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書斎の窓

コラム

権威への挑戦(下)

京都大学名誉教授 前田達明〔Maeda Tatsuaki〕

「証明」の意味

 司法研修所のいう“要件事実が証明できなかった場合には(すなわち、その要件事実は存在しないものとして)法律効果の発生は認められない”という命題は、一見、当たり前のように思える。しかし、これが“落とし穴”なのである。というのは、ここにいう「証明」とは、実験に基づくような「科学的証明」ではなく「経験則に照らして全証拠を総合検討し」要件事実があると「是認しうる高度の蓋然性を証明す」ればよい、すなわち、「通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信をもちうるもの」なのである(最高判昭和50年11月24日民集29集9号1417頁)。そして、この「確信」とは、「八割がた確かであるとの判断」であるとされている(中野貞一郎ほか編『新民事訴訟法講義 第2版補訂2版』[2008年、有斐閣]358頁)。ということは、要件事実の存在について7割がた確かであるとの判断、したがって、3割がただけしか不存在の可能性が残されていないという判断のときでも、常に、その要件事実は不存在ということになり、法律効果の発生が認められないのである。しかし、それでは、誠に不公平ではないだろうか。さらに問題なのは、証明責任は裁判手続に関する問題であるから、憲法第76条第3項(手続法的意義)に鑑みて、当然、その法的根拠がなければならない。しかし、その点については、司法研修所は黙して語らずである。

証明責任の機能

 この点について、私は、次のように考えている。

 要件事実が真偽(存否)不明となったとき、裁判官は“解からない”として裁判を拒否することはできない。すなわち、それにも拘わらず、判決を下さなければならない。何故か。それは憲法第32条が、そのように要請するからである(中野貞一郎『民事裁判入門 第3版補訂版』[2012年、有斐閣]269頁)。憲法第32条は、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪われない」、と定めている。だから、両当事者、例えば甲は「履行をしない」という事実を、乙は「履行した」という事実を証明しようと懸命に努力するが(当事者の訴訟行為)、最終的に(すなわち、当事者の訴訟行為が終了した後)(1)、裁判官が、どちらとも確信が得られないという状態になったとき、履行をしないか履行したかが不明だから裁判出来ない、と“裁判拒否”は出来ないのである。ということは、どちらかに決断して裁判しなければならないのである(それは裁判所の訴訟行為である)。そのために用意されたのが「証明責任」である。すなわち、「証明責任」とは「訴訟上一定の事実の存否が確定されないとき、不利な法律判断を受けるように定められている当事者の一方の不利益」であり、そして、「いずれの当事者がこの不利益を負うか」を定めるのが、証明責任の「分配」なのである(三ケ月章『民事訴訟法』[法律学全集35。1959年、有斐閣]405頁)。すなわち、「履行をしない」と認定すれば損害賠償請求が認められて乙(被告、債務者)が不利益を負うことになり、もし「履行した」と認定すれば損賠賠償請求は認められず甲(原告、債権者)が不利益を負うというのが、「証明責任を負う」ということなのである。

 以上のように、どちらに認定しても「裁判」は可能なのであって憲法第32条の要請を満たすことができるのである。だから、事実の真偽(存否)不明の場合には、常に、その事実は偽(不存在)としなければならないということは憲法第32条から出てこないのである。したがって、司法研修所の先の説明は間違っていると考えられる。すなわち、証明責任の定義とその分配を区別していないのである。

確かに刑事裁判では「疑わしきは罰せず」であって、「真(存在)」と確信を得られない限り「偽(不存在)」であって法律効果(有罪判決)発生を認めることは許されない。これは、刑事裁判は国家権力(警察・検察・裁判所)から国民(の基本的人権)を守るという憲法の根本法理(憲法第13条。それは憲法第37条、同第33条、34条、35条、36条、38条等に発現している。)に基づく手続であることに由来する。しかし、民事裁判は違う。民事裁判は相争う複数の私人の権利関係に決着をつける手続である。そして、民事裁判では、国家権力(裁判所)は私人間の法的紛争に対して憲法第14条の「法の下の平等」すなわち“公平に扱うべし!”という根本法理が働くのである。だから、証明責任の「分配」における先の「不公平」は憲法第14条第1項に違反するのである。そして、司法研修所の説明にも拘わらず、実務においても、このような「不公平」に対しては疑問が提起されて、例えば、間接反証理論が生まれた(新潟地判昭和46年9月29日下民集22巻9〜10別冊198)。

