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特別企画

碧海純一先生を偲んで(1) 学問と思想

碧海純一

Aomi Junichi

Profile

1924年生2013年歿。尾高朝雄教授に師事し法哲学を専攻,尾高教授急逝後,1959年に神戸大学法学部から東京大学法学部に転任,1985年東大定年退職後,放送大学,関東学院大学でも教鞭をとる。多くの法哲学研究者を育て,日本法哲学会理事のほか,法哲学社会哲学国際学会連合(略称IVR)の理事を長年務め,IVR名誉理事長の称号も受けた。1991年,その学問的業績に対し紫綬褒章受章。

 

まえがき

 戦後日本法哲学界の指導者の1人,碧海純一東京大学名誉教授が,昨年(2013年)7月18日に逝去された(享年89歳)。先生の功績を記念するため,「碧海純一先生追悼シンポジウム」が同年9月28日に東京大学山上会館で開催された。シンポジウムは2部構成をとり,第1部「碧海先生の学問と思想」では長尾龍一氏・嶋津格氏と井上が,先生の業績を回顧し検討する報告を行い,第2部「碧海先生の思い出」では,碧海先生と交流の深かった樋口陽一氏・太田知行氏・濱井修氏・黒田東彦氏・松村良之氏・青木人志氏・森村進氏が,それぞれの経験に即して,先生のお人柄を偲ばせる逸話を披露された。有斐閣のご協力により,本号で第1部の報告要旨を,次号で第2部のスピーチ要旨を掲載させていただく。

 

東京大学大学院 法学政治学研究科教授 井上 達夫

科学哲学としての碧海法哲学

東京大学名誉教授 長尾龍一〔Nagao Ryuichi〕

1 生い立ち

 碧海純一先生の父君康温氏(1883〜1945年)は東大文学部哲学科・文学部地質学科卒。学生時代金田一京助・石川啄木と親交を結び、啄木「ローマ字日記」に、金田一君の部屋を訪れると碧海君がいて1時間ばかり雑談した、という記事がある。卒業後文部省勤務、地理教科書編纂官として関係著書がある他、『弓道講座』に「本多流弓道」という文章がある。東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)で講義をもち、生徒の生田ミツ氏(1896〜1937年)とやがて結婚した。先生の母君である。

 先生は1924年生れ、31年女高師附属小学校、37年武蔵高等学校尋常科入学、43年同高校卒業。暗い時代で、先生も37年に結核の母と死別、父の再婚もあって、波乱の日々であった。高校卒業後、東大に入学してほどなく学徒動員、海軍に志願、佐世保・呉で戦争末期を過ごし、広島原爆跡を早い時期に目撃した。自宅は45年5月の空襲で全焼、父の死。一家を支える義務を負い、占領軍の公募に応じて極東軍事裁判資料英訳の仕事に従事。そこで津田塾出身の美代子夫人(旧姓里見)とめぐり会った。

2 哲学青年

 先生は終戦時21歳、いわゆる「戦中派」である。戦中派の典型的イメージとしては、軍国主義時代に少年時代・青年時代を送り、軍国主義教育・皇国精神に洗脳され、本土決戦を決死の覚悟で迎えようとしていたところで敗戦、環境の激変に一時方向感覚を喪失した後、逆方向の左翼運動に突進するか、一種の実存主義的ニヒリズムに陥るかというような人々が思い浮かぶ。この変身に納得できず、「やはり俺は死ぬべきだったのだ」として自刃した三島由紀夫のような人もいるが。碧海青年はそういう人々とはまるで違っていた。

 旧制高校生としてはじめて「哲学」というものに接したわたくしが、この伝統ある学問についてうけた第一印象は、興味と疑惑とのいりまじったものであった。わたくしは、哲学者たちが答えようとしている問題についてふかい興味をおぼえると同時に、かれらがその解決のために用いてきた方法とその成果について名状しがたいほどつよい不信の念をいだいたのである。(『(初版)法哲学概論』「はしがき」)

 

 戦争中「大東亜共栄圏の哲学」なるものを説く哲学者たちの書いたものを読んでみたが、何をいっているのか全然わからない。ABCといろいろ並べて、「ゆえに」といって結論を出すのだが、ABCは全然その結論の論拠になっていない。森嶋通夫氏が、昭和十八年の「学徒出陣」の際田辺元が演説して、「諸君は死ぬ。私は生きる、これが生即死の弁証法だ」とかいうのを聞いて、一生二度と哲学者という人種とはつきあいたくないと思ったとどこかで書いていたが、私もまったく同様の印象でしたね。(研究会報告、長尾「碧海先生と弟子たち」『自由と規範』418頁)

