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連載

ドイツ・ケルンから考えた日本――ケルン文化会館長異聞

第4回 ドイツにおける外国人・ヒトの移動 その2

千葉大学専門法務研究科名誉教授 手塚和彰〔Tezuka Kazuaki〕

はじめに

 ドイツ経済の好況ぶりは、第2次世界大戦後の西ドイツ経済をはるかに超えて、EU内でもひときわ目立っている。1990年代からの長い不況は終わり、ドイツの労働市場は完全雇用に近い。それにもかかわらず、熟練労働力は不足していて、その質・量ともに、歴史的に見ても低水準であるとの評価である。それは、なぜであろうか。

 その1つの理由は、長く続いた不況の中でリストラが行われ、先端的な技術・技能の持ち主が引退した後に後継者が育たなかったこと、技術者が他国に移住したことなどがあげられる。

 2つには、外国から優秀な技術者や技能労働者の流入があれば、その空白を埋め合わせることができるのだが、これにも成功していないという(ⅰ)。

 それと同時に、ドイツは日本と同様に人口減少・少子高齢化が最も進んでいる国の1つである。8273万人のドイツの人口の約16.9%にあたる1398万人が45〜54歳層であり、この世代の引退も近い。他方、5歳から14歳の子供はわずか736万人にとどまり、1950年代の半分以下にとどまっている。この結果、数年後には500万人の労働力不足が予測される。仮に、子供が増えたとしても、彼らが成長するまで最低20年はこの労働力不足を埋められないのである。ドイツは200万人の外国人の受け入れを考えざるをえないといわれる。当面、最良の策とされる外国人の受け入れが可能か、受け入れる場合にはどのような事態が引き起こされるかについて、いまやドイツでの論議は尽きない。

 ドイツ同様に、人口減少・少子高齢化社会にある日本でも、労働力不足に対して、外国人の受け入れ論議が盛んだが、ドイツの受け入れの諸問題について紹介する。

1 ドイツへの外国人の定住:留学生、家族統合、後期帰還者

 まず、典型的な受け入れ外国人の事例を見てみよう‌(ⅱ)。この10年ほどの間に、ドイツに移住してきた2人の外国人女性の対照的な例でみるとわかりやすい。

 トルコ人のネバット・ゼンメス(Nebhat Sönmez)は、34歳で故国ではほとんど教育を受けず、仕事もなかったが、トルコ東部の山岳地帯の小村から、ドイツに移住してきて、ここに故郷を見出している。彼女は、ブロンドに髪を染め、その服装は、ミュンヘンの繁華街のスタックスでも、イスタンブールのタクシン広場(両方ともそれぞれの町の中心街)でもさして目立たないほどである。彼女の夫は、デュイスブルクの警備会社で働いていて、今の仕事と収入に満足している。彼女は彼とトルコで知り合い、結婚し、配偶者としてドイツにやってきた。彼女は、ドイツで言葉が通じなくてもあまり問題を感じていないし、デュイスブルク以外のドイツの町をしらないというのである。

 中国人のディン・ヤン(Ding Yang)は大卒の留学生としてドイツにきた。彼女は、ほとんどなまりのないドイツ語を話すことができ、ドイツでも歓迎される技能・技術をもつ外国人であるが、いくつかの就職口があったにもかかわらず、故郷の北京に帰っていった。

 彼女は自らの豊富な経験により、ドイツをよく知っている元留学生である。29歳の彼女は、7年間アーヘン工科大学で経済地理を学び、修士号を取得した。彼女は2009年に学友から学生新聞のインタビューを受けた際には、ドイツで働くことは、自分には「最良の選択だと考えられる」と答えていた。

 ヤンさんは、2008年の北京オリンピックでは、ドイツ第2テレビ(ZDF)の通訳として働いた。その後、長期にわたり自動車部品メーカーのロバートボッシュ社の子会社で実習を受け、故郷に帰らずドイツで働くことを優先したのである。事実、大学の修了後、ドイツで仕事を見つけ、ここに安息の地を見出していた。ドイツの黒パンも美味だと感じていた。

