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渋谷秀樹[著]『憲 法』<2007年12月刊>(評者:学習院大学法科大学院 戸松秀典教授)=『書斎の窓』2008年10月号に掲載= 更新日:2008年11月20日

オーソドックスな体系書のオーソドックスでない試み


本書の「はしがき」の冒頭は,次のように述べる。「本書は,日本国憲法の解釈を中心に叙述する憲法の体系書である」と。そして,類書が数多くあるにもかかわらず,「目標を掲げてあえて執筆を進めた」とも。このことばにつづく論述は,700頁余に及んでいるが,完成原稿はこれよりもっと膨らんでいたところ,最後の段階でかなり削除したとのことであるから,このこと自体に,本書にかけた著者の情熱を,また,著者の勇気をも感じさせられる。そこで,私は,本書についての書評を書こうという気持ちになったのである。
法律学分野には,体系書とか概説書と呼ばれ,それが大学の授業で教科書として使われることとなる書は非常に多い。とりわけ,憲法の体系書・概説書は,その数において他のものに抜きんでている。長年,憲法学を専攻し,大学で日本国憲法の講義に携わってきた私も,教科書となるような体系書・概説書を書こうと思ったことは何度かある。しかし,その思いを実現しないで今日に至っているのは,そのような多量の類書状況に照らし,己のものを出現させる意味があるのかと,逡巡していたからである。こういうわけで,本書の著者の渋谷教授には,私にはない「情熱と勇気」を強く感じた次第である。


内容に立ち入って見てみよう。
まず注目させられたことは,著者が「本書の体系は,……極めてオーソドックスな体系を採っている」と宣言しているものの,オーソドックスとは受け取れない体系化をしていることである。確かに,「憲法総論」,「人権総論」,「人権各論」,「統治機構総論」,および「統治機構各論」のタイトルを付した五つの編で全体が構成され,この順に論述するところは,伝統的な体系書の方式だといってよい。これをもってオーソドックスということはできよう。しかしながら,その各編の細部をのぞくと,伝統的体系書に馴染んできた者にとって,かなり異質だと感じる場面に出会うこととなる。
その代表例をあげてみると,まず,人権についての論述で,憲法一三条,三一条,および一四条を「第2編人権総論」中の「第3章人権通則」において扱っていることである。そして,これらの条文が幸福追求権,適法手続原則,および平等原則を保障するとか,憲法一三条と一四条が包括的人権を定めているといった,代表的体系書・概説書が採用していた名称や把握の仕方を拒否している。著者は,これらの三つの条文の規定自体が,「個別具体的な権利の享有のあり方にいわば通則として関係する」(171頁)ととらえているのである。私は,これを一つの見識として尊重したいと思いつつも,学説上,これらの条文に関して積み上げてきた議論とこんなにはっきり決別してよいものかと,途惑ってしまうのである。
さらに,「第3編人権各論」において,見慣れない方式で体系化がなされていることに目が奪われてしまう。それは,日本国憲法の規定している個別の人権を,「身体の所在」,「経済生活」,「精神生活」,「共同生活」の4つの類型に配分していることである。「身体の所在」とは従来の人身の自由の範疇に該当し,言い換えにすぎないとして通り過ぎると,次の「経済生活」では,憲法二五条の生存権や憲法二八条の労働基本権が取り込まれているから,経済的自由の言い換えではないことに気づかされ,「精神生活」が精神的自由の名称の単なる言い換えではないだろうと注意して読み進むと,集会の自由や結社の自由が「集う自由」の命名のもとに「共同生活」の類型の中におかれていることを発見するといった具合である。著者は,熟考のうえ,「人間の生活領域に対応した分類に基づいて再構成した」(5頁)のであろうから,私が軽々にこれに論評を加えることをすべきでない。 ただ, 思わず,オーソドックスな体系書といいながらオーソドックスでない試みを世に問うているではないかと,呟いてしまった。また,以前,憲法の体系書・概説書はみな同じようなものばかりでまったく面白くないと批評したある裁判官のことが浮かび,これぞ彼が期待していた書なのかもしれないと思ったのである。
この新規の類型化について,論評の意図はないが,心配の気持ちは打ち消せない。それは,日本の社会が司法試験,公務員試験,司法書士試験などなど厳しい試験制度に支配されており,渋谷『憲法』で勉強した者が,それとは異なる人権の類型化のもとに出題された問題を無事解答して合格できるかという心配である。出題者には,渋谷『憲法』にも必ず目を通して,公平な試験の実施をするよう願いたい。