 

 その種の哲学への不信から、「日本語で書かれたものはみんなインチキだ」と思い、外国書のみを読み漁った、電車の中で横文字の本を読んでいると、「非国民」だと暴行を加えられる恐れがあり、本にカバーをつけた、という(「読書開眼の記」『時の法令』1096号)。

3 バートランド・ラッセルと「ウィーン学団」

 時流から独立したこの自立的精神を養った環境の1つが、武蔵高校の知的世界であった。特に文理大教授で講師の下村寅太郎先生によって、ラッセルにめぐり会った。

 

 旧制高校2年の頃の夏、――思えば太平洋戦争のさなかの窮屈な時代だったが、――数人の同級生と当時たしか明大前にあった下村寅太郎先生のお宅へ上って、いろいろお話しをうかがった。先生はその時ラッセルの偉大さを力説されたので、私は早速古本屋でOur Knowledge of the External WorldやThe Analysis of Matterなどを探してきて読んでみた。当時ベルクソンやホワイトヘッドなどに興味をもちながらも、かれらの神秘主義的傾向に不安を感じていた私は、ラッセルの説得力にすっかり魅せられてしまった。(『バートランド・ラッセル著作集』「月報」)。

 

 読んだ書物が科学哲学的認識論の本であることは、先生の自然科学志向を物語る。1970年2月、『朝日新聞』に寄せたラッセル追悼文で、彼を「タレース以来の西洋哲学の正統を現代において代表する思想家」と呼んでいる。

 ラッセルとともに、哲学に対して抱いた不信や不満を「ときほぐしてくれた」のが、ウィーン学団の論理実証主義である。彼らは第1次大戦後ウィーンで結成された偶像破壊的な科学者・科学哲学者の集団で、経験を超えた議論を「形而上学」として排撃した。彼らは「経験的検証の不可能な命題は真でも偽でもなく、ただ無意味なのだ」と主張する「意味の検証理論」によって、伝統哲学の大きな部分の意味を否定した。彼ら、及びそれに共鳴したドイツや東欧の学者たちの多くは、ナチ時代に英米に亡命した。先生は(1950〜52年の)米国留学中、彼らの著書の多くに接した。

4 カール・ポパー

 30代前半の作品である『法哲学概論』(1959年)は、ドイツ観念論の強い影響下にあった日本の精神界・法哲学界に対する正面からの挑戦で、大きな衝撃を与えた。しかしやがて、ウィーン学団のもつ問題点と、法学者としての碧海先生のありようとの両面から、立場の修正を迫られたように見える。第1に「意味の検証の理論」の射程が大き過ぎ、未来に亘る全称命題、即ち法則命題がすべて検証不可能で無意味とされる、という問題に直面した。第2には法規範をその一種とする規範命題も検証不可能で、経済学や社会学のような経験科学的社会科学以上に、法学と論理実証主義を架橋することには困難がある。

 このような状況の中で、先生はポパーにめぐり会った。既にハーヴァード時代、著書に接していたが、1961年の来日を1つの契機として、彼のウィーン学団批判に着目した。ポパーによれば、全称命題はすべて仮説で、検証不可能である。ただ仮説は1つの反証事例によって覆される。科学の世界は、仮説間の反証合戦であり、それによって認識は進展する。この科学論は「開いた世界の自由競争による進歩」という政治思想と結び付く。

 政治的イデオロギー闘争からは迂遠であった論理実証主義からポパーに視野を転ずることにより、碧海先生の政治的言論が促進され、新左翼の非合理主義や中国の文革などが批判の対象となる。当時先生の講義を聴講したある学生の「考えてみれば、学問の没価値性を最も強調された碧海先生の講義が一番政治的発言が多かったですね」という観察ともなるのである(前掲 長尾、421頁)。

 しかしそればかりでなく、「この宇宙の中でおそらくきわめて特異な位置を占めている人間という驚くべき存在」(『法哲学論集』107頁)という着眼が、現代自然科学の延長線を超えた人間への関心を喚起し、自由意志問題や言語問題への関心を更に促進したのであろう。これらの問題は、ニュートン力学によって否定された、目的因や形相因というアリストテレス哲学の問題とも関わるのである。

