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連載

脳の中の不思議の島――趣味的研究人生

第6回(最終回) 正義・公正・利他性

名古屋大学大学院環境学研究科教授 大平英樹〔Ohira Hideki〕

 かつてロンドンに滞在している間、バレエを観るためにロイヤル・オペラ・ハウスに足しげく通った。印象に残っている演目のひとつが、ロベルタ・マルケスが踊った『ジゼル』である。ブラジル出身のマルケスは可憐にして華やかで、登場した瞬間に舞台に光がさすようだ。小柄であるが、そこがまた古典的バレエの趣を醸し出している。純情で天真爛漫な村娘ジゼルはまさにはまり役であるし、恋人アルブレヒトに裏切られ狂気に陥る場面の表現も見事なものであった。

 アルブレヒトは公爵の身分を隠して戯れにジゼルと恋仲になるが、横恋慕する村の男ヒラリオンは衆人環視の中でアルブレヒトの不実を暴き、ジゼルは衝撃のあまり狂死してしまう(第1幕)。ジゼルは、結婚前に死んだ処女の亡霊ウィリーたちに迎えられ、ヒラリオンを死の沼に沈める。アルブレヒトも地獄に落とされそうになるが、彼をまだ愛しているジゼルは彼を赦し、朝の光の中に消えていく(第2幕)。白装束にベールを被ったウィリーたちの群舞は鳥肌が立つほどに美しい。実体のない霊魂となったジゼルを演じたマルケスは、まるで体重がないかのように跳び、アルブレヒトが伸ばした手が体を透過するかのように舞った。その超絶技巧と表現力を満喫することができた。

 しかし考えてみれば、いかにそれが辛いものとはいえ事実を暴いたヒラリオンが地獄流しで、純情な娘を騙して死に追いやったアルブレヒトが赦されるとは、正義に悖るのではないだろうか。身分の高い公爵ならいいのか、イケメンならいいのか、と言いたくなる。我々が抱くこうした正義の感覚は、因果応報という言葉があるように、善いものであれ悪いものであれ個人の行いの質と程度に見合う結果を、その個人は受け取るべきであるという原理に基づいている。心理学では、我々が生きている世界はそのような正義の原理に統べられているはずだという感覚を、正義世界仮説(just world hypothesis)と呼ぶ。最近の機能的磁気共鳴画像法(functional magnetic resonance imaging: fMRI)を用いた研究では、こうした正義世界に関する信念を強く持っている個人ほど、他者が社会規範に違反する行為を目にした際に島(insula)の前部と体性感覚皮質(somatosensory cortex)が強く活動したことが示されている(Denke, et al. 2014)。本稿では、島と体性感覚皮質が身体反応の入力を受け、そこに意識される感情を形成すると共に、さまざまな知覚や意思決定に影響を及ぼすことを紹介してきた。そうしたメカニズムは、我々が義憤と呼ぶような社会的な感情の形成にも関与しているらしい。

 他者への怒りにかられた個人は、その他者を罰しようとする。しかし、他者への罰は金銭・時間・労力・安全などにおけるコストを伴うので、実際に罰するかどうかは、怒りの強さとコストのバランスにより決定されることになる。こうした事態をシンプルに再現するための実験課題のひとつが、最後通牒ゲーム(ultimatum game)である。このゲームでは、提案者と応答者と呼ばれる2人のプレイヤーが一定の金額(例えば1,000円)を分割する。提案者は、分配方針を自由に決めることができる。例えば、自分が700円取り、相手には300円を与える、のように。応答者は、提案者が決めた分配方針を変更することはできず、提案者の分配方針を受諾するか拒否するかを決定する。もし応答者が受諾すれば、提案者の分配方針どおりに実際に金額が分配される。もし応答者が拒否すれば、両方のプレイヤーとも1円もお金を受け取ることはできない。このゲームには、古典的な経済学理論の観点からはただひとつの合理的な解が存在する。応答者が利己的に自己の利益を追求するならば、拒否した場合の利得0円に比べれば、たとえどのように不平等な分配であっても、その方が勝る。それゆえ応答者は全ての提案を受諾する。一方提案者は同じ人間として、応答者がそのように振る舞うことを知っているので、やはり利己的に自己の利益を最大にするために、自分が999円取り相手には1円だけを与える(1,000円全てを取ると、応答者の拒否確率が50%となるので、損をしてしまう)。

