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書斎の窓

自著を語る

『西洋政治思想史』

西洋政治思想の通史を1人で書くことの蛮勇について

東京大学社会科学研究所教授 宇野重規〔Uno Shigeki〕

宇野重規/著
四六版,252頁,
本体1,700円+税

 このたび私は有斐閣アルマの1冊として『西洋政治思想史』を刊行しました。この本のオビには「ソクラテスからサンデルまで」という秀逸なコピーをつけていただきましたが、この本の特質を一言でいえば、古代ギリシアから現代の政治理論までを、しかも1人の筆者が書き下ろしたということに尽きます。

 とはいえ、これがまさに蛮勇であることも間違いありません。2000年以上にわたる西洋政治思想の歴史を概観することは、気が遠くなるような営為です。それも、個別思想家や多様な概念についての研究は、内外を通じてまさに汗牛充棟の状況です。そのおおよその見通しをつけることさえ、けっして容易ではありません。

 私が学生時代に勉強したのは福田歓一『政治学史』(東京大学出版会)です。近代社会契約論を中心に西洋政治思想史を展望するその輝きは、いまなお薄れることはありません。ホッブズ・ロック・ルソーの3人を軸に、政治における近代とは何であったのかを論じる本書の影響は、依然として巨大です。

 シェルドン・S・ウォーリン『西欧政治思想史』(福村出版、増補版の邦訳タイトルは『政治とヴィジョン』)も印象深い通史です。ハンナ・アーレントの影響下に、「政治」の誕生とその衰退を巨視的に描く筆致は圧倒的です。教科書というにはいささか個性的に過ぎる各思想家の評価も魅力的です。まさに、ウォーリンにしか書けない、「ウォーリンの見た西洋政治思想史」と言えるでしょう。

 とはいえ、その後あまり「一人通史」は見られなくなります。福田『政治学史』の刊行が1985年なら、同じ年に、やはりきわめて重要な藤原保信『西洋政治理論史』(早稲田大学出版部)も出版されています。ウォーリンの本の邦訳も1970年代末に刊行されているので、80年代はまさに偉大な「一人通史」の時代でした。それと比べるならば、以後、いくつかの貴重な例外はあるものの、あまり1人の著者による西洋政治思想の通史は登場しなくなります。

 もちろん、この間に西洋政治思想史研究に進展がなかったわけではありません。それどころか、後述するように、「共和主義」や「政治的人文主義」と呼ばれる、巨大なパラダイム・チェンジが進行したのがこの30年でした。それなのに、なぜ「一人通史」は書かれなかったのでしょうか。

 やはり大きかったのは、西洋政治思想史を「語り切る」ための見通しをつけることがきわめて難しくなった、という事情でしょう。例えば、福田『政治学史』の迫力は、社会契約論こそが西洋政治思想史を貫く主旋律であるとする著者の学問的信念から来ています。敗戦から再出発した戦後日本において、それまでの伝統的な人と人との結びつきに代えて、個人と個人の自覚的な合意によって社会を再構築することは喫緊の課題でした。政治における「作為」の契機に注目する福田の問題意識は、まさに日本の戦後民主主義の確立と不可分ものものでした。

 ウォーリンの「政治」への注目もまた、現代社会において、言語を介して多様な諸個人がコミュニケーションを行い、公共的な意志決定を実現していくことの意義を再確認するためのものでした。政治的イデオロギーやプロパガンダがマスメディアを通じて巨大な影響を及ぼした20世紀という時代に対する、ウォーリンなりの異議申し立てこそが彼の通史の中核となっています。イデオロギーの時代である19世紀に「政治哲学の凋落」を見るウォーリン独自の歴史観もそこから来ています。

 このように福田やウォーリンの「一人通史」には大きなストーリーがあります。そのような物語は、著者の学問的信念に基づくものであり、そのようなストーリーラインに即して、各思想家の意義付けがなされ、取捨選択も行われています。その意味で、彼らの西洋政治思想史を読むことは、それを通じて、独自の政治的価値観を読み解くことを意味しました。

 そうだとすれば、現在、「一人通史」が珍しくなっている理由も明らかでしょう。現在、長い西洋政治思想史を総括するような、「大きな物語」を構想することは難しくなるばかりです。ヘーゲルのように人類史を自由の発展として描くことはもちろん、歴史を単純に民主主義の発展として説明することに対しても、異議申し立てがなされています。そもそも歴史とは、何らかの理念が実現していく過程なのでしょうか。疑問は増えるばかりです。

