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書斎の窓

コラム

権威への挑戦(上)

京都大学名誉教授 前田達明〔Maeda Tatsuaki〕

 古来、日本の法学界は権威に弱い。例えば、ある法学者がドイツの高名な法学者ヘルビッヒを引用して「ヘルビッヒ氏余ト又同説ナリ」と書いたというエピソードが今に伝わっている。そして、このような傾向は現在も変わっていない。例えば、ロースクール教育が始まって以来、ロースクールの教員は、否応なく、講義においても著述においても、要件事実や主張責任そして証明責任(立証責任、挙証責任、Beweislast)といった法律用語について語らなければならなくなった。しかし、それぞれの内容、定義、両責任の分配基準と云った根本問題については、ほとんどの場合、司法研修所の “教科書”(『増補 民事訴訟における要件事実 第1巻』[1998年、法曹会])に依拠するにとどまっている(司法研修所余ト又同説ナリ(?))。このように司法研修所という “権威” に依拠しているだけで良いのであろうか。思うに、それでは、到底、法学の発展は望めない。そこで、仮にそれが「蟷螂の斧」であるとしても、私は “王様ハ裸ダ!” と声を上げたいのである。

 そこで、非法律家の読者諸賢にもご理解いただけるように、議論の前提を明らかにしておきたい。

憲法と法律の立場

 周知のように、日本国憲法は三権分立制度を採用しているが、司法権の担い手たる裁判所は(憲法第76条第1項)、裁判をするにあたって、「憲法及び法律にのみ拘束される」と憲法第76条第3項は定めている。この憲法第76条第3項には2つの意義がある。すなわち、裁判をするには、その裁判の内容は憲法も含めて民法をはじめとする実体法の定めるところに合致していなければならず(憲法第76条第3項の実体法的意義)、また、裁判手続自体が憲法も含めて民事訴訟法をはじめとする手続法に合致していなければならない(憲法第76条第3項の手続法的意義)、というのである。

 このことを民法第415条を例にして見てみよう。民法第415条は「債務者がその債務の本旨に従った履行をしないときは、債権者は、これによって生じた損害の賠償を請求することができる(以下略)」と定めており、債務不履行にもとづく損害賠償請求権を認める規定である。すなわち、債務者が債務を履行しないために債権者が損害を受けたということを法律要件として、債権者に損害賠償請求権が発生するという法律効果が定められているのである。そこで、裁判所は、この法律要件に該当する具体的事実(この事実は一般に「要件事実」と呼ばれている[司法研修所・前掲書3頁])の存在が認められるとき、この法律効果の発生を認めることができる、というのが憲法第76条第3項の「実体法的意義」なのである。そして、「法律効果の発生に必要な要件事実は当事者が口頭弁論で主張したものに限られ、主張がなければ、たとえその事実が証拠によって認められるときでも、裁判所がその事実を認定して当該法律効果の判断の基礎とすることは許されない」。「このように、ある法律効果の発生要件に該当する事実が弁論に現れないために裁判所がその要件事実の存在を認定することが許されない結果、当該法律効果の発生が認められないという訴訟上の一方の当事者のうける不利益又は危険を一般に主張責任と呼んでいる」(司法研修所・前掲書11頁)。この前段を「弁論主義」と呼んでいる。弁論主義も主張責任も裁判手続上の法律用語であるから、憲法第76条第3項の手続法的意義に鑑み、その法的根拠が必要である。まず、弁論主義について考えてみよう。それは、損害賠償請求権などという私権の発生・不発生、そして、その行使・不行使は当事者の「自由意思」に委ねられているからである。すなわち、民事裁判では「私的自治原則」が働くのである。そして、「私的自治原則」の法的根拠は憲法第13条であるといわれている。次に、主張責任は、この弁論主義の論理的帰結であるから、その法的根拠は同じく憲法第13条ということになる。したがって、民法第415条の例でいえば、当事者が「履行をしない」という事実を主張しないときは、損害賠償請求権の発生が認められず(損害賠償請求権の発生を望むのならば主張すればよいのである)、原告(債権者)が不利益を負う(原告が「主張責任」を負う)ということになる。

司法研修所の “ドグマ”

