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連載

ドイツ・ケルンから考えた日本――ケルン文化会館長異聞

第5回 ドイツの経済改革と日本の改革――「市場経済重視」か「市場経済是正」か

千葉大学専門法務研究科名誉教授 手塚和彰〔Tezuka Kazuaki〕

はじめに

 日本では、現在一部の論者から、経済のさらなる活性化のためには「労働市場の自由化」が、1つのカギだとされ、そのためには、労働時間の弾力化や解雇規制の緩和、とりわけ、解雇に対する救済を金銭賠償で解決することなどが主張されている。

 その先例として、しばしば、ドイツの解雇規制の緩和が、労働市場の流動化をもたらし、現在のドイツの経済の活性化をもたらしたという見解がある。その改革は、2003年に2010年を目指してなされたシュレーダー前政権(社会民主党と緑の党の連立政権)時代の「アジェンダ2010」によりなされたものであるが、今日のドイツの経済の好調は、この「アジェンダ2010」の成果だといわれることが多い。果たしてどうであったのか。

 1部の論者は、ドイツの労働市場や労働法制の実情や従来の流れを全く検討することなく、労働市場の自由化、とりわけ米国流の労働市場の自由化と同一視して、それが今日のドイツの好況を支えているとの論を唱えている。

 今日、日本で、この点での議論に、必ず参照されているドイツの労働市場改革に関する論点は、部分的、断片的にしか伝えられていない。また、日本とドイツの労働市場の差と、これに係る労働・社会法の果たす機能についても誤解が少なくないこともあり、以下、ドイツの労働市場改革に関して詳論し、分析することとした。

 なお、ドイツのシュレーダー改革に先立ち、英国のサッチャー改革やアメリカのレーガン改革が「市場経済重視」の典型として、評価され、市場経済の機能を阻む規制の撤廃・緩和がなされた。日本でも、この新自由主義的な改革が、小泉政権以来重視され、一定の改革につながってきた。この流れとの関係で、ドイツのシュレーダー改革を評価することは疑問である。そこで、先ず、その改革の内容を的確に把握することが先決課題である。とりわけ、英米流の労働市場の自由化とドイツのそれとは全く次元を異にしているし、規制緩和の内容も異なっていることをまず指摘しておきたい。

 また、現在ドイツの大連立政権(キリスト教民主・社会同盟:CDU・CSUと社会民主党SPD)により、労働法・社会法改正がなされ、後述のごとく、8.5ユーロの一般的最低賃金の法制化、派遣労働については18か月の限度(ただし、それを超える期間を労働協約で合意しうる)と、9か月後の賃金について派遣先労働者と同等にする義務を課している。以上の、最近の状況を含み、ドイツの労働市場改革の流れを概観する。

1 ドイツの経済改革と労働市場法改革――アジェンダ2010

 まず、この改革のトップにあげられるのが「ハルツⅣ改革」である。

 当時、何百万人にも上る生活保護受給者(ドイツでは生活扶助者)がおり、この財源が自治体[市町村]であったために、その財政を圧迫していたこと、生活扶助者が、必ずしも高齢、病気などにより働けなかった者(労働不能者)だけではなく、健康な若い世代も、長期の失業後、生活扶助を申請し、受給して、昼間も働かずに公園などでぶらぶらしているという実情を、筆者も再三見ることがあり、その点を指摘したことがある(拙著『怠け者の日本人とドイツ人』中公新書ラクレ、2004年)。日本と若干異なっていたのは、失業すると、失業手当を受け、その期間が切れると失業扶助(失業手当の約7〜8割)を受給でき、更に、その期間が過ぎると生活保護を受けられるということが、右のような『優雅な失業者』を生んできたのである(実態については、前掲書参照)。

 これに対して、シュレーダー政権は、働けるのに、「働こうとしない者は制裁されることになる」として、政策的対応を図った。これは、労働組合内部にも論議を生み、旧東ドイツでは、これに反対する月曜デモが繰り返された。ハルツⅣにより、生活保護規定が徹底的に改定され、また、職業訓練の充実があり、結果的に、教育訓練が必要な未成年者に対する教育の内容が上がったとされる。

