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書斎の窓

自著を語る

『マクロ経済学の第一歩』

「ニュースがわかる」を超えて

京都大学経済研究所教授 柴田章久〔Shibata Akihisa〕

財務総合政策研究所総括主任研究官 宇南山卓〔Unayama Takashi〕

柴田章久・宇南山卓/著
A5判,232頁,
本体1,900円+税

 今回、私たちはストゥディアシリーズの1冊として『マクロ経済学の第一歩』を刊行させていただきました。章立てを見ていただければわかる通り、このテキストの構成は「標準的」な入門レベルのマクロ経済学の教科書とは大きく異なっています。ここでは、私たちが「標準的」ではない構成を採用するに至った経緯を説明することで、このテキスト執筆の背景にある意図を明らかにしたいと思います。

 著者たち2人が初めて本書の内容について議論を行ったのは2012年の4月のことでした。この時に私たちは、①経済学の知識を前提としない初学者が関心を持てる内容であること、②現実経済を考える助けとなるような内容であること、③数式をできる限り排除すること、④本格的な経済学を学ぶ基礎を身につけられること、の4点を基本方針に定めました。この方針自体は一般的なものであり、ほとんどの入門書の執筆者とも共有できる目標だと思います。しかしながらこの方針を具体化する方法は本によって大きく異なります。

 初学者に興味を持ってもらい、現実との接点に焦点を当てようとすると(①と②の条件に重点を置くと)、「ニュースが分かる」ことを大きな目標としてテキストを執筆することになります。マクロ経済学は1国全体の経済活動を分析対象とする経済学の領域ですので、株価や為替レートの変動、GDP成長率に景気回復、年金財政と消費税など、日々のテレビニュースや新聞が報じているトピックが守備範囲に入ります。日常生活との関連を強調することで、親近感を持たせるのがこのアプローチの特徴と言えます。

 この観点からは、本書の対象となる経済学の初学者が「マクロ経済」についてどのような知識を持っているのかをきちんと想定することが不可欠です。前提とする知識が過大であるならば入門書としての役割は果たせず、前提知識を過少に想定してしまえば記述が冗長となりむしろ読みにくくなってしまいます。想定する水準は、最終的には筆者の勘と経験に依存するわけで、まさに著者のセンスが問われます。

 私たちは、こうした「ニュースが分かる」系の本とすることを前提に、潜在的な読者がどのような知識を持っているかについて2012年の秋までに数回の会合を開いて検討しました。その中で、前提知識の判断基準を高校の「現代社会」および「政治・経済」の教科書の内容に求めることになりました。そこで、何種類もの高校の教科書を収集し、これらを改めて読んでみたのですが、これらの教科書には、実に多くの高度なトピックスが取り上げられており、その内容の豊富さに驚かされました。しかも、記述は簡潔にまとまっており、「マクロ経済」についての優れた手引き書になっています。その意味では、「ニュースが分かる」系の恰好の入門書としてまず挙げるべきなのは高校の政治・経済の教科書なのかもしれません。そうであれば、あえて私たちが新たな入門書を執筆する必要はないことになります。

 しかしながら、経済学を専門とする者として高校の教科書をみるならば、各トピックが簡潔にまとめられているだけで、トピックをつなぐ「体系」が見えてこないことに物足りなさを感じました。さまざまな経済問題の背景にある体系こそが「経済学」だからです。そこで、私たちは高校の教科書と差別化したマクロ経済「学」の教科書を書くならば、ニュースで用いられる用語の解説に留まるのではなく、背後にある体系の説明まで踏み込むことこそが重要であると考えました。

 もちろん、既存の「標準的な」入門書でも経済学の体系の解説に重点を置くものは少なくありません(というよりも、少し前までのマクロ経済学の教科書のほとんどがこちらの系統です)。しかし、それらの中で提示される「標準的な」マクロ経済学の体系とは、いわゆる「ケインズ経済学」です。

 ケインズ経済学とは、イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズの理論に基づきマクロ経済を分析する理論体系のことです。というよりも、そもそもケインズが1936年に出版した『雇用・利子および貨幣の一般理論』によってマクロ経済学という分野が確立したと言うべきで、かつてはケインズ経済学とはマクロ経済学の代名詞でした。今では、経済学者を含めた多くの人が、「経済全体の活動」すなわちマクロ経済に各個人の経済状況が大きな影響を受けていることを認識していますが、そのような認識自体がケインズ経済学の産物なのです。

 しかし、学術的な研究においては、(ケインズ自身のスピリットはともかく)IS−LMモデルに代表されるような「ケインズ経済学」は過去の遺物となっています。マクロ経済を分析対象とするという問題意識は受け継がれながらも、学術雑誌で展開される先端的な研究では20年以上前から全く別の理論的な体系(通常、新古典派的マクロ経済学と呼ばれます)が使われるようになってきているのです。ほとんどのマクロ経済学者は、新古典派マクロ経済学に基づき論文を書き、大学院レベルの教育をしているにもかかわらず、学部レベルの教育では依然としてケインズ経済学を教えているのが現状なのです。

