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書斎の窓

連載

ドルチェ国際法

第2回 外交の「面子」

東京大学大学院法学政治学研究科教授 中谷和弘〔Nakatani Kazuhiro〕

 外交は国家の威厳を賭けた国家間交流である以上、国家の「面子」を背負った外交官の行動が傍目からは滑稽な光景に映ることも皆無ではない。その典型が、横田喜三郎先生の『法律つれづれ草』(1984)に紹介された次のエピソードである。

 ルイ14世の治世下のフランスにスペインとプロシアからほぼ同時に公使が派遣されてきた。どちらを先に接受するか悩んだルイ14世は、ベルサイユ宮殿に早く来た順に接受することにした。当日の朝、門が空くや否や、両公使は駆けっこし、1歩先んじたスペインの公使は、ルイ14世の寝室のドアを押し開け、信任状を捧呈しようとした所、追いすがったプロシアの公使は、スペイン公使の服の裾をつかんで引きずり戻し、自分が先に信任状を差し出した(なお、尾篭な話だが、お腹の弱いルイ14世は便器に腰かけたまま接見することが多かったらしいが、信任状捧呈式の際はどうだったのであろうか)。

 このような「紛争」を防止するために作成されたのが、1815年の「外交使節の席次に関する規則」であった。「外交代表の席次に関してしばしば生じ、また今後なお紛議を生じさせ得る混乱を防ぐために」作成された同規則では、席次は「その着任の正式な通知の日に従って定めるものとする」と規定する。もっとも、これでは上記の「駆けっこ」「引っ張り合い」は残念ながら防止できない。

 接受国において最も早く着任した大使、つまり最古参の大使は外交団長と呼ばれる。手元にある歴代の駐米大使の中の外交団長のリストをみると、最も長く外交団長をつとめた駐米大使は、サウジアラビアのバンダル王子(Prince Bandar, 第1次湾岸戦争時の駐米大使としても有名)で外交団長であった期間は12年(1993年9月から2005年9月まで)にも及ぶ。他に特に著名な大使としては、ソ連のアナトリー・ドブルイニン大使(Anatoly Dobrynin, 彼の回想録 In Confidence は冷戦期の米ソ関係の実態を知る上での最良のテキストの1つ)が1979年11月から1986年4月までの6年9カ月間、外交団長であった。意外にも、大正期に駐日大使をつとめた著名な文人外交官であるポール・クローデル大使(Paul Claudel) が1933年2月から4月までの2カ月間、外交団長をつとめている(同大使は駐米大使になって6年弱で外交団長となった)。日本に駐在した大使の中での外交団長のリストは手元にはないが、『在日十八年』の著書があるベルギーのバッソンピエール男爵(Baron de Bassonpierre)は、1921年から1939年の大使在任期間中の一部は外交団長であったに相違ない。本年6月時点での駐日外交団長はサンマリノのマンリオ・カデロ大使(Manlio Cadelo, 『だから日本は世界から尊敬される』の著者)である(2002年から駐日大使、2011年5月から外交団長)。他方、日本の大使は2、3年毎にかわるため外交団長になった日本の大使はいないと思っていた所、吉川元偉OECD政府代表部大使(現国連大使)は3年の在任期間の最後の1ヶ月は外交団長であった。

 外交団長はしばしば小国の大使が就任するが、小国の大使といえども大国の大使よりも接受国においては席次は上である。朝海浩一郎元駐米大使は、皇族が外国から帰国の際に羽田空港に各国外交団が迎えに出たが、テレビが米国大使だけ映し外交団長を映さなかったことを遺憾として外務省顧問を辞職した。このエピソードは、外交儀礼の厳格さを実感させるものである。もっとも朝海大使の回想録『司町閑話』(1986)には堅苦しい所は全くなく、同書では、よく間違える飛行機の乗り降りの順序については、「偉い人を常により安全な場所により長く置くことを念頭に置けばよい」として、首相が外国に行く時はお供の代議士は先に飛行機に乗らなければならない(先に首相が飛行機に乗って行くのは乗り方を間違っている)、外国に着いて飛行機から降りる時にはまず首相が降りる、と指摘する。

 外交の世界では「席次」は重要である。テーブルの席にも序列が決められている。長方形のテーブルでも、フランス式と英国式とでは、ホストの座席や最上席が異なる。序列を回避するために丸テーブルが用いられることもある。但し、出入口の近くの席か奥の席かで序列が決まってしまう。この点にも配慮して、日本の命運を決した1945年のポツダム会談では、ツェツィーリエンホーフ宮殿の会議室に入口を3つ設け、かつ丸テーブルにするという工夫がなされた。