自己の関心との関係でどう書かれているかを見ることは,この種の体系書・概説書の評価をする際には許されるであろう。
私は,前述したように,逡巡に打ち勝てず憲法の体系書の執筆をしていないが,それとは別に,憲法訴訟の体系書を,類書がないことを幸いとして,おずおずと世に問うた。それゆえ,本書が憲法訴訟のことをどのように扱っているのか大変気がかりである。すると,著者は,「憲法訴訟は,裁判所に付与された違憲審査権の実践であるから」(5頁)として,これを裁判所の項の中で扱っている。私は,これについては不満である。憲法訴訟は,日本国憲法の具体的実現,すなわち憲法秩序の形成の場面として観察すべきであって, 裁判所による違憲審査権 (私は,司法審査権と呼ぶが)の実践という理解では狭すぎると思うからである。もっとも,裁判所あるいは司法について叙述する箇所で憲法訴訟を扱うことは,体系書として特異であるわけではない。憲法訴訟の議論が盛んになってきた1980年代から,多くの体系書が憲法訴訟の章や節を司法との関連で設けることを通例としており,本書もその傾向を踏襲しているといえるからである。
しかし,憲法訴訟の扱い方は,日本国憲法について語るときの基本姿勢に関係していると,私は思っている。従来の,というより圧倒的多数の憲法体系書は,日本国憲法の解釈を示すことをその基本としてきた。本書もそうである。すると,憲法学者としての著者が憲法の規定について,それがいかなる意味内容と考えるかを語ることは,体系書の主要な内容となる。著者自身の考えは,当然,他の学者の考えとの比較を伴うこととなる。つまり,学説が意識されるのである。他方,現実には,憲法訴訟により生み出される判例が存在し,そこにも憲法の意味が示されている。この学説と判例との間には,憲法の意味の提示として,決定的な違いがあると私は思う。学説は,憲法研究者(憲法に限る必要はないが)の見解であって憲法秩序の形成に何らかの貢献をすることがあっても,それが憲法秩序の内容そのもの,つまり法ではない。これに対して,判例は,憲法秩序の形成の役割を担い,また,憲法秩序の内容となっている。したがって,「学説・判例は,○○の意味としている」などと,両者を同じレベルにおいて語ることは,正しい憲法の意味の説明となっていないというべきである。
本書がこのことをどの程度意識しているものか,即断できない。人権の各論においては,判例内容の様相に力点をおいた叙述がなされているが,他方で,「学説・判例」はこうであると語る箇所も認められるからである。


憲法研究者は,他の憲法研究者の執筆による体系書に対して,とかく自分勝手な注文をつけたがるものである。私もこの書評でそうしている。しかし,一般の読者においては,研究者独自の注文よりは,本書の体系書としての有用さについての関心が強いはずである。そこで,最後に,これについてふれておこう。
憲法の体系書は,読者が日本国憲法の実情を知りたいと思って参照したとき,それに応える内容となっていなければならない。本書は,この点について,満足が得られるであろう。近年の法制度改革や判例の動向などについて偏頗なく取り込まれているからである(たとえば,第5編第2章の「地方政府」の箇所をみるとそれが明らかである)。憲法条文にだけ依拠して,憲法のもとに形成されている憲法秩序を視野に入れない憲法論議は,およそ憲法を語るものとはいえない。本書は,憲法論議らしい論議を展開した書として,参照する価値があると断言してよい。
しかし,読者の要求に本書が存分に応えてくれるか,すなわち体系書としての完成度はどうかとの問いに対しては,少々渋い返答をせねばならない。各項目や事項の間で,繁簡よろしきを得ないところがあったり,不要といえる論述がみられたりするからである。これは,著者自身が自覚していることのようである。「いきなり完璧な体系書を公刊することは現実には不可能であると割り切った」と。しかし,「漸次改善して行きたいと思う」ともいう(「はしがき」参照)。著者は,研究者として,現在,最盛期にあるといえる。今後,補正,補充,改良などが加えられ,完成度の高いものとなっていくことが期待される。
(とまつ・ひでのり=学習院大学法科大学院教授)

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