫教授(元総長)を出迎えられたのが奥島教授だった。今となってみれば、私は、パリで3人の早稲田の総長と面識を得ることになったわけである。

 現在、両大学の定年は、早稲田大学が70歳なのに対し、慶應義塾大学は65歳である。私は、2014年度いっぱいで定年となる。慶應義塾大学法学部の場合、ゼミは1人の教員が第3・第4学年の2年間を継続して担当することになっており、もし私が2014年4月に新規のゼミ生を募集すると、その人たちの4学年目には私はもういない。そこで、池田ゼミ(カリキュラム上の名称は池田研究会)は2013年4月からの第34期生をもって最終年度とすることにしたため、3年生同士が中心となって参加する早慶合同ゼミナールも、今回で最後となったのである。

 この合同ゼミは、留学から帰って数年経った1986年春に鎌田ゼミからの申し入れで対抗野球大会をやったのをきっかけに、スポーツだけでなく勉強もしなければ、とその秋から始めたものである。その後毎年春は野球、秋は合同ゼミという行事を繰り返してきた。合同ゼミの会場は早慶で1年交代としたが、途中会場の都合で2年続きになったこともある。

 第1回の出題・講評者には、東京大学の星野英一教授(当時)に来ていただくことができた。私法学会の折に、問題だけでもいただければと2人でお願いにあがったとき、星野先生が「いつですか」と手帳を出された時の感激を今でも覚えている。1回目が星野先生だったので、第2回には川井健一橋大学学長(当時)に来ていただくことができた。かつてのテレビ番組の「友達の輪」ではないが、両先生のおかげで、その後も第3回の下森定法政大学教授(当時。後に同大学総長)をはじめとして、続々と超一流の先生方に来ていただくことができたのである。その中には、京都大学教授から最高裁判所判事をされた奥田昌道先生(当時同志社大学)や、現最高裁判所長官の寺田逸郎氏(当時法務省民事局第三課長)のお名前もある。故人となられた石田喜久夫先生や好美清光先生から、椿寿夫先生、野村豊弘先生、加藤雅信先生、安永正昭先生、能見善久先生、瀬川信久先生、以下吉田克己、内田貴、道垣内弘人、中田裕康、大村敦志、沖野眞已、山本敬三、松岡久和、潮見佳男、河上正二、磯村保、松本恒雄の各先生、と、主だった民法学者の方々には、ほとんどの方に来ていただいた。その他裁判官として加藤新太郎判事(当時司法研修所教官)のお名前もある。内田貴先生と今回の道垣内先生には、鎌田教授留学中の代講としての参加と出題・講評者としての参加をしていただいた。

 とりわけ星野先生は、その後も、第10回、第20回の節目に出題・講評者となってくださった。しかしその星野先生も2012年に急逝され、また第2回の出題・講評者となってくださった川井健先生も2013年に天に召された。月日の流れに感慨を禁じ得ない。

 

 鎌田さんは早稲田の総長になってしばらくして、日本経済新聞の「交遊抄」に、「パリでの出会い」と題して、私のことを(しかも私のことだけを)書いてくださった。2人ともが親交のある、某出版社の社長さんに、「鎌田さん、友達は1人だけじゃないだろうに」とからかわれたのを覚えている。

 

 最後の合同ゼミは、「賃貸人の地位の承継と相殺契約の対外効」を内容としたものであったが、両校ゼミ生の頑張りで活発な議論が展開された。なお、教室では討論終了後に、第1回合同ゼミの司会者を務めた片山直也慶應義塾大学大学院法務研究科教授(現在法務研究科委員長、池田ゼミ2期生)が挨拶をしてくださり、第2回の立論者の武川幸嗣同法学部教授(池田ゼミ8期生)も公務の合間に顔を出してくださった。また終了後のコンパには、第1回の早稲田側の立論者である小粥太郎一橋大学法学研究科教授(鎌田ゼミOB)が駆けつけ、スピーチをしてくださった。