 しかし当然ながら現実の人間は、必ずしもそのように合理的には振る舞わない。一定限度を越えて利己的な提案は、しばしば拒否される。これは我々が、報酬や資源の分配は平等になされることが公正だという規範を有しているからである。しかし不公正な提案に怒って拒否すれば、得られるはずであった金銭的報酬を放棄することになるので、ここに葛藤が生じる。このゲームを行っている際の脳活動をfMRIにより測定した研究によると、不公正な提案を受けた際に島が強く活動する場合には、その提案を拒否する確率が高まった(Sanfey, et al. 2003)。これは、不公正な提案によって個人の感情反応が駆動され、それによって惹起された身体反応が島にフィードバックされて、提案を拒否するよう意思決定を調整したのだとも解釈することができよう。この仮説を検討するために我々は、サイコパシー(psychopathy)と呼ばれる性格特性を持つ個人を対象にした研究を行った。これは極端な利己性と感情の欠如を特徴とする性格特性であり、犯罪などの反規範的行為のリスクが高いことが知られている。この性格特性を持つ個人が、応答者として最後通牒ゲームを行うと、不公正な提案であってもそれを受諾する可能性が高く、かつその際に交感神経系活動の指標である皮膚伝導反応が弱いことが明らかになった(Osumi & Ohira, 2010)。サイコパシー傾向が強い個人は、感情とそれに伴う身体反応が微弱なゆえに、不公正な提案にも感情的に反応せず、利己的かつ合理的に自己の利益だけを追求するのだと考えられる。これはまさに、「経済人(ホモ・エコノミカス)」と呼ばれる、従来の経済学理論が描いてきた人間の姿である。

 

図1 島は正義・公正・利他性の判断に関与する

 島の活動は、必ずしも正義や公正からの逸脱への怒りだけを表すわけではない。今年、自分の後にいる見知らぬ他者の飲み物料金を支払ってあげるという運動がアメリカのスターバックスで始まり、その輪が1,000人を超えて繋がったという報道が話題を集めた。こうした行為を「先送り(pay if forward)」というが、これは自分が利益を得る可能性はないのに他者に利益をもたらす行為であり、経済学的には説明が難しい。この事態における脳活動をfMRIにより検討した研究によると、前の人が「先送り」してくれた際に自分も次の人に「先送り」しようと決定する時、島の活動と、評価した価値を行動に結びつける働きがあるとされている尾状核(caudate)の活動の結合が強まったことが報告されている(Watanabe, et al. 2014)。これは、我々が自分の利益を度外視しても他者を助けてあげようとする時、同情や共感、あるいは道徳的高揚感などが生じ、それが島の活動を介して意思決定を調整することを意味しているのだろう。つまり島は、何であれ通常とは異なる社会的行動を発動する場合に、我々の背中を押すように働くのかもしれない。

 いずれにしても、どの程度社会規範を遵守するか、あるいは、どの程度他者を援助するように振る舞うか、という個人差は、島の活動の敏感さに表現されるような生物学的要因により規定されている可能性がある。我々は自ら考える以上に、感情的で身体的な存在であるかもしれないのだ。

 本稿ではこれまで、脳の中の島という部位が、内受容感覚と呼ばれる身体の知覚、時間の知覚、運動の自己主体感、意思決定、選択の探索、正義・公正・利他性、に重要な役割を果たしていることをみてきた。発生的に古い皮質に属する島が、これほど多彩な精神機能に関連していることは驚きである。もしかすると、我々の人間性の多くの部分を形作っているのは、島に表象される身体性であるかもしれない。この、脳の中の不思議の島をめぐる旅は、ひとまず今回で終わりとなる。しかし、この島の地図にはいまだ未知の部分が多く残されている。我々はこれからも、研究者としてのときめきとその身体反応に導かれて、この島の探検を続けるであろう。

 

【引用文献】

Denke, C., Rotte, M., Heinze, H. J., & Schaefer, M. 2014. Belief in a just world is associated with activity in insula and somatosensory cortices as a response to the perception of norm violations. Social Neuroscience, 9, 514-521.

Osumi, T., & Ohira, H. 2010. The positive side of psychopathy: Emotional detachment in psychopathy and rational decision-making in the ultimatum game. Personality and Individual Differences, 49, 451–456.

Sanfey, A. G., Rilling, J. K., Aronson, J. A., Nystrom, L. E., & Cohen, J. D. 2003. The neural basis of economic decision-making in the Ultimatum Game. Science, 300, 1755-1758.

Watanabe, T., Takezawa, M., Nakawake, Y., Kunimatsu, A., Yamasue H., Nakamura, M., Miyashita, Y., & Masuda, N. 2014. Two distinct neural mechanisms underlying indirect reciprocity. Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America, 111, 3990-3995.

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