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書評

『変貌する資本主義と現代社会――貨幣・神・情報』

今日的なシステム論の可能性を求めて

首都大学東京都市教養学部准教授 水越康介〔Mizukoshi Kosuke〕

正村俊之/著
四六判,256頁,
本体2,100円+税

社会の変化を貨幣の運動から捉える

 本書は、貨幣の運動に注目しながら、現代の資本主義社会の内部的変化と、他の機能システムとの関係の変化を捉えようとしている。主題として議論されるのは、サブ・プライム問題に端を発した金融恐慌である。以下では、本書の概要を紹介した上で、われわれ商学や経営学への示唆を考えてみることにしたい。

資本主義社会の変容

 近代以降の資本主義社会は、それまでの商品資本主義や高利貸資本主義から区分される産業資本主義であるとともに、政治や教育といった他の機能システムから分化した経済システムでもある(第1章)。この資本主義社会にあっては、生産が重要な位置を占めるがゆえに、マルクスがかつて捉えたように産業恐慌こそが重要な問題であると見なされてきた。一方で、新自由主義の下で進められた金融緩和は、貨幣の自律的な増殖を促進させ、産業資本主義はさらに金融資本主義へと変容していった(第2章)。この変容の中で、産業恐慌よりも金融恐慌が大きな問題として顕在化するようになる。金融恐慌は、生産と消費のギャップを暴力的に解決する産業恐慌よりも歴史的にもともと古く、経済や社会にとって本質的な問題である。

 金融恐慌を理解するためには、自らに対する信用=信仰を基礎にし、計算不可能なものを計算可能なものに置き換えるという貨幣の情報機能に注目する必要がある(第3章)。貨幣は、最初から商品交換媒体として誕生したわけではない。原始貨幣の起源は、社会の根源的な形式としての供犠にあるという。神への贖罪や人同士の損害賠償を可能にする支払いの手段が貨幣だった。貨幣は、本来計算できなかったはずの何かを計算可能な形に置き換え、等価なものとして交換を実現させる。現在では当たり前の市場における交換の等価性も、貨幣の前に存在していたのではなく、貨幣を通じて創出されているとみなされる。

 こうして貨幣に媒介された市場は、市場参加者間の差異(分離)が保証されつつ、貨幣によって一元的な数量的情報として結合される (第4章)。一元的な数量的情報は需給の調整を容易にし、市場の表層構造としてネガティブ・フィードバックが働くようになる。その一方で、貨幣そのものの価値は商品としてでもなければ国家の公権力によってでもなく、人々がそれを信仰し信用するという無限の跳躍によって実現されている。それゆえに市場の深層構造では、交換できるから交換する(信用するから信用する)という、分離なき統合によるポジティブ・フィードバックも働く。商品市場ではこの2つの構造がある程度分離されているが、貨幣そのものを商品とする金融市場では、市場参加者間の差異(分離)を想定することが難しくなる。人々はただただ貨幣の獲得と増殖のために金融市場に参加し、その目的がより先鋭化するとき、市場の表層でもポジティブ・フィードバックが働き始める。市場はある種の沸騰状態となり、どこかで針が反転したとき、ポジティブ・フィードバックのまま急激な崩壊を経験する(第5章)。

 さらに現代の金融恐慌は、貨幣そのものが可能にした計算不可能なものを計算可能にするという最古のデジタル技術とともに、金融工学やITといった最新のデジタル技術が結びつくことによって、装いを新たにして顕在化している(第6章)。特に金融工学の発達はリスクを証券化して市場化することを可能にし、その市場は情報化によって世界規模で急激に拡大した。金融工学は一方で市場リスクや信用リスクを分散させ、またヘッジさせることを可能にしたが、同時にその方法は、依然として、深層構造において信仰と信用に支えられた貨幣の根本的な飛躍を克服するものではなかった。それゆえに、大きく成長を遂げた金融市場は、1度根本的なリスクに目を向けられた途端、これまでにない崩壊を引き起こしたのである。

 最後に第7章では、こうした貨幣の運動が他の機能システムにも影響を及ぼしつつあることが示される。すでに第6章では、リスクの高度な分散の仕組みは新しいガバナンスの仕組みであるとも理解され、経済システムと政治システムの関係が変化していることが示唆される。その上で、最終章で特に焦点が当てられるのは教育システムである。経済や貨幣とは別に動いてきた教育システムは、近年、教育改革として外側からも内側からも市場原理の導入が進められている。この結果、教育が市場化されるというだけではなく、例えば教育の質なるものが、研究費の獲得額によって計算されるようにもなる。計算不可能なものを計算可能なものに置き換えるという貨幣の機能が拡張され、さらにはそうした資金を国家的機関が脱権力的にではあれ管理し評価するということから、いよいよ「経済」「政治」「教育」の各システムが架橋されつつあるとする。

 ルーマンのシステム論から貨幣を捉える本書は、貨幣の運動が機能分化の再編を促していることを示す。これまでの貨幣論においても、貨幣は神と人の関係にみられるように、メタレベルとオブジェクトレベルを循環する特殊な存在と見なされてきた。1つの体系に1つの貨幣を見出す時代からその複数性や不完全性に注目するようになる中で、本書で議論される貨幣は、貨幣の機能もまた拡張していることを示すことで、ルーマン流にいえば他でもありえた可能性を現実の中で見出そうとしている。貨幣は、内容的には未規定な純粋な形式によって定義づけられる存在だからである。