明晰さの探求は成ったか

──碧海先生の哲学世界とその外部──

千葉大学大学院 人文社会科学研究科教授  嶋津 格〔Shimazu Itaru〕

1 否定される種類の哲学

 碧海哲学の痛快さは、その勇敢な偶像破壊にある。破壊される偶像は、世界観哲学であり、世界史的予言を与える歴史主義であり、価値に関する自然主義である。これは、広い類型に属する哲学にたいする一般的な否定である。そして、否定されるものの中に、大応援団を従えるヘーゲルと、当時政治状況との関連でより深刻な対立の渦中にいたマルクスが含まれることで、碧海理論は人々による毀誉褒貶の的となった。この否定において依拠されるのは何らかの「科学」像であり、そこで支持される立場は(現代)合理主義(1)である。

 

 「宇宙の本体」「存在の意義」「善の本質」(を問うような)……哲学においては、……あるのはただ体系の交替にすぎない。時代的に後に来る体系がその前の体系よりすぐれているかどうかは、……誰にもわからない(2)。(1954年)

 

この文章の逆が期待されている哲学であるから、それは、「後に来る体系は前の体系の誤りを証明し、より優れていることが他の者にもわかる」ような哲学である。ちなみに自然科学においては、新旧の理論間でほぼこの「進歩」の関係が成立している。たとえば、日経サイエンス誌には毎号「サイエンス考古学」という欄に、50年前、100年前、150年前のサイエンティフィック・アメリカン誌に載った記事が抜粋・紹介されるが、どれも内容は古色蒼然というしかない。たとえ高校生用であっても現代の理科教科書を50年前の先端科学者たちが見たら、その進歩に驚嘆するとともに、内容上それと矛盾する部分では自分の説の誤りを、嫌々かもしれないが認めるであろう。もちろん問題は哲学において、そんな明晰な進歩主義的教科書を作ることが一体可能なのか、にある。ただその成功如何は不明でも、それを目標に掲げて探求することはできるだろう。以下本稿では、未完の明晰性探求プロジェクトとして碧海哲学を捉えてみたい。

 ちなみに不明晰な理論に対する碧海の拒否は、たとえば以下のような文章に表れる。

 

 哲学者を「単なる」科学者から区別するところのものはかれが「宇宙の根本問題」を「直感」、「理性」その他一種玄妙不可思議な認識能力をもって、把握し解決するところにある、とされた。……科学の暫定的代用物(としての役割はあったかもしれない)……。しかし、十九世紀以降のこのような大げさな体系は、人知をおくらせこそすれ(益はない)……。この種の形而上学的体系のもっとも不幸な、もっともグロテスクな例として、論理実証主義者はヘーゲルの体系をよくひきあいに出す(3)。(1956年)

 

2 否定のための理論的基礎とその変遷

 この否定を行う際の理論的基礎として碧海が最初に採用したのは、M・シュリックらウィーン学団の論理実証主義であった。この立場は哲学の焦点を言語論にシフトする。そして命題が意味をもつ場合を限定することで、その限定の外にある命題を「無意味」として否定する。それらは形而上学的命題であって、真でも偽でもありえない。真偽を問題にできるのは、論理的整合性が問える分析命題と、経験との対応を問える経験命題のみだ、というのがもっとも単純化した場合のそのテーゼである。命題の有意味性基準としての検証可能性テーゼ、と言われるものである。

 この点をもっとも簡潔明快に述べた論理実証主義の教科書ともいうべきA・J・エアー『言語・真理・論理』は、碧海論文でも引用されている。しかし、初版を1936年に26歳で出版したエアーはこの本の1946年版の序文ですでに、「この本が扱っている様々な問題が、どの点でもこの本が言っているほど単純だというわけでないことを、この10年の間に私は理解するようになった」(4)という趣旨の留保を加えている。

 私は、「検証」と訳されるverifyは字義通り「真化」と訳した方がよい、と考えている。そうするとverifiabilityは「真化可能性」になる。つまり、経験命題は、何らかの経験によって真にされうるのでなければ無意味なのである。ではそれは、どんな経験によってなのか。考えてみると、命題Pにかかわる経験Eは命題ではないから、それが直接Pを真にすることはできない。それを命題化したものは、経験を語る命題にすぎないから、やはりそこからPを演繹することはできない。それ以上に、一般に科学法則は普遍言明または全称命題として表現されるが、それを有限個の経験で真にすることなどできるはずもない。 これはヒュームやポパーが問題にする点である。そうすると、科学に依拠しようとして出発した論理実証主義は、科学の成果である自然法則を表現する命題を形而上学として排除せねばならなくなってしまうのである。

