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書斎の窓

自著を語る

『はじめてのマーケティング』

マーケティング・マインドを伝える

青山学院大学経営学部教授 久保田進彦〔Kubota Yukihiko〕

久保田進彦・澁谷覚・須永努/著
A5判,248頁,
本体1,800円+税

 マーケティングは、ビジネス・パーソンにとって基礎的な知識の1つだ。いや、ビジネス・パーソンだけでなく、国、自治体、非営利組織で働く人たちにも、とても役に立つ。ヒューレット・パッカードの創業者であるデービッド・パッカード氏の「マーケティングは、マーケティング部門だけに任せるにはあまりに重要すぎる」という言葉が示すように、マーケティングは、およそ大半の社会人にとって価値がある。

 マーケティングとは宣伝のことでもないし、市場調査のことでもない。相手に何かを提供し、代わりに対価をもらう交換活動を実現することである。私たちの身の回りは、交換だらけだ。メーカーは製品とお金を交換し、テーマパークは楽しさとお金を交換する。政治家は政策と票を交換し、ブロガーは記事の面白さと閲覧数を交換する。マーケティングの適用領域は無限である。

 実はマーケティングを教える難しさがここにある。幅広い「市場」を抱えるほど、誰に向かって語ったらよいかが曖昧になる。マーケティングを教えるには、セグメンテーションとターゲティングが欠かせないわけだ。

 本書はこれから社会へ繰り出す若い方々にマーケティングの本質を伝える本であり、幅広くビジネスに携わる方々にマーケティング・マインドを理解してもらうための本である。つまりマーケティングを実践する人たちの本であり、単に教養として学ぶ人の本ではない。

 彼・彼女らの望みは、限られた時間のなかで、つねに役立つ知識を身につけることである。この望みに答えるには、贅肉を削ぎ落とし、マーケティングのエッセンスを凝縮する必要がある。こうして「ベーシックを論じる」というコンセプトのもと、きわめて骨太の本書ができあがった。

マーケティングの特徴

 手前味噌になってしまうが、本書は実務家にとても好評である。多方面から、マーケティングの考え方が変わった、読み進むたびに驚きがあった、もっと早く出会いたかった、といった評価をいただく。ベーシックな内容にもかかわらず、なぜそのように評価されるのだろうか。この疑問をひも解くために、まずマーケティングの特徴について考えてみる。

 マーケティングには2つの特徴がある。第1は実学であるということだ。かつて林周二先生が『現代の商学』(有斐閣)で論じたように、マーケティングは実学である。林先生によると、実学志向の強弱は、それに携わる人の呼称に“ist”がつくか、“erがつくかで分かるらしい。なるほど、実学志向の弱い自然科学や経済学に携わる人たちが、サイエンティストやエコノミストといわれるのに対して、実学志向の強い工学やマーケティングでは、エンジニアやマーケターといわれる。

 第2の特徴は、再現性を求めないということである。自然科学では、同じ手順をたどることで、同じ結果を得られなければ評価されない。もちろん学問としてのマーケティングは社会科学であり、常に再現性が求められるが、ひとたび実務に適用されると、同じ理論を使って、いかに違う結果を生み出すかが求められる。競合と同じものしか提供できなければ、たちまち価格競争に陥るからである。

 私は、この再現性を求めないということが、実学であるということ以上にマーケティングを特徴づけていると考えている。同じ実学であっても、簿記検定には価値があるが、マーケティング検定には(仮に存在したとしても)あまり意味がないことが象徴的だ。

思い込みをくつがえす

 経営戦略の世界には、よい戦略には「バカな、なるほど」が必ず含まれているという名言があるという。同僚によると、吉原英樹先生の言葉らしい。ある戦略が市場において成功するには、「思いもつかなかった」という創造性と、「たしかにその通りだ」という論理性が必要だということである。ちなみに「なるほど、バカな」ではダメだという。一瞬うなずかされるが、よく考えると論理が破綻しているからである。