 しかしながら、彼女はドイツに仕事があるにもかかわらず、2011年夏、故郷に帰るために荷造りをしたのである。現在では、彼女は北京のアーヘン工科大学の海外事務所で働き、今はドイツには6月に旅行にくるだけであるという。

 ドイツの26万人の留学生のうち25%のみが、ドイツで就職し、残りのほとんどは故国で就職するというのが最近の傾向である。2012年に、ようやく、新規留学生が帰国する外国人数を超えたものの、留学生がドイツにとどまる率は相変わらず低いという。

 また2000年以来、ドイツ系移民の東欧圏からドイツへの移住が多数行われてきた。いわゆる後期帰還者(Spä
taussiedler)である。事情は異なるが、最近日本に来た日系ブラジル人・ペルー人と比較できる。この人々は、旧ソ連をはじめ、東ヨーロッパ諸国に数世代前に移住していたが、冷戦の中で帰国がかなわず、その地に残らざるをえなかった人々である。ドイツ政府は、後期帰還者については、言葉や教育、仕事などの問題が多数あったにもかかわらず、すでに解決しているとしている。この後期帰還者の受け入れは、ドイツの外国人の受け入れのモデルの1つとなった。他方では、ドイツからは、約50万人の人々が外国に移住しているという現実もある。

2 外国人の受け入れと統合:相変わらず続く外国人受け入れの是非論議

 ユーロ危機以降、ドイツの経済は絶好調で、熟練労働者不足が続いている。技術者に関しては目下、約1万人の空席があり、求人のケースでは即決で決まることが多く、給与に関しても交渉次第である。病院での専門医のひっ迫は著しく、パソコンで雇い入れの話し合いをして、その結果、即採用となるほどだという。こうした中で、現在も外国人の労働者の受け入れをめぐって、さまざまな意見がある。

 外国人専門調査委員会の報告(ⅲ)は、ドイツへの専門・熟練労働者の受け入れについては、発展途上国にとってブレイン・ドレイン(頭脳流失)であるとして批判的であり、事実医師などが流出しているポーランドなどでは深刻である。

 その一方、ドイツの政治家の中には、以前から、移住外国人の数値を低く抑えることを是としてきた伝統がある。とりわけバイエルン州の政権与党キリスト教社会同盟(CSU)などは、この点で条件反射的な消極的対応をしてきた。CSUの幹事長のアレキサンダー・ドルプリント(Alexander Drobrindt)は、移民受け入れを容易にすることは難しい「関門」があるとして移民受け入れ論に反対している。彼は、現行の移民規定では受け入れのために十分でないので改正すべきだという意見があるが、これを改正すれば問題が解決するというのは「誤った信仰」でしかないと断言する。

 実際には、ドイツの中で最も労働力不足のアルプス地方(バイエルンおよびバーデン・ヴュルテンベルクの両州)は、既存の流入外国人についてはとうに受け入れ、吸収して、その流れの跡をとどめるに過ぎなくしている。

 最近では、2012年の州議会選挙後に、ほとんどの州では、「移住」(Zuwanderung)と「統合」(Integration)のタイトルを持つ大臣が任命されており大変化であるという。このような名称のポストの設置については、元首相のゲルハルト・シュレーダーですら仰々しいと表現したものである。

 いまやアルミン・ラシェット(Armin Laschet:2005年から2010年ノルトライン・ヴェストファーレン州の社会統合担当相でキリスト教民主同盟:CDU所属)やペーター・ストラック(Peter Struck:SPD)といった積極派は「専門労働力および移民受け入れ積極派」(die Konsensgrüppe Fachkräftebedarf und Zuwanderung) を組織して、党派を超えたコンセンサスを探ることになった。その目的は、法律案を作り、連邦議会に上程することにある。前政権の連邦労働社会大臣のウルズラ・フォン・デア・ライエン(Ursula von der Leyen:CDU)は、当初この動きに対し冷静な判断を求めた。その根拠としては、連邦政府が2025年までの間に、650万人の女性と高齢者を職に就けることを目標としていることにあった。しかし、この間10年から15年の期間の短期的な労働力不足と供給の遅滞に対して移民受け入れも選択肢の1つとしていた。そのためには、最低賃金を徹底することや、受け入れ外国人についての事前審査と学校修了者の優先的受け入れ制を取り入れようとしている。