 その後碧海は、自分の立場を「論理経験主義」と呼んだりする時期を経て、最後には、論理実証主義に対する鋭い批判者でもあるポパーの哲学に拠り所を見いだすようになる。ポパーは批判的合理主義を唱えるから、一応合理主義者に属する。『開かれた社会とその敵』で、プラトン、ヘーゲル、マルクスを批判しており、元来の碧海の立場とよく整合する。ポパーは、当初科学方法論から出発し、帰納論理の不存在と反証可能性による科学と非科学の境界設定を中心に論じた。ただ、そこで科学法則に与えられる認識論上の地位は、反証(falsify:偽化)を免れている仮説、というだけのものであるから、真化はいつまでもなされない。それに法則仮説の反証は、occurrenceと区別されるeventに関する反証仮説の験証(corroboration)と一体として行われるので、帰納を完全になしに済ませているわけでもない(5)。また、発見仮説的な形での形而上学の意義は認めるから、反証可能性がないものでも捨てられるとはかぎらない。むしろその方法論上の意味は後期の進化論的認識論においてより明確になるように、批判的な場において仮説が生き残り進化してゆくプロセスの確保を重視するが、前期のようにプロセスと独立に批判(反証)可能性を論じることは少なくなってゆく。政治的・道徳的・価値的イシューの解決を想定するなら、そうでしかあり得ないだろう。ポパー自身は合理主義的な肌合いの人物だが、上記のようなポパー哲学自体の枠組みは、私の考えでは、伝統主義やある種の保守主義とも親和的でありうる。

3 実証主義と教養

 結論として、碧海の明晰性探求プロジェクトは未完であって、科学方法論または認識論(エピステモロジー)という刀で敵を切ろうとして危うく自分(自然科学)の首を落としそうになり、首を救えるだけの穏健な竹刀にすると、それでは敵との戦いにほとんど使えない、といった経緯をたどった気味がある。多分これは、方法論一般に言えることなのだと思う。この種の理論は大きすぎて切れすぎるか、なまくらで役に立たないか、どちらかなのである。

 実証主義または啓蒙主義の枠組みを鵜呑みにして、物理学などの自然科学をモデルにして哲学を学ぼうとする哲学入門者たちは、大幅な手抜きができることになる。物理学教科書が長い伝統をもつ占星術や錬金術を教えないように、哲学教科書は誤った哲学理論をすべて省略して正しい(というか批判にさらされながら生き残っている)と想定される哲学理論のみを教えればよいことになるだろうからである。しかしこれは哲学または思想の貧困化であり、現在どの哲学が生き残っているのかの問自体が、論争的な大論点なのである。だから、ここで必要なものは、「正しい」理論だけを集めた論点集なのではなく、矛盾する立場を包摂する際限のない教養である。哲学者碧海の実際の魅力は、実証主義がばっさりと切り捨てたはずの形而上学を含む深い教養を、彼が豊かに保持していたところにある、と私は考える。たとえば、ヘーゲルの(不必要と思われる)難解さをめぐる某教授との論争の際も、碧海はドイツ語のパッセージを直ちに暗唱して見せて、「ではこれはどういう意味でしょう」と問うのであった。相手の答えは「書いてあるとおりです」という愚かなものだったが。

 

(1) 現代合理主義は、理性の限界を自覚する点で、啓蒙時代の古き合理主義と異なる、というのが『合理主義の復権』1973年、木鐸社、における碧海の説明である。

(2) 『法哲学論集』1981年、木鐸社、10─11頁

(3) 同書、68頁

(4) A. J. Ayer, Language, Truth and Logic, 1975(1946), Pelican Books, p.7

(5) 拙稿「発見の論理と心理──ポパー理論の批判的検討に向けて──」上原・長尾編『自由と規範』1985年、東京大学出版会、参照。

追悼シンポの報告として拙稿「碧海純一先生のご逝去と追悼シンポジウムの報告」日本ポパー哲学研究会『批判的合理主義研究』2013,Vol.5,No.2,pp.54-56