 さらにいえば、最終回の出題・講評者である道垣内弘人教授は、先述のように、鎌田先生が留学中の第17回(2002年)に鎌田ゼミの代講者として鎌田ゼミを率いて参加してくださったご縁のある方で、最終回にふさわしい顔ぶれがそろったわけである。

 ちなみに、最初に交流のきっかけとなった野球大会も、その後もずっと続き、男子は軟式野球、女子はソフトボールと毎年2試合をやった。もちろん両教員も、4番打者で出場した。特別ルールで、お互いに打順が回ると、相手がマウンドに登る、ということもした。何度か雨天の年は、ボウリング大会で交流した。

 

 この早慶合同ゼミは、開始後数年経ってからは、毎年有斐閣の月刊雑誌『法学教室』に、両校立論の概要と講評、そして終了後の全体写真を載せていただいてきた。したがって、2014年4月号の掲載をもって、この連載も終わることになった。法学教室の編集部の皆さんには、これまでのお世話に対して厚く御礼を申し上げたい。また、今改めて読み返すと、毎年の出題講評者の先生方は、その時期ごとの民法学上の重要論点や注目すべき判例を素材にした出題をしてくださっており、わが国の4半世紀の民法学の歩みを見る思いがする。学生たちにはもったいなさすぎるような機会だったと実感するのである。

 さて、その全体写真であるが、慶應開催の年は、背景の黒板に張られた「第○回早慶合同ゼミナール」の墨書が毎回同じ字であったことに気が付いた読者はまずおられないだろう。実はこれは、第1回のときの参加学生だった池田ゼミ7期生のNさんの母上(書道師範)が、模造紙に書いてくださったものを、私が毎年大切に研究室に保管し、端が破れかけると裏張りをしたりテープで補強したりして、ずっと使ってきたものなのである。もちろん、第○回の数字の部分だけは書き直す必要がある。回、回と、ほぼ1年おきにその数字を書き直した紙を上から貼り付けた。

 

白熱した議論を展開した両校のゼミ生と先生方

(左から白石先生,鎌田先生,道垣内先生,筆者,司会の宮川賢司弁護士=池田ゼミOB)

 実はその数字を書き直すのも、紙を張り付けるのも、毎回本番前夜に私が自分でした。討論の準備で徹夜に近い状態になっている学生に余計な仕事をさせたくなかった、という気持ちもあるが、正直のところ、高校生のころから多少レタリングに興味があって生徒会誌の表紙を描いていたりした身としては、学生にやらせるより私のほうが上手、という自負? があったのである。初期のころは、少しは時間の余裕もあったから、前後の筆書きの字と違和感がないように、わざと少し曲げて、筆で書いたアラビア数字、という雰囲気を出したり、などと結構凝って楽しくやっていた。もっとも十数回を超えたあたりからは、こちらもかなり忙しくなって、前の日に時間をとるのも大変になり、なんでこんなことまでと思う年もないではなかったが、それでも節目の大事な仕事という気持ちで続けていた。

 最終の今回は慶應開催ということになり、本番の前々日にしっかり時間をとり、作業をした。足かけ28年使った巻紙の、ぼろぼろになった四隅をテープで丹念に補強してから、新しいB4ほどの紙に28の数字を書き上げて、貼り付けた。そのまますぐに巻いてしまうと、癖がついて、広げたときに浮いてしまうので、しばらく、広げたままで乾かす。そしてそのまま少し遠ざかって、出来栄えを確かめた。まずまずだろう、これで今年も準備は万端整った、と思ったその時、不意に、4半世紀を超える時間の重みが実感された。

 たかがゼミの1つの行事である。けれども私なりにゼミ指導における重要なイベントとして位置付けてきたものであったし、何よりも、畏友鎌田教授と続けてきた交流の、目に見える記録でもある。これで終わりか、とつぶやいた。長いようで短い、短いようで長い、28年だった。

 〔追記〕現在、早稲田大学大学院法務研究科の白石大准教授と慶應義塾大学法学部の田髙寛貴教授との間で、次世代の早慶合同ゼミナールが始められようとしている。伝統の承継などという堅苦しいことは言わず、フレッシュな感覚でまた新たに両校の交流が続いていってくれれば幸いと願っている。

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