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連載

失敗は成功の元?――ベルリン滞在記

第1回 Amazon.deクレジットカード入手までの長い道のり

東京大学社会科学研究所教授 中川淳司〔Nakagawa Junji〕

はじめに

 2014年4月から8月末までの5カ月間、本務校から派遣され、ベルリン自由大学に客員教授として滞在した。ベルリン自由大学と東京大学社会科学研究所との交流の歴史は長く、30年以上にわたって社研から同大学歴史文化学部の東アジア研究センター日本研究部門に教員を派遣してきた。滞在中、学部生向けの講義と大学院生向けのゼミナールとチュートリアル(英国オックスブリッジの伝統的な教育方式に倣い、少数の院生と日本語の研究論文や新聞記事などを丹念に読み込む)、合計3コマの授業を毎週担当した。

 欧州に長期滞在するのは初めてのことで、ベルリン到着以来毎日が新鮮で刺激的だった。大学での授業でも研究でも大きな刺激を受けたのはもちろんのことだが、日常生活でのさまざまな失敗や思いがけない出会いから「ああ、ドイツ人とはこういう人たちなんだ」「ドイツという国の強さの秘密はこういうところにあるんだな」などと気づかされることが多かった。一例を挙げると、ドイツは食事が旨い。ジャガイモとザワークラフトとソーセージ(それにビール)ばかりかと思っていたが、野菜も肉も、それに魚もおいしい。乳製品は高品質で安く、ワインも日本よりずっと安くておいしいのがスーパーで手に入る。リンボウ先生に倣えば「ドイツもおいしい」。

 これから6回にわたって、そんなベルリンでの日常生活での失敗談や出会いのことを綴っていきたい。日本の研究者が街で拾い集めた現代ドイツ事情のレポートとして気楽に読んでいただければと思う。

 * * *

 4月初めにベルリン自由大学に着任して1カ月。学務でも生活面でもセトルメントに関わる諸々の手続がかたづき、ようやく生活や仕事が日常モードに入って落ち着いた。

 教えるかたわら自分の研究にも本格的に着手してみると、当然読まなければならない新刊の研究書が目に入ってくる。離任前の忙しさとこちらに来てからのばたばたで2カ月ほど研究にブランクができてしまったのだからしかたがない。日本のときと同じようにアマゾンで発注しようとしてはたと気づいた。私が持っているAmazon.co.jpのアカウントは届け先を本務校の研究室宛にしている。これをベルリン自由大学の研究室宛に変更しないといけない。届け先変更の手続は特に面倒でもないのですぐに変更した。すると今度は「船便の場合最低○週間かかります。」「航空便の場合、送料として○○○○円頂戴します」という表示が出てきた。万事休すである。

 しかたがないので、まだまだ慣れないドイツ語でしか表示されないAmazon.deにアカウントを開くことにした。大学の教養課程の第3外国語として履修し、大学院に入ってからほんの少しだけかじったに過ぎないドイツ語、つまりほとんど使いものにならないドイツ語の知識を動員して何とかアカウントを開き、本を3冊無事に発注した。折り返し受注確認のメールが届いた。流し読みしていくと、最後の方に「Amazon.deのアカウントの支払いのためにクレジットカードを作りませんか。入会ボーナスとして30ユーロのクーポンを支給します」とあり、カード入会手続へのリンクが貼ってある。30ユーロ(!)につられて思わずリンクをクリックし、入会してしまった。

 

 2週間ほどして、大学から宿舎に戻ってみると郵便受けに「クレジットカードが届いたので、本人確認できる書類を持って最寄りの郵便局に引き取りに来てください」という通知が届いていた。翌朝、それは午後から3コマの授業を担当する水曜日の朝だったが、宿舎の事務担当者に確認した最寄りの郵便局はさいわい通勤路の途中だったので、通勤の途中に立ち寄ることにした。ちなみに、こちらに到着早々に中古の自転車を買って自転車通勤している。宿舎から大学の研究室まで自転車で15分、往復がよい運動になる。