碧海法哲学の内的葛藤

東京大学大学院法学政治学研究科教授 井上達夫〔Inoue Tatsuo〕

 カール・ポパーが強調したように、アナクシマンドロスが師のターレスを批判した範に倣い、門弟が師の学説を批判し乗り越えるのを奨励することこそ、批判的合理主義の実践の精髄である。批判的合理主義を熱心に唱道した我が恩師、碧海純一を追悼するこの場で、その学問と思想への私の内在的批判を以下に呈示するが、これは亡き恩師の学恩に最も真摯に報いる方途と信じる。碧海の学問と思想は、せめぎあう2つの魂を内包していた。この内的葛藤は碧海の研究の強い推進力になると同時に、碧海法哲学の基盤に亀裂を生み、その原理的統合の障害となった。2つの側面から、この内的葛藤に照明を当てたい。

1 論理実証主義と批判的合理主義との間で

 主著『法哲学概論』の初版(弘文堂、1959年)において論理実証主義の立場から法哲学の革新を図り、学界に大きな衝撃を与えた碧海は、その後、ポパーの批判的合理主義に強く影響され、後者の立場に「転向」したと、一般には考えられている。しかし、批判的合理主義の影響を反映して改訂を重ねた主著の後の諸版が示すように、碧海は経験的な事実判断の領域でのみ批判的合理主義を受容し、価値判断の領域では論理実証主義のメタ倫理学説たる価値情緒説を保持し、価値相対主義の陣営に留まり続けた。

 事実判断には批判的合理主義が、価値判断には論理実証主義が適用されるというように、この2つの哲学が「棲み分け」られるのなら、碧海における批判的合理主義の「半面的」受容も可能であろう。しかし、この2つの哲学は、かかる棲み分けを許さない原理的対立を内包している。価値情緒説は論理実証主義の検証主義的意味論を前提とし、これを価値判断に適用して、価値判断は検証不可能なるがゆえに認知的意味を欠き、主観的感情の表出・惹起という非認知的意味しかもたないと主張する。しかし、批判的合理主義は検証主義的意味論を否定し、原理的に検証不可能な自然科学の法則命題が認知的意味をもつように、価値判断も検証不可能だとしても客観的・間主観的な妥当性を問える認知的意味をもつとするから、価値情緒説とは両立不可能である。実際、碧海が崇敬したポパー自身、価値判断には真理値(真偽)とは異なるが、正・誤という客観的な妥当性査定値が帰属するとし、価値情緒説を含め価値相対主義一般を明示的に斥けている。しかし、ポパーのこの価値相対主義批判に対して、碧海は「慇懃なる無視(benign neglect)」とでも言うべき態度をとった。

 碧海のかかる哲学的二面性の背景には政治的理由もある。その論集『合理主義の復権 ── 反時代的考察』(再増補版、木鐸社、1981年)が示すように、政治思想家としての碧海は左右の全体主義を批判し、Liberal Democracy(以下LDと略記)の政治体制を強く支持していたが、価値相対主義と批判的合理主義は認識論としては異なっていても、同じLDという政治体制を正当化する点で政治的に連携できると考えていた。価値相対主義によれば、すべての価値観は等しく相対的だから、異なった価値観を抱く者へのリベラルな寛容と、どの価値観が国政を指導すべきかは価値観の内容ではなく支持者の数で決まるとする民主主義とが擁護される。他方、批判的合理主義によれば、いかなる主体も可謬性を免れないから、対立する見解を抱く人々の間での批判的討議の自由の保障と、批判的修正に開かれた暫定的決定原理としての民主主義が要請される。碧海は、政策目的選択は価値判断だから、価値相対主義的なLD擁護論が妥当し、政策手段選択は目的と手段との因果関係に関する事実判断だから、批判的合理主義のLD擁護論が妥当するとし、2つの異なった認識論が同じLDという政治体制を正当化するのは、この政治体制の支持可能性をそれだけ高めるものであるとして歓迎する。

 しかし、価値相対主義と批判的合理主義とのかかる政治的提携は不可能である。政策手段選択も、政策目的と随伴効果(side effects)との価値衡量を不可避的に伴うから、価値相対主義を保持する限り、批判的合理主義からのLD擁護論は占める場所をもたないというのが1つの理由である。もう1つのより根本的な理由は、この2つの哲学的認識論は、同じ政治体制を擁護するのではなく、LDについての2つの対立競合する構想をそれぞれ支持するから、両者の間の二者択一は政治的にも回避不可能だということである。価値相対主義は、多様な政治的選好を政治的決定に最大限反映させるために権力共有とコンセンサス型意思決定原理を要請する「反映的民主主義」を支持し、批判的合理主義は、理念的・機能的整合性のある代替的政策体系の競争的淘汰のために政治的答責性の明確化と権力交代の促進を要請する「批判的民主主義」を支持する。私はLDの構想としては批判的民主主義が反映的民主主義より優れていると考える(詳細は拙著『現代の貧困――リベラリズムの日本社会論』〔岩波現代文庫、2011年〕第3部参照)が、いずれにせよ、2つの政治体制構想には折衷不可能な原理的対立がある。