 外交儀礼は、国際法規範ではないが国家が古くから慣行として守ってきたものであり、法的拘束力はないものの国際「法」以上に諸国家によって遵守されている。かなり細かい点にまで慣行があるものの、実際には次のような難問に直面したこともある。

 1967年10月31日に日本武道館で行われた吉田茂首相の国葬の際に、外国政府代表の席次につき当初は、第1順位として外国より特に来日した特派大使、その隣に当該国の在京大使、第2順位として特派使節に任命されたか否かにかかわらずその他の在京大使は外交団リストによる、という方針を決めて国葬前日に座席券を配布した。これに対して、「外国から来た特派使節と在京大使で特派使節に任命された者との間に差別を設けるべきではない」「在京大使の間では特派使節としからざる者との間では明瞭に区別すべきである」といった理由で若干の大使から抗議があった。結局、①本国より特使を派遣した12か国、特使の隣にその国の在京大使(若干の例外あり)、②特派使節に任命された在京大使(その順位は外交団リストによる)、③特派使節に任命されざる在京大使、④特派使節に任命された在京臨時代理大使、④特派使節に任命されない在京臨時代理大使、⑤南アフリカ及びハイティ総領事、⑥国連代表、の順とし、なおも抗議を行う大使に対してはこの基準は昭和3年以来の日本のプロトコールであるとしてこの方針を貫くこととした(『故吉田茂国葬儀記録』[1968])。外交官出身の吉田首相は死して外交儀礼の宿題を与えたともいえよう。

 外交の「面子」は晩餐会や午餐会におけるメニューにも現れる。その一例として、明治17年11月3日(天長節)の際の鹿鳴館での晩餐会メニューは次の通りであった。生牡蠣レモン添え、ウィンザー風ポタージュ、コルベールソース仕立て鯛のグラタン、ペリゴール風きのこのソース添え牛フィレ肉ステーキ、セロリのピュレ添え鶉のロースト、雉肉のゼリー固め、洋梨のシャーベット、ロースト七面鳥風のサラダ、英国風絹さやのあえもの、プラム・プディング、アイスクリーム(コーヒー味)。

 このメニューは外交史料館別館展示室に展示されている。同展示室には開国から戦後までの日本の主要な条約が関連の写真とともに展示されており、日本外交史を目で体感できる(しかも無料で)。それにしても、明治の「セレブ」は大食漢だったのであろうか、あるいは国家の威信を賭けて「奮発」したのであろうか。国賓として来日したオバマ米国大統領歓迎の宮中晩餐会(本年4月24日)のメニュー(コンソメスープ、真鯛洋酒蒸、羊腿肉蒸焼、サラダ、富士山型アイスクリーム、果物)と比較してもいかに多いかがわかる。西川恵氏の『エリゼ宮の食卓』『ワインと外交』『饗宴外交』『歴代首相のおもてなし』といった一連の「美味しい」著作は、晩餐会や午餐会で供される料理とワインが、ホストによるゲストの格付を示すことを実感させてくれる。まさに「皿は口ほどにものを言う」。

 外交における最も重要な作業である交渉は、当事者が同じ場所に会して顔を合わせて(「面子」を揃えて)行うのが通常である。第三者による仲介の場合も両当事国の代表と仲介者が一堂に会するのが通常である。しかしながら、両当事国の関係が極めて悪い場合には、一堂に会することも困難となる。両当事国が「面子」を揃えられない状況下で仲介者が両者の間を行き来して紛争を処理した稀有な例として、第4次中東戦争で最悪の関係となっていたシリアとイスラエルの間をヘンリー・キッシンジャー米国国務長官が1974年5月に専用機で1カ月間、頻繁に往復して仲介を行い、月末に兵力引き離しの合意にこぎつけたという例が挙げられる。UNDOF(国連兵力引き離し監視軍)はこのシャトル外交の産物である。キッシンジャーの回想録(Years of Upheaval, 1982, 邦訳『キッシンジャー激動の時代3 核と石油の世界戦略』)では、このシャトル外交につき、「ニューズウィーク誌の表紙は、私にスーパーマンの服を着せていた」「評論家たちは、往復外交を史上最大の外交成果のひとつとしていた」という自我自讃がみられる。

 両国間の関係が良好であっても、地理的に離れているゆえ交渉の経済的・時間的コストを合理化するために「面子」を直には揃えないという例も最近、現れている。日本とウルグアイの投資協定交渉は、2012年12月から本年3月までの間で6回開催されているが、いずれもテレビ会議方式にて行われている。外交交渉の新しいスタイルとして注目されよう。

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