 それでは、この証明責任の「分配」は、どのような基準によるのか。まず、第1は公平原則を具体化した証明法規範が存在すれば、それに従う(例えば民法第32条の2、同第117条第1項、同第181条、同第719条第1項後段)。第2に公平原則を一般的に規定した信義則規定に依拠する(民法第1条第2項。例えば禁反言、証拠隠滅、民訴第224条)。最後に、第3として、第1、第2が存在しないとき、「抽象的公平原則」による(憲法第14条第1項。例えば、いずれの当事者にとって証明が容易か、証拠に近いか)。

主張責任の機能

 ここで、1点だけ付け加えておきたいことがある。

 この主張責任の法的根拠として、もう1つ挙げられるべきは憲法第82条第1項である。すなわち、“裁判は対審をもって行われる”ことが要請されている。「対審」とは、いうまでもなく、「相手方当事者を対立関与されて行う訴訟の本格的な審理の場面」である(竹内昭夫ほか編集代表『新法律学辞典 第3版』[1989年、有斐閣]927頁)。民事裁判においては「口頭弁論」を指す。何故に、この「対審」が要請されるのか。それは「民事紛争は対立当事者の間での法的利益の衝突・抗争である。公正な判決のためには、当事者双方にその言い分を十分につくす機会を平等に与えなければならない。これを双方審尋主義(当事者対等の原則・武器平等の原則)という。当事者双方を同時に対席させて弁論・証拠調べを行う必要的口頭弁論は、この双方審尋を実施する審理法式(対審。憲82)である」(中野貞一郎ほか・前掲書223頁)。そこには、少なくとも、要件事実について主張がなされ、双方当事者がそれについて十分に言い分を尽すことが当然に含まれているはずである。それは、正に、いわゆる「反論可能性テーゼ」が憲法第82条第1項の求めるものであるということである(法解釈における「反論可能性テーゼ」については、平井宜雄『著作集Ⅰ 法律学基礎論の研究』[2010年、有斐閣]155頁)。

 そして、裁判所は両当事者の主張した事実だけしか取り上げられないということになれば、当事者にとって予期しない事態となることはない。すなわち、「主張責任」が「不意打防止」の機能を与えられたものであることが明らかとなる。

 したがって、「主張責任」の法的根拠は憲法第13条(私的自治(自己責任)原則)と憲法第82条第1項(対審構造に基づく不意打防止)の2つであるというべきである。

 そして、その分配基準は、憲法第76条第3項(実体法的意義)から、法律要件分類説ということになる。

両責任は無関係

 このように、主張責任と証明責任は、その法的根拠も異なり(2)(前者は憲法第13条と同第82条第1項、後者は憲法第32条と同第14条第1項)、その働く領域も異なり(前者は当事者の訴訟行為の領域、後者は裁判所の訴訟行為の領域)、その機能も異なり(前者は不意打防止、後者は真偽[存否]不明でも裁判可能)、その分配基準も異なり(前者は法律要件分類説、後者は公平原則)、したがって、“両責任の所在が一致することは両責任の意義から導き出される論理的帰結である”というドグマは到底維持することは出来ないのである。両責任は別々の分配基準によって分配されるのであるから、“偶”一致することはあっても、そこには、何ら“法則性”はない。

 以上のように、権威に対して常に疑問を抱き挑戦していく、ということは法学徒が常にモットーとしなければならず、それは、故三ケ月章先生がいわれた“通説からの自由”と軌を1つにするものなのである、と、まあ私も“権威”に依拠した言葉をもって締めくくりとしよう。

(1)主張責任においても、当事者の訴訟行為が終了して初めて問題となるが、ここにおいては終了と同時に主張責任を負うか否かが定まる。すなわち、主張がないと不存在となり主張があれば存在となるのであって、裁判所の訴訟行為は残っていない。

(2)証明責任においても、私的自治原則(自己責任原則=行為責任)の働く側面も存在するが(例えば、民訴第224条)、通常そして原則として問題となるのは、当事者が証明活動を尽した後の「結果責任」(三木浩一ほか『民事訴訟法』[2013年、有斐閣]260頁)なのであり、それを(前者も含めて)如何に法理論的に根拠付けるかが重要であり、これこそが本稿の目的なのである。

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