2 尾高朝雄と宮沢俊義との間で

 碧海における論理実証主義由来の価値相対主義と批判的合理主義との哲学的葛藤は、法哲学・法理論における碧海の2人の先達、すなわち、敬愛した恩師尾高朝雄と、もう1人のメンターとして心酔した宮沢俊義への「忠誠の葛藤」をも生んでいる。

尾高シューレを中心に。前列向かって左より2人目が尾高教授,その背後が若き碧海先生。(写真提供:福田平氏)

 碧海にとって、尾高朝雄は、巨匠の学説に対する批判性と強靭で明晰な自説構築力をもち、ドイツ観念論の伝統から出発しつつも現象学の経験主義的側面を重視し、英国経験主義と批判的討議を重視するミルの自由論へ接近した点で、批判的合理主義を先取りする法哲学者であった。他方、宮沢俊義は、フランス的明晰性とエスプリをもち、啓蒙的合理主義の伝統を継承しつつ、ケルゼンの価値相対主義的イデオロギー批判を独自の仕方で発展させた点で、価値相対主義を自家薬籠的に展開した憲法学者であった。

 碧海が高く評価したこの2人の先達、尾高と宮沢が真正面から対決したのが、いわゆる「ノモス論争」である。宮沢の八月革命説に対し、尾高は、宮沢の立脚点たるカール・シュミットの政治的決断主義が法の根拠を超法的な支配者の意思に還元し「法の支配」を否定するものであるとしてこれを批判し、「人の支配」を超える「ノモス主権」論を唱えたが、戦前の天皇制もまた「常に正しき統治の理念」を志向しノモス主権を貫徹していたとして「国体」持続論を併唱したために、宮沢から「天皇制のアポロギヤ」として糾弾され、またノモス主権論も空疎な「心がまえ」にすぎないと一蹴された(尾高朝雄『国民主権と天皇制』〔青林書院、1954年〕、宮沢俊義「国民主権と天皇制」、同『憲法の原理』〔岩波書店、1967年〕281頁以下所収参照)。政治的恣意を統制する法の支配の理念を擁護した尾高が天皇制擁護論に走り、「内在的制約説」で立憲主義的人権保障の強化を唱えた宮沢が、哲学的には政治的支配者の意思の優越を説くシュミット的決断主義や人権思想を相対化するケルゼン的価値相対主義にコミットしていたという、戦後日本における法の支配の理念の迷走とも言うべき問題がここにある(拙稿「法理論の戦後的原点と現代的位相」『UP』2011年11月号1頁以下所収参照)。

 碧海は、旧ソ連や中国の共産主義体制が日本の左翼にまだ強い影響力を有していたときからこれを厳しく批判したために、保守派と見誤られているが、確固たる戦後民主主義者であり、ノモス論争については、恩師尾高ではなく宮沢に軍配を上げた。また、護憲派的立場を明確にとりつつ、戦後憲法だけでなく、戦後日本における農地改革・労働者保護立法等の「立法による社会改革」の革命性を重視し、社会民主主義的弱者保護と功利主義的合理性追求を結合する立場からこれを支持した。しかし他方で、尾高のノモス主権論の志を継承発展すべく、権力に対するnegative feedbackとして法の支配の理念を再解釈・再擁護し、立法による社会改革推進と法の支配の理念の動態的な統合を図った(放送大学教材として刊行された2つの碧海の編著『日本の社会と法』〔1987年〕、『現代日本法の特質』〔1991年〕の碧海執筆部分参照)。かかる動態的な法の支配の理念は、可謬主義に立つ批判的合理主義と親和的であっても、可謬性概念を掘り崩す価値相対主義とは相容れず、碧海の哲学的葛藤は、2人の先達に対する忠誠の葛藤を調停する試みをも困難にしている。しかし、戦後日本において迷走した法の支配の理念を再定位して再生させる企ての萌芽がそこにある。この萌芽をいかに成長発展させるかは後に残された我々の課題である。私も拙著『法という企て』(東京大学出版会、2003年)等でこの課題の遂行を試みているが、恩師が課した宿題について、今後さらに探求を続けてゆきたい。

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