 経営戦略と同様にマーケティングでも、「バカな」という創造性を高める教育と、「なるほど」という論理性を高める教育が必要となる。

 前者、すなわち創造性を高めるには、ビジネススクールなどで行われるケースメソッドが有効だといわれる。また、たがの外れた読書や学習が有効だという意見もある。さらに、経験や情報を活かそうとするための志向性が重要だという指摘もあるし、そもそも「学校」ではなく「塾」のような教育環境が必要だという声もある。いずれにしても、ひらめきの能力を高めるのは容易でないようだ。

 しかし、こうして創造性を磨いたとしても、それだけでは十分でない。「バカな」を支える「なるほど」を構成するための力が必要だからである。そして、このような斬新な着眼点をビジネスへ落とし込む力を育むには、意外かもしれないが、最新の理論や精緻な分析手法よりも、ベーシックな知識が役立つようである。

 マーケティングのベーシックな論理について深く語った本書が、優れた実務家らから高い評価をうけた理由も、ここにあるようだ。彼・彼女らの多くは「お客様は神様ではない」であるとか、「ポジショニング・マップでは真のポジショニングはできない」といった箇所を読んで、目から鱗が落ちたという。またセグメンテーションやターゲティングといったマーケティングの定番的論理について、長い間、誤解をしていたことに気づいたという。多くの意見に共通するのは、本書が、いままでの思い込みをくつがえしてくれたということだ。

手間のかかる料理

 その反面で、本書は大学のテキストとしては、教えるのがやや難しいという意見もある。学生に対して、「そういうものだ」と知識を詰め込むのではなく、「なぜそうなのか」を考えさせるテキストだからである。加えて、市場志向や文脈価値といったマーケティングの新しい考え方を全面的に取り込んでいることや、環境適応のような中核的論理について深く論じているせいもある。

 明治大学の水野誠教授は、マーケティング関係者に有名なブログ「Mizuno on Marketing」で、本書を次のように評している。

 

 これを教科書として用いる場合、教員にとって一見コンパクトで便利そうに見えるが、その基盤にある議論をきちんとカバーするには、かなりの勉強が必要とされる。そのための参考文献がきちんと書かれており、教員に勉強を強いるという意味で教育的な教科書といえるかもしれない。

 

 くちあたりの良い入門書でない分だけ、教員自身が本気で取り組まないと教えきれないというわけである。実はこれは、当初から予想していたことだった。本書の最大の特徴である「コンパクトなのに本格派」というギャップが生み出す作用であり、骨太なテキストとしての宿命でもある。

 幸いにして本書は、数多くの大学で採用されつつあるあるという。教壇に立たれる先生方にとって、本書は多少手間のかかる料理のようなものかもしれない。しかしその分きっと満足していただけるはずである。

有斐閣らしいテキスト

 本書はこのように、出版社にとって少々冒険をした内容となっている。売り切るためのテキストならば、流行の用語や細かな手法を紹介する方がよかっただろう。しかし本書はあえて、いつまでも色あせることのない、本質的な知識を提供することを選んだ。その意味で、本書はきわめて有斐閣らしいテキストであり、また有斐閣だから実現できたテキストだと思う。このようなテキストを刊行してくださった有斐閣経営陣の皆様には、深く感謝をしている。

 ところで本書には、一般的なテキストと比べて足りないものが2つある。ひとつは執筆担当者一覧である。本書は東北大学大学院経済学研究科教授の澁谷覚先生、関西学院大学商学部准教授の須永努先生との共著である。しかし私たちは、幾度も打ち合わせを繰り返し、完全な協働作業として本書を執筆した。3人が書いた文章が、各章にちらばっているのである。このため本書には、誰がどこを書いたかという執筆担当者一覧がない。3人が書いた文章が、各所にちらばっているからである。

 また本書には編集者への謝辞もない。なぜなら、本書がマーケティングを学ぶ読者のためのものである限り、編集者への謝辞は不要な情報だと考えたからだ。しかしこれは、私たちにとって非常に辛い選択でもあった。

 本書は有斐閣書籍編集第2部の柴田守様、尾崎大輔様の努力なくしては、決して完成しなかったものである。それゆえ、ここでお2人に感謝の意を伝えられることを私たちは大変嬉しく思っている。誌面をお借りして心よりお礼を申し上げたい。

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