市場の機能と貨幣の機能

 われわれが専門とする商学や経営学からは、大きく2つの点で特に興味深い。商業の機能分析と、マーケティングの概念拡張に関して、重要な示唆があるように思われる。

 第1に、本書の冒頭ではマルクスやケインズの貨幣論から生産と消費の不一致が語られる。この不一致こそが産業恐慌の根幹だったわけだが、この問題を現実的に解決してきたのは、1つには、商学が取り扱うことになった商業や商人の存在であり、本書でいうところの(原始)市場だったといえる。生産と消費の懸隔を埋める商業は、本来無用であると言われながらも、貨幣の機能に似て、過剰な供給を時間的にプールし、また社会的品揃えのもとで効率的な供給を実現してきた。

 この機能は、やがて生産者に取り込まれてマーケティングへと形を変えていく。商業者が担う商業活動と、寡占的生産者が担うマーケティング活動は、それゆえに当初は対立する契機として理解される。マーケティングは、自らの商品を独占的、かつ効率的に消費者へ送り届けるために商業を排除しようとする。同時に、生産と消費の不一致に関するリスクを依然として自身から切り離し商業に負担させるべく、特殊な取引形態を作り上げる。市場取引でもなければ内部取引でもない、系列の構築である。

 時間の中で、系列に代表される生産者と商業者の関係はさらに変化を遂げる。当初商業者に比べて規模的優位を保っていたはずの寡占的生産者は、市場の成熟化の中でその地位を徐々に失う。今日では、商業者が生産過程に入り込み、プライベート・ブランドにみるように生産と消費の不一致に関するリスクを逆に生産者へと負担させるようになっている。

 貨幣の機能との類似でいえば、さらに、商業もまた計算不可能なものを計算可能なものに置き換えてきたようにみえる。顧客のニーズという目に見えず、存在するか分からない心の総体を「市場」として生産者に提供し、見込み生産を可能にしてきたからである。それは貨幣の機能とも言えようが、商業の機能とも言えそうだ。

 おそらくこの機能こそ、今日的な大規模商業者が得意とするところでもある。POS(販売時点情報)に始まり、近年ではビッグデータに至るまで、顧客のニーズに関わる最も重要なデータは商業者の手中にあり、生産者は、データを何らかの形で彼らから入手する必要がある。商業者が当初のマーケティングと商業の対立を乗り越え、新たな時代を切り開くことができるのは、貨幣にも新たな力を与えたITによるものだろう。本書においても、原始貨幣と原始市場の異同が議論され、貨幣がいつの頃からか市場へと入り込んでいったとされている。われわれの観点からいえば、同時に市場もまた、その機能を変化させ、自らも変容してきたといえるかもしれない。その具体的な過程を描くことは商学のテーマだろう。

 第2に、貨幣が教育システムや政治システムにとっても重要な機能を提示するようになっているという点も興味深い。われわれが知るマーケティング研究では、こうした問題は1970年代に顕在化したように思われる。旧来寡占的生産者の特殊な活動だと見なされてきたマーケティングが、中小企業はもとより、先の商業者や、さらには公共・非営利組織にもまた浸透していることが示され、交換一般を捉える理論枠組みの再構築が求められたのであった。

 マーケティング活動が生産と消費の不一致の解消を目指すかぎり、その活動は、商業者ですら、共有可能な側面を有している。ビジネスの世界全般においてマーケティングが必要になるということは十分にありうる。同時に、こうしてマーケティングが新しい現場で必要とされる度に、マーケティングの論理は抽象化していくことになる。その極限として立ち現れたのが、ビジネスとは無縁のようにみえた公共・非営利組織だった。

 公共・非営利組織に入り込んだマーケティングは、顧客のニーズに応えることこそが最も重要な課題であるとして、ニーズの特定という実体化を進めていった。考えてみれば、このニーズの特定は、公共・非営利組織にとっての重要なアカウンタビリティでもある。なぜそのような政策や意思決定を行う必要があるのかという問いに対して、そこに重要なニーズがあるからと答えることができるようになるからである。どれだけ売上を上げたのかという貨幣的な計算が馴染みにくい分野にあって、ニーズの特定は興味深い機能を果たす。感覚として言えば、ニーズもまた貨幣のように循環している、のかもしれない。マーケティングの古典が主張する「マーケティングは顧客に適応しつつ顧客を創造する」という創造的適応の考え方も、この文脈で捉えられるだろうか。

 貨幣が新たな機能を有するようになっているという指摘に似て、当時からしてすでに、商業やマーケティングもまた新たな機能を見出していた可能性がある。改めてルーマン流にいえば、この際に見出されていたはずの他でもありえた可能性を現実の中で捉えなおすことは価値があるだろう。商学や経営学では、1960年代から70年代にかけてシステム論が注目されたものの、その後ほとんど議論されなくなってしまったといわれる。それは当時のシステム論の理解に限界があったからであろうが、今であれば、改めて新たな可能性を模索できるように思われる。

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