 このように書けば、なぜ学部の教育でも新古典派経済学の枠組みに基づいた入門書を書き、それに従って教育をしないか疑問に思われるかもしれません。その最大の理由は、上で述べた大方針③に関わってきます。新古典派マクロ経済学は、他の経済学の分野(特にミクロ経済学)との関連が重視され、精緻に体系化されています。その論理体系は、それなりに高度な数学でなければ記述できないような複雑さを持っているのです。しかし、十分な数学的なトレーニングを受けていない初学者に、数式を多用した論理を展開することは大きなハードルになってしまうのです。

 高校の教科書とは違うマクロ経済「学」の体系を学生に伝えたい、しかしその体系は予備知識なしには理解が困難である、このジレンマがマクロ経済学の入門書を書こうとする者に取って最大の悩みとなるのです。このジレンマの回避方法によって「標準的な」マクロ経済学の入門書は2つのタイプに分けられるのです。なんでもよいから「マクロ経済の体系」を伝えようとすれば、IS−LMや総需要・総供給モデルなどの「ケインズ経済学」の概説書が1つの選択肢になりますし、体系的な説明を断念すれば「ニュースが分かる」入門書、つまりニュースで用いられる経済用語を解説することが主眼の入門書となります(最近では、こちらがやや優勢なようです)。

 ただし、こうした「標準的な」アプローチでは上の方針の④が代償となります。最先端の経済学が新古典派マクロ経済学に基づいている以上、「ケインズ経済学」を学んでもいわば袋小路ですし、経済用語のみを学んでもマクロ経済学の体系性は見えてきません。このため、より深くマクロ経済学を理解しようと、上級の教科書を手に取ったとたんにほとんどゼロの地点から再出発しなければならなくなってしまうのです。

 このような現状認識のもと、私たちはあえて入門書としては標準的ではないアプローチをとりました。それは、新古典派マクロ経済学の論理に基づきマクロ経済学の体系を提示すると言うものです。やはり、現在の先端的な経済学研究の成果を無視するのは健全ではないと考えたからです。一方で、理論的・数学的な難しさを回避するために、(かなりの逡巡はありましたが)マクロ経済学の重要な構成要素である「金融」を扱わないという決断をしました。

 マクロ経済は非常におおざっぱに「実物面」と「金融面」に分けることができます。そのうちの実物面だけに焦点を合わせたのです。実物とはリンゴや車などの「モノ」のことで、モノがどのように産み出され、配分され、使われるのかを分析対象とするのが「実物面」です。モノの取引の裏側には必ず「お金」が登場し、そのお金をめぐる取引が「金融面」です。金融面は制度的にも経済理論の観点からも複雑であり、直観だけではなかなか理解できない部分も多く、初学者にはハードルの高い側面です。そこで、まずは実物面の各市場の役割や関係を明らかにして、マクロ経済の構造を理解してもらうことをねらいとしました。

 私たちの考えでは、経済全体を分析対象とするマクロ経済学の醍醐味は、複数の市場の相互作用を分析することです。もちろん金融市場も1つの重要な市場ではありますが、この醍醐味をより容易に感じ取るために、あえて捨象したのです。

 実物面にしぼることで、2つの大きな副次的なメリットがありました。その1つが、「標準的な」入門書では取り上げられないテーマを扱うことができたことです。たとえば、所得分配や少子高齢化といった日本経済の重要課題に関連したトピックを扱っています。これらの課題は、マクロ経済学の分析対象ではあるにもかかわらず、従来の教科書では体系的に論じられることはほとんどありませんでした。この特徴が、上の②の方針で目指したように、現実経済の理解の手がかりになることを期待しています。

 もう1つのメリットは、金融面を無視すれば、「ケインズ経済学」と新古典派マクロ経済学の差はかなりの程度解消できることです。その意味では、私たちの本は、マクロ経済学に興味を持った読者が、次のステップにケインズ的なモデルを学ぶとしても、新古典派マクロ経済学を学ぶとしても、違和感なく接続できる内容となっているのです。

 金融面を無視するというアプローチには、基本的な構造をすっきり示すことができるという大きなメリットはありますが、マクロ経済学の重要なテーマの1部がまったく議論できないというデメリットもあります。たとえば、銀行などの金融セクターや中央銀行による金融政策などはそもそも登場もしていません。それでも、実物面だけでも重要な問題の多くが理解できますし、実物面の理解こそが金融面の理解のカギになると考えます。その意味では、私たちの本の次のステップとしては、中・上級のマクロ経済学の教科書に進むのではなく、マクロ金融の教科書を読んでもらいたいと考えています。

 以上、つらつらと述べてきましたが、マクロ経済学の先端的な研究と入門書の間に大きな断絶があることは、マクロ経済学者として真摯に受け止めなければならない事実です。私たちはその断絶を回避せずに正面突破を試みました。その代わりに、マクロ経済学の重要な1分野を切り捨てることになりました。この試みがマクロ経済学の初学者にとって有益であることを期待したいと思います。

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