 結果として、個別の思想家についてのモノグラフの蓄積もあり、多くの教科書は共同執筆が多くなっています。多くの専門家が、それぞれの分野の最新の研究成果を持ち寄り、そのエッセンスをまとめることで教科書とする。このような方針は、日本のみならず、海外でも多く見られます。おそらく現代の状況からして、もっとも無理のない、自然な方針であると言えるでしょう。

 とはいえ、初学者にとっては、このような最新研究のエッセンスというのは、どうしても不親切なものになりがちです。1つひとつの章の解説は優れていても、なかなかその全体像が見えてこない。結局、この学問はいったい何を目指し、何を追求する学問なのか、わかりにくい。そのような感想には無理からぬものがあります。

 その意味で、今回の私の『西洋政治思想史』は、かつての偉大な「一人通史」とは一線を画す(というより、比較するのがそもそも不遜というものでしょう)一方で、現在一般的な共同執筆の教科書の弊害を避けることを目的として企画されたものです。

 しかしながら、はたしてそのような企ては可能なのでしょうか。「大きな物語」を回避しつつ、1つの読み物として読者を西洋政治思想史の世界へと誘うことは、およそ不可能な試みなのではないでしょうか。

 私が本書で採用したのは、「読むこと」の重視です。西洋政治思想史とは、歴史のなかで読み続けられてきた古典が積み重なってできたものです。ある古典を読んだ個人が、その古典で培われた眼をもって、自分の眼前の政治的現実を観察する。そこで得られた知見を書き記したものが、さらに後の時代にとっての古典となっていく。このような連続こそが、政治思想史の伝統を形成していると考えるのです。

 例えば、『君主論』で知られるマキアヴェリは、同時に古代ローマの歴史家リウィウスの著作を敬愛し、ローマの共和政から学ぼうとしました。そのようなマキアヴェリの著作『リウィウス論(ローマ史論、ディスコルシとも)』は、さらに17世紀イングランドで読み継がれ、人々は当時進行していた内乱を克服する鍵をそこに模索しました。

 古代ローマの共和政というプリズムを通じてイングランド内乱とその政治学から深くを学んだモンテスキューは、『法の精神』によって古典古代と近代を架橋することを試みます。そのモンテスキューはさらに、アメリカ独立期の指導者たちによって読み継がれ、『フェデラリスト』というアメリカ建国の思想へと結実しました。

 このように古典を「読む」ことの意義を重視する思想的伝統は人文主義と呼ばれ、とくに「読む」ことをさらに政治の変革へとつなげようとする潮流は政治的人文主義(シヴィック・ヒューマニズム)と呼ばれます。さらに古代ローマの共和政に範をとって「公共の利益」を重視し、その政治体制から思想的インスピレーションを受けた思想家たちの流れは、共和主義の名の下に捉えられるようになりました。

 本書ではこのような政治的人文主義や共和主義という研究潮流から多くを学ぼうとしています。このことは、目次だけを見ても、ローマの政治思想に1章を割いている点や(第2章)、17世紀イングランドの政治思想を扱う第5章でホッブズやロックといったその名の良く知られた思想家たちと並んで、ハリントンという思想家にスポットライトがあてられている点からも、明らかなはずです。

 ちなみにハリントンとは、マキアヴェリを媒介に古代ローマの政治思想をイングランドに伝え、さらにアメリカ独立期の政治思想にも多大な影響を与えた、共和主義のキーパーソンです。かつてアメリカ建国の思想といえばロックの名があげられましたが、いまではハリントンの影響を強調する研究が増えています。

 本書のなかで私は、このような「読む」ことの伝統を現在の視点から継承し、とくに極東の日本という、西洋的な人文主義とはまったく異なる思想的伝統に属する社会へと媒介することを目指しました。はたしてそのようなねらいがどれだけ成功しているかは読者の判断を待つしかありません。とはいえ、本書に対し、早速韓国語版のお誘いが届いていることは、西洋政治思想史と東アジアの新たな交流が進む21世紀社会を予感させる兆しなのかもしれません。

 西洋政治思想史の伝統は、今日なお読み継ぎ、継承していくに値する巨大な知的蓄積です。しかもその蓄積は、さらなる現代的革新を求めています。その流れに1人でも多くの読者を招待できれば、それにまさる喜びはありません。

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