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書斎の窓

巻頭のことば

経済学とその周辺

第1回 残念判決

武蔵野大学経済学部教授 奥野正寛〔Okuno-Fujiwara Masahiro〕

 最近では「法と経済学」という研究教育分野が生まれ、法学と経済学との共同作業が発展してきている。とはいうものの、同じ社会科学を代表するこの2つの主要分野のアプローチは対極的であり、相容れないものがあるといってよい。実はそれが、私の人生の岐路を決定づけたといってもよいかもしれない。私事になるが、このことについて述べてみたい。

 私は当初、法学を目指すべきか経済学を目指すべきか悩みつつ、東京大学の法学部志望生が入学する文科1類に入学し、必修科目である「法学概論」をとった。実は、この講義で先生から教わった、これこそが法学の本質だという「残念判決」の事例が、私を経済学に転向させる契機となった。50年近くも前の話で私の記憶も薄れているし、このコラムの読者には法律の専門研究者がたくさんおられるので、私の無知をさらけ出してしまうかもしれないが、この経験を書いてみたい。

 私の記憶では、問題は確か以下のようなものだった。船会社に責任がある海難事故で、海に投げ出された人が死んだ。当時の法律では、船会社に対する損害賠償請求権は本人にしかなく、当人が損害賠償請求を行わなければ、船会社は賠償を免れることができた。死亡者の相続人に対しても、当人が賠償請求をしなければ、会社は賠償を免れる。この場合、もし死亡した本人が「賠償請求を行う」という文書を残すなり、海で第3者に聞こえるようにそう叫べば、賠償請求権は相続人に相続される。しかし、それをしなかった場合、船会社に賠償させ相続人を救済する方法はないか、というのが講義の主題だった。あくまで、当人自身しか損害賠償を行えない、という法律の存在が前提である。

 担当教授が示した解決策は、当人が賠償請求を行ったと解釈できる行為を広くとり、それを基に救済措置を講じるというものだった。その典型例として挙げられたのが、死亡した本人が死ぬ間際に、「(自分はこんな事故で死ぬことになって)残念だ、残念だ」と第3者に聞こえるように叫んだ事例である。当該行為をもって船会社に対する賠償請求を行ったとみなすべきである、という判例があり、これが「残念判決」と呼ばれているということだった。教授はこの話がいかに重要な法学の考え方であるかを、長時間をかけて講義した。

 まだ若く、法学の本質がわかっていなかった私には、この話は実に馬鹿馬鹿しく思えた。動かせない前提として、本人しかできない賠償請求権という法律を考えるこが非現実的に思えたからである。「賠償請求は本人しかできない」という法律をそもそもの前提にするのがおかしいのであり、賠償請求権を相続可能にすれば良いではないか、というのが私の単純な疑問だった。法律解釈の変更ではなく、法律自体を変えればよいはずだというわけである。

 これに対して、同時に履修していた経済学入門の講義では、考え方が全く逆だった。ミクロ、マクロ、マルクス経済学と、アプローチや流派は違え、考えることは同じだった。経済社会がどういう形で動いているのか、どこに問題があるかという本質を明らかにし、より良い社会を作るためには、どんな仕組みや政策を行うべきかを考えようというわけである。法律も含めて、社会の仕組みや政策をより良いものに変えてゆくことこそ社会科学の本当の在り方だ、という考え方がその背景にあった。そんな経済学に魅力を感じた私は、法学部に進むことを止め経済学部に進学した。

 あれから何十年もたって、私も法学の考え方の重要性をそれなりに理解してきている。社会の安定のためには、法律が朝令暮改のように頻繁に変更されることは望ましくなく、安定した法律体系の中で時代の変化に対応するためには、新たな判例を作り学説を変更することで対応する方が望ましいというのが、言ってみれば法学の基本的な考え方だろう。

 とはいえ、解雇権濫用の法理や様々な規制改革の可能性を論ずる場で、いわば「白地に絵を書く」ように法律や法律解釈を変更すべきだと論ずる改革派の経済学者と、そんなことをすると社会は混乱するばかりで、従来の法解釈を守るべきだと主張する保守的な法学者の間の葛藤は絶えない。グローバル化やIT化に伴う時代変革のスピードアップや、日本社会における成長戦略の必要性を考えるとき、法学者にももう少し経済学の考え方を理解してほしいと、隔靴掻痒の念を抱く経済学者は私だけだろうか。

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