 しかし、移民の受け入れの緩和を行ったとしても、その数が増える可能性は少ないという見解もあり、最初のコンタクトから社会統合までの従来のドイツの移民政策には誤謬があったという見解も有力である(ⅳ)。

 ドイツ側の反省として、ドイツに最初に来ようと考えた者に対して、必ずしもほほえみをもって受け入れたわけではないと、連邦雇用庁の外国人専門家の斡旋受け入れセンター長のゲラルド・ショーマン(Gerald Schomann)は、話している。彼は、外国からの専門職・熟練労働者の不足があるときに、外国からのその受け入れをしていて、「ドイツにようこそ」と書いたポスターを持って各国を訪れている。彼の課は、わずか11人のスタッフで受け入れを行っているのだ。

3 ドイツ語の壁

 外国人にとって最初のドイツへの関門はドイツ語だ。ほとんどの企業ではドイツ語の習得が必要であるからである。しかし、ドイツ語の習得は難しく、結局、英語で意思疎通するのがふつうである。その結果、優秀な人材をめぐって、アカデミックな領域では、アメリカなどの労働市場と競合し、ひいてはスカンジナヴィア諸国やオランダなどとも競合して人材の引っ張り合いとなる。その場合、ドイツ語の強い意味が失われている。

表 2000〜2005年のゲーテ・インスティテュートでのドイツ語履修者

人数

増減(%)

ポーランド

2345

+6.2

ロシア

2312

-30.4

フランス

1037

-17.7

ウクライナ

 689

-9.9

ウズベキスタン

 640

-12.5

米国

 494

+16.5

ハンガリー

 442

-26.8

チェコ

 441

-21.9

イタリア

 432

+49.0

オランダ

 366

-13.7

 まず、2000年以降のドイツ語履修者数につき、国外でのドイツ語教育に従事するゲーテ・インスティテュートの5年間の資料で見よう。その数は必ずしも多くなく、また今後の予測も上向きではない。

 それでは、2012年の大学などでの外国語履修状況をみると、EUの学生をとってみても、90%が英語を学習し、3分の1はフランス語を学習しており、わずか14%がドイツ語を学習しているだけである。2000年から2010年の間に世界でのドイツ語学習者は30%減少し、チェコのように20%がドイツ語を話すところでは、ドイツ語学習の意味も少ないとされている。そのために、ショーマンは、なお、ドイツ語の普及の可能性のある国を求め、人材確保行脚が続く。

 EU諸国内のハンガリーやブルガリアなどと、ロシア、ヴェトナムからの受け入れのために、前労働社会大臣のウルズラ・フォン・デア・ライエンも行脚してきた。どこの国から優秀な労働者を受け入れられるかを考えた結果である。果たしてこの試みが成功したかは、今のところ分からないとされる。州レベルではドイツへの移住の可能性を大きくすることに専念しているとアルミン・ラシェットは言う。そのような動きがあっても、ドイツおよびドイツ政府ホームページにはまったくアクセスできない。まず、Deutschland.deにより、外務省のホームページを見ても似たりよったりだという(ⅴ)。彼の批判によれば、ドイツは外国からの移住者を歓迎するという風には見えないという見解である。

 前記のヤンさんの場合にも、あらゆる情報を自ら集めたが、結局その出身大学のルートしかなかったそうである。

 また、2009年にエアバス製造会社のEADSが80人の技術者をロシアから1度に受け入れようとしたとき、その配偶者の受け入れがかなわなかったことも知られている。これに関わる連邦移民難民局(das Bundesamt für Migration und Flüchtlinge)が受け入れをストップしたからである。その理由は、彼らがドイツ語を、入国後に習得できそうにないということであった。