 しかし、司法研修所は、民法第415条については、売主甲が買主乙に物を売って、その物を引き渡したのに乙が代金を支払ってくれないという例をあげて、違ったことを述べている。「例えば、売主甲が乙に対して、売買代金とともに代金債務の遅延損害金を請求するには、甲は、請求原因として、①甲と乙とが売買契約を締結したこと ②甲が乙に右売買契約に基づいて目的物を引き渡したこと ③甲が乙に対して売買代金の支払いを求める旨の催告をしたこと ④損害の発生とその数額、を主張立証すべきであるが、『乙が右代金債務を弁済しなかったこと』まで主張立証する必要はない」(司法研修所・前掲書258頁)。すなわち、司法研修所の立場では、以上のように、「代金債務の履行をしない」ということを原告甲が主張する必要がないということである。何故、このようなことになるのだろうか。それは、司法研修所は「証明責任と主張責任とは同一当事者に帰属するはずのものである」(司法研修所・前掲書21頁)として、履行の有無についての証明責任は債務者が負う、したがって、履行をしたという事実の主張責任も債務者が負う、と結論付け、前述のように説示するのである。それでは、もし先の乙が①②③は認めるが、④は不知(否認)と答弁したとき、裁判所は④についてのみ審理することになり、①②③は審理の対象にならない(両当事者が争っていないのだから)。そして、もし損害額が金50万円と認定したとき、判決主文は “乙は甲に金50万円を支払え” となるが、判決理由は “①②③は争いのない事実である。④については云々である” となる。そこでは民法第415条が法律要件として定めている「履行をしない」ということは何ら認定されず、書かれない。このように、法律要件該当事実たる「要件事実」の認定なしに損害賠償請求権の発生を認めることは民法第415条に反しており、ひいては、前述のように憲法第76条第3項(実体法的意義)に違反する判決である、ということになる(1)。では、このような批判があるにも関わらず、何故、司法研修所は “証明責任と主張責任とは同一当事者に帰属するはずのものである” というドグマを採用するのか。このドグマの根拠として、司法研修所は、次のように説く。「ある要件事実について証明責任を負うということは、その事実を証明できなかった場合に、これを要件事実とする法律効果の発生が認められないという不利益を受けることを意味し、他方、ある要件事実について主張責任を負うということは、その事実が弁論に現れなかった場合に、裁判所がその要件事実を判断の基礎とすることができず、結局、これを要件事実とする法律効果の発生が認められないという不利益を受けることを意味するから」(司法研修所・前掲書20頁)、前述のごとき “ドグマ” に到達するのである。確かに、弁済(履行)したか否かということは、民法典の立場からして、その証明責任は債務者に負わせるのが妥当であろう。というのは、民法第486条は、弁済者(履行者)は弁済受領者に対して受取証書の交付を請求できる、と定めており、もし、後に弁済(履行)の有無が争いになったとき、弁済者(履行者、債務者)が、この受取証書をもって、“弁済(履行)をした” という事実を証明すべきであると考えているのである。

 ここで、証明責任という法律用語について検討しよう。これは司法研修所の説明によれば、「法律効果の発生が認められるためには、その要件事実が欠けることなく存在する必要があるから、訴訟においてその存在が争われるときは、証拠によってこれを証明しなければならず」「この証明が出来なかったときは、当該法律効果の発生が認められないことになる。このように、訴訟上、ある要件事実の存在が真偽不明に終わったために当該法律効果の発生が認められないという不利益又は危険を証明責任と呼ぶ(客観的証明責任と同義)」(司法研修所・前掲書5頁)というのである。

民法の素直な解釈

 しかし、民法第415条は「履行をしない」を要件事実として規定しているのであるから、その主張責任は甲(原告、債権者)が負い、民法第486条に鑑みて、その証明責任は乙(被告、債務者)が負うというのが民法の解釈として素直であると考える。しかるに、司法研修所は、“ドグマ” に固執して、民法第415条から「履行をしない」という要件事実を放遂し、「履行した」という “要件事実(抗弁)” について乙(被告・債務者)が主張責任と証明責任を負うというのである。このような民法の解釈は妥当であろうか。そこで、まず、この “ドグマ” が問題であり、そのような “ドグマ” の前提として、当たり前に思える証明責任についての定義が疑問である。

 次回、この点について検討してみよう。



(1) もっとも、現実には、裁判所には釈明義務(民訴第149条第1項)があって、このようなことは起こり得ないであろう。

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