 その核心は、「いかなる仕事も失業者に要求しうる(zumutbar)ものである」。この結果、長期失業者が、自動的に生活保護受給者となることは、ほとんど認められなくなり、失業給付と生活扶助(これが、自治体から雇用庁の出先の労働局に移された)が連邦雇用庁により統一的に運用され、後者の期間も短くなり、失業給付を受けているものが、自動的に後者に移行することも認められなくなった。つまり、失業者はすべからく、再訓練などを受け、意にそまない仕事でも職に就く方向が制度づけられたのである。このような改革の中で、労働局の現場に、相当な緊張を生んでいることを忘れてはならない。つまり、意にそまない仕事でも、労働局[ところによっては、自治体、州、労働局の設けた第3セクターのジョブセンター]から、紹介された仕事に就かないと、生活扶助をカットされることになるのを嫌って、職員に危害を加える失業者も増えていることが報じられている。

 しかし、結果的には500万人の失業者が半分の300万人以下に減り、最近では200万人を切ることになった。

2 解雇制限の緩和

 今日、EU諸国のうち、経済危機に落ち込んでいる、イタリアやスペインなどのラテン諸国が、経済的な不況時にも、さらには、労働者の能力や行為の上で問題があっても、解雇(契約告知)が裁判所などで争われ、事実上労働者側に有利な裁判結果が出ることから、使用者側が解雇しにくい状況にあることは、広く知られている。これらの国にある日本の企業や、政府などの機関等でも、解雇すべき現地被用者を解雇できないなどの事例が続出している。これに対して、ドイツでは、ラテン系諸国と異なり、成績不良や能力に問題のある労働者の解雇はさほど困難ではない。一定の判例実務が定着している。

 従来、その点での鍵だとされてきた解雇制限法(労働契約の解約に関する法律)に関しての改革がなされている。

 戦後一貫してドイツ労働法では、解雇には正当な事由が必要だとされた(解雇制限法1条2項)。その範囲も、たとえば、企業の不況などの事由ではなかなか解雇ができにくいという判例実務が定着した。さらには、採用する労働者は原則として期間の定めのない正規従業員であるとされた。しかし、後者については、1980年代から再三の法改正を経て、臨時の必要性を証明できる場合には、期間の定めを置くことができるとされるに至った。

 シュレーダー改革は、さらに解雇制限法を改正して、解雇制限を緩和したのである。すなわち、5人未満の零細企業の場合には、解雇制限を緩和することとし、経済的に立ち行かなくなった企業(使用者)の解雇を容易にした。この基準は、現政権の下で10人未満とされている。とりわけ、新規事業に関しては、3年までは、企業の業績が上がらない場合には、採用した労働者を解雇できることにした。

 労働法の実務でも、個別の解雇事例(労働者の責めに帰すべき事由があるときとともに、勤務成績上あまり良好とはいえないような場合)をめぐって、労働裁判所に労働者側から訴訟が提起されることがあっても、使用者側が、何ら理由がなく、あるいは差別禁止法(一般的差別禁止法)に反して解雇したような場合以外には救済(原職復帰)はなされず、一定の和解金を払うことを条件に退職することを、労働裁判所(職業裁判官と労使の陪席裁判官)が、長くても6か月の裁判機関で、決定で判決される(判決により理由を付すること稀である)。その額は、最高額でも、月収に勤続年数の3分の1を掛けた額だという。これが、労働裁判所の先例となっている。

 もっとも、経済的不況などを理由とするいわゆる整理解雇については、事業所の従業員の代表委員会(Betriebsrat)と、使用者の間で社会計画(Sozialplan)と呼ばれる、協定により、相当な整理手当が支払われる。

 この点が最初に述べたように、解雇を金銭賠償で行うことができるとの誤解を招いたと言えるが、果たして、米国のように、解雇が自由ということと同じ性格なのか、疑問である。ドイツの雇用法制は、労働契約の解消については、今も、かなり厳しいのである。

3 失業手当(給付)、労働市場の弾力化

 紙数の関係で、この部分については他の機会に詳論したいが、失業手当の統合、厳格化に伴い、失業者の労働市場への再統合が伴わなくてはならない。

 ドイツでは、失業手当を受給しながら、個人営業で、少しの収入を得る極短時間就労(Minijob:以下ミニジョブという)を認めたり、企業をするチャンスを認める1人企業(イッヒAGという)を認めるなどの働くことに失業者を向ける方策がとられた。

 当然のことながら、労働市場の自由化に伴い、従前の仕事を離職することが増えるのであるから、その人々を仕事に戻す方策が必要である。この点の詳細は別途論ずることにしたい。