 ここで、2007年以降、移住者に義務的なドイツ語の試験を課するとするのは良案であるという意見が強い。これにより統合可能性を確かめられるという。ドイツの移民政策はまず移民を受け入れないという方針から始まっているが、かつての植民地国家の英国、フランス、オランダは、2004年の東欧諸国のEU加盟後、ただちに受け入れるという政策をとってきた。ドイツ、オーストリアは7年間の受け入れ停止期間をおき、2013年5月1日から自由化した。EU内は2つのタイプの国に分かれたのである。

 最近では、EU以外の学校の卒業者に対して、最初の就職時から90日間のドイツ語の向上に関する試験が課されている。現在では、半熟練職でも仕事をしながら、ドイツ語を取得できるのである。しかし、ドイツ語クラスからドロップアウトすると就職できない。その試験の合格率は50%のようだ。

4 移民国家への途:107の規則の壁と様々な試み

 ドイツは長い間、国籍については血統主義であったが、2000年の改正で、ようやく重国籍を認め、部分的に生地主義をとった。しかし、現実は一様ではなく、具体的措置として、18世紀にボルガ地方に行った移住ドイツ人の末裔には二重国籍を直ちに与え、ドイツ生まれのトルコ人にはそれを与えないという差があった。この考えは未だに残っている。

 外国人滞在法(Ausländersgesetz)の107の規定は、ごく一部の外国人にしか適用がない。また、滞在後一定の期間中に職を探すことを義務づけるという規定にも無理がある。ヤンさんは、中国の方が仕事の目的が果たせるという。

それでは、実際に外国人を受け入れようという求人側の現実を見てみよう。

 求人側は必ずしも熟練・専門労働者のみを求めているわけではない。むしろ、不熟練労働者の不足で、仕事・営業に差し支えが出ているところでは、不熟練労働者を求めて、様々な試みがなされている。

 例えば、下バイエルン地方のデゲンスホテルの経営者によると、その地方では若い人が少なく、どの企業も非熟練労働者が不足しているという。その結果、操業停止の企業やホテルが続出し、そのために一策が講じられた。この町とブルガリアのブルガス(Burgas)という町とで友好協定を結んだのである。ブルガスでは、3分の2以上の生徒が第1外国語として、ドイツ語を学んでいることから、協定の相手方としては最良だとされた。両国の賃金格差が大きいことから、その若者がドイツで働くことが期待されたのである。20人を採用する目的で、使用者が当地に行き、ジョブメッセを開いた。この結果、何人かが就職することとなった。このプランは反響を生み、これにならって、いくつかの町が追随したのである。またザクセン州でも、チェコのアズビスとの間で同様なシステムが採用された。このような試みは、日本でも1980年代に試みられ、今日も技能実習制度などとともに試みられてきた。

 こうした、外国人労働者の受け入れについて、前記のアルミン・ラシェットは最初の社会統合担当相としてはあまり評価できるものではなかったという。これは、少子高齢化とエネルギー改革によりさらに、国際競争で困難な立場に立たされたこともあって受け入れ側の企業や政府に余裕がなかったことにもよる。これに対し、フランスや英国は早期に最良の労働者を獲得したといえ、この点でも、ドイツには何らの戦略もなかったという見解である。

 日本も他山の石として、ドイツの経験から学ぶことが可能である。

 

(ⅰ)Report der Sachverständigenrat deutscher Stiftung für Integration und Migration

(ⅱ)Kein schöner Land, Wirtschaft Woche 23.5.2011

(ⅲ)Report der Sachverständigenrat deutscher Stiftung für Integration und Migration

(ⅳ)Klaus Bade(Integrationsforscher und Vorsitzender des Sachverst-ändigenrats Zuwanderung: 移住専門家委員会委員長)の見解

(ⅴ)ebenda

(注)なお、本報告について、「ヒトの移動の経済・文化に及ぼす影響」として平成23年度野村学芸財団学術奨学金をえた。

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