 郵便局の窓口で通知を示すと、窓口のFrau(おばさんのこと、失礼!)が「本人確認書類は?」と尋ねるので持参したパスポートを見せた。Frauはパスポートを何度も見返しながらもどかしい指使いで手元のPCにデータを打ち込み、5分ほどかけて受領書をプリントアウトした。そして私に手渡し、「そこの1番下に署名して」と言う。

 正直に言おう。私はそのFrauの受領書作成のスローペースにすこし苛立っていた。何しろ、3コマの授業が午後に控えており、一刻も早く仕事場に行きたかったので。だから、あわてて書いたサインの字が少し乱れた。

 

 それからがおおごとだった。

 

 Frauは私のサインとパスポートの署名を何度も見比べた後でこう言った。「このサインはパスポートの署名と一致しない。よってあなたにはクレジットカードの封書は渡せない」

 私はあ然とした。押し問答の末に、署名欄の下にもう1度サインするからということで納得してもらい、今度は落ち着いて慎重にサインした。ところが、Frau曰く、「この最後のところ(それはwaにあたる)がパスポートの署名と違うから渡せない」。

 私はFrauに上司を呼んでもらうように頼んだ。現れた上司は私の話を聞き、しばらくFrauと話した後で私に流暢な英語でこう告げた(ちなみに、ここまでの会話も英語だった。Frauの英語は聞き取りにくかった)。「あなたは2度署名の照合に失敗した。よってドイツ郵政の内部規則により、このクレジットカードは差出人に返送する」

 それから20分ほど続いた押し問答の仔細は省略する。私はクレジットカードを受け取れず、意気消沈して出勤したのだった。

 

 午後の授業で学生たちにこの話をしてみると驚いた。「私も同じ目に遭った。それで郵政の口座を解約して銀行に口座を開いた」という学生がいるではないか。「ドイツ語が話せない怪しげな外国人だから邪険にあしらわれたのではないか」と疑っていたわが身を反省した。それと同時に、「それにしても、ずいぶん杓子定規な仕事ぶりだよなあ。せめて、2度目にサインする前に﹁これがラストチャンスですよ﹂とひとこと言ってくれてたらもう少し丁寧にサインしたのになあ」などと、後悔と腹立たしさ(これには思慮が足りなかった自分に向けた腹立たしさも含まれる)がこみ上げてくるのだった。

 それから2週間経った。クレジットカードはまだ届かない。こちらで私の教務補佐を務めてくれているフローリアン君(修士2年)が奔走してくれて、クレジットカード発行元の銀行に掛け合い、銀行から2つの書類がメールで送られてきた。1つは私がドイツ到着後に開いたベルリナー銀行の口座情報の申告書、もう1つは発行元銀行が出した引換券だ。申告書に必要事項を記入して発行元に返送すると、折り返し発行元が再度最寄りの郵便局にクレジットカードを再発送する。今度は引換券を持っていけばサインなしでクレジットカードを受け取れるという。最初の失敗で懲りた私はそれでも疑心暗鬼で、サインの練習を何度か繰り返していることを告白しておこう。ともあれ、あと1週間ほどで私はようやくクレジットカードを受け取れるはずだ。やれやれ。

 

 この失敗から私が学んだことは3つある。1つ、ドイツの本人確認手続は厳格に行われている。多くの外国人や移民労働者が住む国だから当然だろう。Frauのスローモーな事務処理ぶりには正直いらいらさせられたけれど、彼女が厳正にその職務を遂行したことは認めなければならない。2つ、不逞の輩を取り締まるための手続はしかし、多くの善良な市民に過度の負担を強いる。たとえあなたがドイツ国民であってもだ。3つ、この次パスポートを更新するときは漢字で署名することにする。無用のトラブルは回避するに如くはないから。それ、古人の教えにあるではないか。「君子危うきに近寄らず」と。

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