結論――改革の評価

 シュレーダー改革の評価も、未だ連邦議会や学会などで論議のさなかであり、今日のドイツの経済的な好調は、この改革にあったとし、ドイツが、グローバル化、EU統合の中での競争力を強化できたのは、この改革の故であったとする見解(2003年3月14日のシュレーダーの連邦議会演説にこのアジェンダが端を発したことから、10年後の連邦議会での2013年3月13日の各党首演説の中でのSPD党首シュタインマイアー)に対し、左派党党首など(ギジ)は、この改革が多数の貧者と巨大な富者を作っただけだと批判している。

 事実、この改革が提起された2003年時点では、ドイツ経済はマイナス0.4%の成長しかなく、急成長で、3.1%の成長を遂げていたスペインやプラス0.4%のフランスにすら後れをとっていた。しかし、この時点でも輸出は常に増加基調にあったものの、金利は高く、かつ、賃金抑制がきかずに、結果的に、競争力を損なう結果となり、マイナス成長により、雇用も収縮し、年間平均440万人の失業者を抱えていた。とりわけ、首都ベルリンでは30万6000人という高失業下にあった。

 10年後の今日、失業は313万人、首都ベルリンでは21万7000人に低下し、1部の州では完全雇用状況を呈している。これを支えるのが、競争力の向上・保持により、輸出が空前の好調を維持し、人口の減少はあるものの、労働力に関しても拡大EUからの流入をもって、補う結果となっているという(ⅰ)

 しかし、これがアジェンダ2010の結果かどうかは明らかではないとされる。

 果たして、労働市場の回復はアジェンダ2010の目玉であった、ハルツ改革の失業対策である、イッヒAGとミニジョブ、パートタイムの拡大により、以前は失業の状態で、労働市場に復帰・参入する可能性のなかった者が曲がりなりにも労働し、その職業キャリアへの復帰を可能としたことを評価するのか、かえって、こうした不安定雇用層を増加させることにより、「やっかいな就業」を増加させたことになるのか、未だ議論の結論は出ていないといえよう。こうした部分的な就労の形態は、1990年代から徐々に作られてきたのだが、ハルツ改革はこれを本格的に雇用改革として取り入れ、チャレンジしたものであった。

 これとならんで、ハルツ改革(ハルツⅣ)は、失業者と生活扶助との統合をはかり、失業予算の中に、従前の生活保護(ドイツでは生活扶助以下同様)受給者で、労働可能な者への対策を、すべて含むことになった。その結果、当初、2005年1月一時的には、失業者は100万人増加することになった。従来、生活扶助者は自治体(市町村)予算で扶助がなされてきたのだが、ハルツⅣは、このうち労働能力があると認定された者については、住居から離れた地域で就労し、求職活動をするような場合には、そのために必要なわずかの宿泊費程度を支給するにとどめることになった。これとならんで、ドイツでは週15時間以内の就労も「就労」と認定し、これを斡旋するジョブセンターを労働局の外に設けて、積極的に短時間の就労を促進したのであった。短時間就労の積極的な活用をなすことは、1990年代から行われてきたのだが、その趨勢の中でアジェンダの結果、15時間を切るような短時間の労働は導入された。

 だが、この趨勢は、たとえば、高失業地域のベルリンにおいても、常に増加傾向にあったかといえば、そうでもなく、ある時期には減少している。とするならば、アジェンダの結果とも言い切れないところである。ミニジョブとイッヒAGは結果的としてみると、労働市場に副次的な効力を期待されたのだが、かえって、これらが、農業の合間に短時間就労する農村地帯で増えていることとも、労働市場の本質的改革ではなかった1つの証左だといえるのではないか、と言う見解も有力である。

 一方、派遣労働は南西ドイツの自動車産業を中心に広がり、産業競争力強化の機能を果たした。

 では、このアジェンダは、失業最悪地帯のベルリンにとって、とりわけ、救いとなったのか、かえって、雇用を損なう結果となったのか、という点に関して、前述のブレンケ氏は、ベルリンのこの間の驚異の好調は、ドイツで3番目に悪い失業率にもかかわらず、新規雇用が常に増加し、従来の基軸であった、建設、製造業の減少を補う、サービス、観光、IT関係が好調であり、その中で、イッヒAGの果たす役割は小さくないというのである。

 

(ⅰ)ドイツ経済研究所(Der Deutschen Institut für Wir-tschafts forschung, DIW:ベルリン)の研究員、Kahl Br-enke

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